第八九話 消せない後悔
それは彼女が初めて、親しい人を半死半生の状態にまで追いやってしまった時の記憶だった。
ココロちゃんは一度怒らせると尋常じゃなく暴れてしまうということで遠巻きにされ、心無い人達から誹謗中傷や陰湿な嫌がらせを受けることもあった。
わざと怒らせ、暴れさせ、ここから追い出してやると。そんなことを奴らは宣った。
ココロちゃんは必死に我慢した。その町には、彼女に良くしてくれた女の子がいたから。
だけれどある日、奴らの嫌がらせはその子にまで及んだ。
とうとうココロちゃんは耐えきれなくなり、大暴れしてしまう。
――そして気づけば、ココロちゃんの足元にはその子が倒れていた。全身グシャグシャで、生きているのが不思議なほどの有様だった。
町を出る際浴びせかけられた罵声の中に、あの娘はあんたを止めようとして、なのに当のあんたからメチャクチャに殴られたのだと。そんな声があった。
勿論ココロちゃんは、あの子のことを綺麗に治したけれど、深く傷ついたその心までは癒せなかった。
そしてココロちゃんにとってもそれは、胸に深い深い傷を残す結果となった。
鬼さえ。
自分の中に鬼なんてものさえいなければと。
そう強く憎んだ。
今私達の目の前に立ち塞がっているこの分厚い障壁は、ココロちゃんのそんな記憶。
根の深い問題だ。だってこれは、鬼だけじゃない。ココロちゃん自身の罪悪感まで絡みついている。
今を幸せに生きたいから、なんて理由で乗り越えられるものじゃない。
こんな事をした自分が、幸せなんて求めていいのか、と。彼女のそんな声が、感情が、ひしひしと伝わってくるようだった。
全てを鬼のせいにしてしまえば、鬼を赦すことが出来なくなる。
かと言ってそうしなければ、幸せを掴みたくて足掻く自身をこそ、赦せなくなってしまう。
ジレンマにぶつかった結果、ココロちゃんはとうとうその場から動けなくなってしまったのだ。
『ココロには……ココロには、どうしたらいいか、わかりません……』
『…………』
あまりに重たく、難しい問題だった。記憶を見てしまった私にしても、簡単には彼女にかけてやる言葉の一つも見つからない。
そしてこれが最後の壁というわけでもないのだ。
ココロちゃんはこんな遣る瀬無さを、幾つも抱えていたのだろう。鬼に呑まれそうになるほど精神が弱るわけだ。
私なんかには到底想像することも出来ないような、苦しい時間を生きてきたに違いない。
そんな彼女に、私が何を言えるのだろう。
それでも尚、内なる鬼を赦せだなんて、そんなことが言えるものだろうか?
けれどここで折れてしまえば、ココロちゃんにも、私にも先はない。私を庇って傷ついたオルカだって、再度暴れたココロちゃんの手にかかってしまうかも知れない。
赦さなくていいだなんて、そんな言葉は……。
ん……赦さなくていい……?
『赦さなくても、いいのか……?』
『え……?』
『というか、そもそも赦すとか赦さないとかっていう問題だったのかな?』
はじめから彼女の中に鬼なんてものがいなければ、ココロちゃん自身こんなに辛い思いをすることもなかった。それは事実だろう。
鬼が自分の中にいると知りながら、しかしようやっと出来た親しい友人と離れるのを躊躇ってしまった。そのことが結果として悲劇を招いたのだと言われたなら、それは否定はできないこと知れない。そのせいで後悔したことも分かる。
いずれもココロちゃん自身にとって、赦し難いことだろう。
でも、そうだとして。
『大事なことを、訊きそびれていた。ココロちゃんは……どうしたら満足なの?』
『!』
『ココロちゃんの目標は、普通の人になることだったよね。この内なる鬼をなんとか消し去って、普通の人として生きたいって。でも、内なる鬼とココロちゃんは切っても切り離せないものだと分かった今、ココロちゃんは何がどうなったら満足、或いは納得出来るの?』
『そ、それは……』
鬼を消すことは、鬼を敵視するココロちゃんにとって、復讐のようなものだったのかも知れない。
力に振り回されることのない、普通の人になるというのも、彼女の夢だったのだろう。
けれどこのダンジョンに来て、多くのことを知った。黒鬼からもたらされた情報は、そもそもココロちゃん自身が鬼族の末裔であり、先祖返りのように強力な鬼の力を宿しているという衝撃的なものだった。
消すことも切り離すことも、そもそもからして不可能だったのだ。
