第九〇話 他と個の境界

 ふと見ると、ボス部屋の奥に扉があるのが見えた。

 クラウは驚き半分、納得半分。なるほどどうやら彼女たちは、自身が敗北し、殺されかけたあの黒鬼を打倒したらしい。

 黒鬼の姿が見えないことと、自分がこの部屋に入った時には存在しなかった扉。それらが示すのは、ボス打倒によるダンジョンクリア達成という事実と、それを裏付けるお宝部屋の出現だ。

 しかしながら、黒鬼戦後にこの状況となれば、それはもう災難という他ないだろう。

 ……まぁ、今の状況がどういうものなのか、その詳細はさっぱり理解できていないクラウなのだが。


「本当に、この娘らは一体どういう事情を抱えているのやら……」


 未だ目を覚まさず、痛々しい姿で横たわるオルカを見やり、クラウは一つため息をついた。

 その時である。状況に変化が現れた。

 瞑想を続けていた銀髪の少女が、唐突にすくっと立ち上がったのである。

 クラウはようやく何か進展が見られるのかと期待半分、そして『また暴れだすかも』という事前の警告もあり、警戒半分。

 油断なく身構えつつ、遠目に少女を観察していると……。


「……は……?」


 ほんの一瞬。瞬きをするほどの間に、少女はクラウの懐に潜り込み、拳を引いていた。

 その顔に表情は一切なく、しかし印象的なほどにその目は赤く。

 そして何より、無機質なその殺意と威圧感。

 今度こそ死ぬ。そう、確信するほどの恐怖を頭が理解する間もなく、拳は突き出され。


「あが……っ」


 果たしてその拳はクラウのみぞおちを叩く寸前でビキリと止まった。不自然なほどの寸止め。

 しかし、それでなおクラウは内臓を丸太で潰されたような凄まじい衝撃を感じ、その体はいつの間にか石畳の上を数度バウンドして、ゴロゴロと転がっていた。

 生きている。息ができずにのたうち回り、かと思えば咳と一緒に血を吐いたが、それでも生きている。しかしクラウはまずそのことにこそ驚いた。

 全く反応できなかった。完全に殺されると思った。それがどうしてだか、死なずに済んだらしい。


 もはやあの少女は、銀髪の彼女は、先程角を生やし暴れまわっていた時とは別格。

 相対してはならない相手だと心底悟った。

 だがどうする。クラウはオルカという少女を守らねばならない。

 銀髪の少女は、拳を半ばまで振った酷く中途半端な姿勢で、ピタリと制止して動かない。それだけ見ていると、まるで時間でも止まったかのような錯覚を覚えそうになる。


 しかしながら、彼女の立っている位置は拙い。そこはクラウが直前まで構えていた場所であり、直ぐ側には今もオルカが意識のないまま倒れているのだ。

 曲がりなりにも彼女を守ると約束した。命を救われた恩義がある。決して反故には出来ないのだ。

 クラウは痛む体をゆっくりと起こし、慎重に銀髪の少女へ近づいていく。いや、正しくはその側にいるオルカへ。

 銀髪の彼女は自身が想像していたよりも遥かに危険な相手だと思い知った。決して正面からぶつかるようなことになってはならない。

 だから、今こうして彼女の動きが停止している間に、オルカを抱えてこの場を去る。

 もし少女が再び動き出し、クラウに襲いかかってきたなら、次こそ一巻の終わりかも知れない。

 確かに一度見た動きだ。二度目は多少反応できるとは思う。が、それだけだろう。

 彼女の拳は容易く盾や鎧すら貫くはずだ。そんなものを、上手く受け流せるとも思えない。


 どういう理由で銀髪の彼女が動きを止め、そして今も微動だにしないのか。それはさっぱり分からない。

 だけれど、行動するなら今だ。

 クラウは意を決し、極力彼女を刺激せぬよう静かに駆けた。あまり気配を殺すことには長けていない彼女だが、そこはそれ。一流の冒険者なれば、人並み以上には出来るもの。

 緊張も恐怖も押し殺し、焦る気持ちを必死に押さえつけながらクラウは、オルカを救うべく彼女のもとへと近づいていくのだった。

 さながら、凶悪な獣の眠る塒へ足を踏み入れるような心細さの中、クラウはどうかそのまま止まっていてくれと銀髪の少女に祈りつつ、慎重に足を進める。



 ★



 ギルドの訓練場を模して作り出されたフィールドは、今やメチャクチャになっていた。