ならばそれと分かった今、ココロちゃんにとってどうなったなら納得できるのか。私はそれをまだ、ちゃんと聞いていない。
内なる鬼を制御してくれ、なんていうのは私からの願いに過ぎない。
ココロちゃんがどうしたいかをちゃんと聞くこともなく、無理やりに話を進めてしまった。
それは紛れもない私の落ち度であり、内なる鬼を赦せ、力を受け入れろだなんていうのは私の都合に依るもの。
『ココロちゃんにとっての理想的な落とし所が、鬼を赦すことなんかじゃなく、力を制御することでもなく、いっそこのまま消えてしまうこと、なんてものだったとしたら……私はココロちゃんに望んでもいないことを強要したことになる』
『…………』
『そうだとしたら、鬼も自分のことも赦せないし、折り合いをつけることなんて出来ない、っていうのも仕方のない話だと思う』
『…………』
だけど事実、私は、私たちはここまで来たんだ。
ココロちゃんは私のキャラクター操作を受け入れてくれた。共に戦いたいと言ってくれた。それは紛れもない事実のはずだ。
『もし、鬼も、自分自身も赦せない。それでも尚、私たちと一緒にいたいって、そう思ってくれるのなら……ココロちゃんは、開き直るべきだと私は思う』
『ひ、開き直る、ですか……?』
『そう。ココロちゃんはこれまで、散々な目に遭って、それでも踏ん張ってここまで来たんだ。その結果たどり着いたのが、そもそも鬼の力をどうにかすることなんてはじめから無理でした、なんて結論。あんまりじゃないか。だから、それは一つのゴールだって認めてみたらどうかな?』
『ゴール……』
『ココロちゃんは頑張って、ゴールにまで辿り着いた。鬼の力は切り離せないものだっていう事実を突き止めた。なら、その上でどうするのか。どうしたいのかを考えてほしいんだ』
もしかしたら、私は今ココロちゃんの気持ちを踏みにじるような、酷いことを言っているのかも知れない。
彼女が大事にしてきた想いを、軽んじるような物言いだったかも。
だけれど、何も赦せない彼女には、見つけるべき答えが存在していないように思えたんだ。
それはいうなれば、既に答えの出た問題を延々と見返しているような。『どうしようもなかった』って回答が気に入らなくて、なんとかして別の答えを見出そうと足掻いているようなもの。
気に入らなくても、きっとそれは正解なんだ。どうしようもなかった。そして、それはもう過去のことだというのもまた事実。
この壁を壊すために必要なのは、何を赦せるか、なんてことじゃない。
そんな過去を踏まえた上で、これからどうしたいのかっていうココロちゃんの意思。
『ココロは……償いたいです。今まで迷惑をかけてきた、色んな人達にちゃんと謝りたい。赦してもらえなくてもいい。納得してもらえなくてもいい。ココロの自己満足だって鼻で笑われたっていい……ちゃんと、償いたい。だから、消えたいだなんて思いません。ミコト様やオルカ様とこの先も一緒に居たいっていう気持ちにだって、決して嘘はありません!』
『ココロちゃん……』
『ココロは、確かに鬼を赦せません。後悔だって消えません。だけど、それらに足を取られて進めないのでは、また後悔をしてしまう。なるほど、確かにこれは開き直りかも知れませんね……だとしても、ココロは決めました』
ぐっと、ココロちゃんが拳を握り、振りかぶる。
そうして思い切りそれを、分厚い壁へ叩きつけた。
凄まじい衝撃。足元がビリビリと振動するほどだ。
瞬間、再びフラッシュバックするかのように見えた、あの光景。
だけれど。
『赦せなくても、ココロは鬼の力を受け入れてみせます。その上で、この先を……ミコト様たちとともに歩んでいきます!』
バキンと、強固な壁は崩れ去った。
開き直ったココロちゃんは、無敵だ。
彼女が拳を振る度、目を覆いたくなるような彼女の過去が頭の中に流れ込んできた。
それでも、壁は砕けた。
鬼の抵抗はどんどん激しさを増し、私は正常化魔法にMPを過剰供給してそれを必死に凌いだ。
それでも防ぎきれないものは、体を張ってでも防いでみせた。
気が狂いそうになるような衝撃。目に映る全てが煩わしく思える。それを破壊できるほどの力を感じる。暴力を振るえば、どれほど気持ちいいことか。
なるほど、これが破壊衝動。狂化の誘惑。
私は必死にそれを魔法で中和し、意識を保った。
ココロちゃんは悲痛な表情で心配してくれるけれど、それでも足は止めない。
決して楽な道のりではなかった。それでも私たちは一直線に突き進んだのだ。
★
ミコトがココロと融合を果たし、座禅を組み、瞑想に入ってしばらく。
女騎士クラウは、困惑していた。
「むぅ……助太刀に入ったまでは良かったものの、さっぱり状況が飲み込めん……」
やたらに広いボス部屋。硬い石畳の上でクラウは座るでもなく、かと言って構えるでもなく、もしかしたらまた暴れだすかも知れない、という言葉と、オルカを守ってほしいという願いを聞いて、とりあえず部屋の隅っこまで倒れていた少女を抱えて運んだ。
そして瞑想に入った、あの謎の少女を遠目に観察し続けている。
端的に言って、暇だ。暇と言うか、こうして警戒する他やることがない。
なので徐に彼女は回想する。
この部屋の主たる、黒鬼に挑み惨敗したこと。もう助からないと確信するほどの大怪我を負ったこと。
そこまではまぁ、理解の及ぶ範疇だ。
けれど次に目覚めた時、クラウはなぜか毛布を着て寝ており、その下は下着姿だった。
更にどういうわけか、体には傷一つ残っておらず、何なら古傷までも消えているような有様。
わけが分からず周囲を見渡せば、美味しそうな食事が枕元に置かれており、更にはボッコボコに凹んだ自分の甲冑も見つけることが出来た。生々しい血の跡が、自身の敗北が夢ではなかったのだと如実に教えてくる。
ふと見ると、ボス部屋の扉は全開に開いており、堪らずギョッとするクラウ。
更には部屋の奥からは何やら、物騒な音が断続的に響いている。
ものすごく気にはなったが、とりあえず食事をいただくことにする。見れば置き手紙がされており、『毒は入っていないので、目が覚めたら召し上がってください』とのこと。
おそらく自分を治療してくれた何者かの配慮なのだろう。そしてそれは、今ボス部屋で戦っている者たちに違いないと、そう確信した。
ダンジョンに潜って長らく、保存食しか口にしていなかったため、美味しそうな料理というのにはどう足掻いても勝てない。なので、ボス部屋の様子は気になれど、後回しにしてしまった。
まさか自分をわざわざ治療してくれた者たちが、毒なんて仕掛けようはずもないだろうと思い、貪るように食事を口に運ぶ。その美味しさに咽び泣いた。
そうしてお腹を満たし、ベコベコなれどまだ使える甲冑のパーツをいそいそと身に纏うと、ようやくコソッとボス部屋の中を覗き見るクラウ。
するとどうしたことだ。仮面を着けた少女が重症の少女を魔法で治療しており、その仮面の少女が今正にメイスを振りかざす少女に撲殺されようとしているではないか。
っていうか少女しかいない。黒鬼はどこへ行ったのだろう!?
なにはともあれ、彼女たちのいずれかが、いやおそらくは治療を行っているあの仮面の少女こそが自分の命の恩人であると確信し、クラウは突撃を敢行したのである。
しかしながら、そこから先は急展開の連続だった。
メイスを振り回す少女は、なんとあの黒鬼を彷彿とさせるような一対の角を額に生やしていたのだ。そしてそんな彼女は気でも触れているのか、凄まじい形相で襲いかかってくる。
驚くべきことに、その膂力たるや彼の黒鬼さえ凌ぐほどのものだった。この時点でもう、訳が分からない。
そんなクラウに仮面の少女は、治療するために時間が欲しいと言う。だからクラウは時間稼ぎを買って出た。
他ならぬ恩人の頼みとあらば、是非もないことである。
肝を冷やし、どうにかこうにか時間稼ぎに成功すると、本当に仮面の少女はこの短時間で重症だった少女をある程度回復させてしまった。
かと思えば、次は面妖な術でもって角の少女の身動きを封じたと言うではないか。
しかし真に驚くべきことはその直後に起こった。
仮面の少女が、光の粒子状に分解されたかと思うと、スゥッと角の少女へと吸い込まれていったのである。
するとどうだ、角の少女の髪色が美しい銀髪へと代わり、角が徐々に引っ込んでいくではないか。
銀髪になった少女は、まるで仮面の少女のような口ぶりでクラウに、また暴れるかも知れないから、その時はオルカを守って欲しいと言い残し、瞑想に入ったのである。
オルカとは治療を受けていた少女のことだろう。
クラウはオルカという少女を抱え、銀髪少女から距離を取った。そして今に至る。
「うん……さっぱりわからん」
結局何がどういうことなのか。誰か説明してほしいと首を傾げながらも、律儀にクラウは番を続けるのだった。
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