 さながらバグを起こしたグラフィックのように、あちらこちらで破綻が生じており、そうでなくとも鬼の攻撃にさらされて惨憺たる有様である。

 そしてその鬼はと言うと。


『う……ぐっ!』

『ミコト様、すみません! まだ、制御が……っ』

『私は大丈夫だから、集中して!』

『は、はい!』


 狂ったように狂化のビームを撒き散らす奴は、今やただの鬼にあらず。

 それは、半ばまでココロちゃんと融合したキメラめいた姿となり、さんざん邪魔してきた私へ向けて一切の遠慮もなく襲いかかってくる。

 私はそれをどうにか避け、避けきれないものは正常化の魔法で凌ぎ、辛うじて自身の身を守っていた。

 半ば融合しているココロちゃんも、アバターの制御権を鬼側に握られてしまっているらしく、なんとかそれを取り戻そうと四苦八苦している有様だ。

 幸い彼女の意識が弱ったり、消えそうになっているということはないみたいで、体は動かずとも口は動かせるらしい。


 数々の壁を砕き、とうとう最後の障壁を突破したココロちゃんは、鬼の力を受け入れるべく奴へ近づいた。

 そうしてその手が触れた瞬間、内なる鬼との融合が始まったのだ。

 私がキャラクター操作を行使する時とは異なり、どちらが粒子状に変わるわけでもなく、互いのアバターが形を変えて少しずつ一体となっていく。現実ではないとは言え、実に奇妙な光景だった。

 がしかし、融合が半ばほど進んだ辺りで突然鬼が暴れだしたのだ。しかもココロちゃんの体さえ操って。

 それから今に至るまで、私は防戦を続けている。

 ココロちゃんが鬼を制御するまで、ただひたすらに耐え続けなければならない。

 もしここで私がリタイアするようなことになれば、次はココロちゃんが狂化の餌食となるだろう。

 私を排除するために傾けているリソースをココロちゃんにつぎ込んで、形勢を一気に有利なものとするはずだ。そうなればなし崩し的にココロちゃんの精神は削り取られてしまう。

 だから、私がやられるわけには行かないんだ。


『くっ、なんで! どうして!』

『ココロちゃん、大丈夫だから、落ち着いて!』

『うう、でも急がないと、ミコト様が!』


 焦って感情や集中が乱れているせいか、なかなか成果を挙げられないでいるココロちゃん。

 私の言葉も、今は慰めにすらならないみたいだ。

 このままじゃ拙い。なんとか立て直してもらわないと、私にもいよいよ限界が見えてきている。

 ココロちゃん程ではないが、私も流石に焦り始めた。そんな時である。

 私へ攻撃を集中させていた鬼が、しかし突然狙いを私からココロちゃんへ変えた。

 今や自らの半身と化しているココロちゃんめがけて、目からビームを放つ気でいる。

 そうはさせじと、急ぎココロちゃんを正常化魔法のバリアで守る。

 が、これは誘いだった。

 誘いと予想は出来たが、それでも手を抜くことなんて出来なかったのだ。ここでココロちゃんにヘイトが移ったのでは、取り返しのつかないことになりかねない。

 結果、私は鬼に対して僅かながら付け入る隙を晒してしまうことになった。

 鬼はそれを見逃さず、これまでにないほどの強烈なビームを放ってきた。流石に受けきれる威力じゃない。


 私は辛うじて躱したが、しかし完全ではなかった。左腕を持っていかれてしまった。

 瞬間、狂化の影響で一瞬意識が飛んだ。脳みそをぐちゃぐちゃに握りつぶされたんじゃないかと思うような、とんでもない衝撃に意識がショートした。

 耳に届いていたココロちゃんの悲痛な叫び声が、ブツリと途切れる。


 ――そうして次に目覚めた時。

 私のアバターは散々な有様だった。足が消し飛んでおり、胴体にも穴が空いている。

 そして目の前には、今正にとどめを刺そうと腕を振り上げた鬼の姿。ココロちゃんの絶望した表情が酷く印象的で、私は咄嗟に正常化魔法で鬼を弾き飛ばした。

 幸いここは精神世界。壊れたアバターは、私の想像力で修復することが出来る。

 だけれど、そのためにも精神力は消耗するし、自身をこの場所にとどめておける時間ももう僅かしか残されていない。

 だというのにここに来て、ココロちゃんの受けた衝撃は大きかった。


『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ココロが、ココロがダメだから……ミコト様が……あああ……ぅあああ』

『ココロちゃん、私なら大丈夫だから! ココロちゃん!』


 くっ、ダメだ。今の彼女はどうやら、何も耳に入らないような状態なのだろう。

 私の呼びかけは届かず、鬼は勝ちを確信したかのように元気よく暴れまわる。

 私は必死に避け、防ぎ、ココロちゃんへと呼びかけ続けるけれど、このままではもう持たない。

 何とか、何とかしないと本当に拙い……。


 私がほんの一瞬意識を失っていた間、鬼はココロちゃんの自由を奪ったまま私のアバターをいたぶったのだろう。

 それはココロちゃんにとって、これまで幾度となく体験してきた惨劇の焼き直しか、それ以上に辛いことだったのではないだろうか。

 何せ今回は意識を失うこともなく、自身の体が勝手に私を傷つけるさまを、まじまじと見せつけられたのだから。

 それはトラウマをほじくるような、とてつもない衝撃を彼女にもたらしたはずだ。

 罪悪感に苛まれ、放心状態のままうわ言のように謝罪を繰り返す。痛々しい姿だ。

 だけれど、今一度立ち直ってもらわなければならない。そうでなければ、終わりなのだ。


 必死に考えを巡らせ、そうして私がようやっと捻り出した言葉は、しかし自分でもがっかりするような安いものだった。


『ゆ、赦すよ! ココロちゃんに殴られても、鬼にビームを撃たれても、怒ってないし赦すから! だから頑張って!』


 ごめんなさいって、ココロちゃんは言ってた。

 だから私はそんな安直なことを言ったのだろう。それにもうそれ以外、言葉なんて見つからなかったというのが正直なところでもある。

 事ここに至り、彼女にかけてあげられる言葉なんて、他に何があるっていうんだ。

 けれど、こんな言葉でも。


『うぅ……みごとざまぁ……ダメなココロでごめんなざい……』


 聞いて、くれたみたいだ。

 だから私は考える。ココロちゃんのことを。私に出来ることはもう、可能な限り鬼の攻撃を退け続けることだけ。

 他に出来るとしたら、言葉を投げることくらいだ。

 だから考える。どんな言葉を選べばいいのか。彼女の背を押せる言葉とは何だろうかと。


 想像してみた。もしも私が誰かに体を操られ、ココロちゃんやオルカを一方的に殴りつけたとしたらどうだろうかと。

 そうしたらきっと私は、私の体を操ったやつを憎むだろう。だってそうだろう。私はそんなことしたくないのに、よりによって私の手で大事なものを傷つけさせられるんだ。それは当然頭にくる。

 ……だが、ここまでは分かりきったこと。ココロちゃんの感じてきた思いとは、正にそれなのだろう。


 だけどふと、考えた。

 悪いのは全部、体を操ったやつであって、私は悪くないのだ。

 ならば先程私自身の吐いた『赦す』という言葉は果たして、誰に向けたものだったのかと。

 ココロちゃんは、鬼が体を操っているのだから、全部鬼が悪いと思っている。その上で、鬼を制御できない自分も悪と思っている。

 私の言った『赦す』は、だとすれば『制御に手こずっているココロちゃんを赦す』という意味で伝わったはずだ。


 でも私が赦したのは、そんなんじゃない。勿論ココロちゃんのことも赦すのだけれど、それだけじゃないんだ。


『ココロちゃん。私は、鬼も赦すよ。鬼も含めて、ココロちゃんを赦す!』

『‼』


 瞬間、がくんと鬼の動きが鈍った。

 果たして、伝わっただろうか。

 少なくとも引っかかりは覚えたはずだ。その証拠に鬼の動きは随分とお座なりになった。


 鬼が悪い。自分は悪くない。悪いとすれば、役目を果たせないことだけ。

 そんな、鬼と自分を区別する考え方こそが、きっと制御の妨げになっているんだと。私はそう思った。

 それが果たして正しいのかも分からないし、ココロちゃんがどう考えているのかも私には分からない。

 それでも、彼女は何かに気づこうとしている。

 もう少し、もう少しだ。彼女にはもう少しだけ、考える時間が要る。


 なけなしのMPを振り絞って、必死に鬼の攻勢をかいくぐる。

 この局面に於いて、意識を肉体の操作に戻してMP回復薬で補充を試みる、だなんて余裕は一切ない。

 かと言ってMPを使い切れば、そこで終わりだ。私は鬼からの攻撃を防ぐ手段を失い、あまつさえこのアバターすら保てるかどうか。

 だから死物狂いで回避に努める。少しでもMPの消費を抑えるために。

 ほんのかすり傷が致命傷にもなりかねないのだ。何せ鬼の放つビームはいずれも、狂化というスキルを可視化したようなもの。触れただけで私の精神をゴリゴリに貪り食ってくる。

 ノーダメージ縛りのRTAなんかもやった覚えはあるけれど、その時とは緊張感がまるで違う。

 ミスれば全部台無し。ココロちゃんも、私自身も、多分死ぬ。それが単純に恐ろしくて仕方ない。

 それでも必死に耐えしのぎ、神経をすり減らしながら、私はひたすら回避を繰り返した。この調子だと多分、新しいスキルとか生えてきちゃうな。ちょっとだけ楽しみが出来た。


『ココロと一緒に、鬼も赦す……ココロは……でも、鬼は……鬼のせいで……鬼の……せい?』


 ピタリと。

 不意に、鬼の動きが止まった。


『鬼も含めて、ココロ……なのに、鬼のせい……それは……』

『ココロちゃん……』


 どうやら、私の憶測は的を射ていたらしい。

 鬼の挙動はますますぎこちなくなり、そしてココロちゃんの体は止まっていた融合の過程を再開した。

 もうほんの少し。もうちょっとで、ココロちゃんが鬼を制御できる。その確信を得た。


『頑張って、もうちょっとだよ! ココロちゃ――――』


 ようやっと勝ちが見えた。もう後ほんの少し。だというのに、私のMPも精神力もとうとう底をついてしまったらしい。

 アバターは操作を受け付けなくなり、視界も平衡感覚も、何もかもがぐちゃぐちゃに歪んでいく。

 そうしてついぞ、私は唐突に意識を手放してしまったのである。

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