第151話 お泊まりの練習(1)


 ほたるにごはんを奢らせた——というか勝手に奢ってもらったり、帰りに湊斗のカフェバーに寄ったり、コインランドリーに行って服がふかふかになるのをのんびりベンチで待ってたりで、家に帰ったのは夜の九時半だった。


 誰もいないリビングに明かりを灯すと、リビングに一枚のメモ書きがおいてある。


 見ると『試験おつかれさまです。筑前煮と鮭のおにぎりと碧くんの大好きなだし巻き玉子があるのでたべてください』ときれいな文字で記してあり、頬がふっと弛んだ。


 自分だって学年一位の維持のためにがんばって疲れてただろうに、こちらを労ってくれる繊細な気遣いが、なにより沁みた。


 同時に、来てくれるなら早く家に帰ればよかったな、と思う。


 もうしばらくすればくるみはおやすみの時間だが——まだやり残したことがあるので、スマホで最愛の彼女に文字を送った。


〈もう寝てる? それともまだおきてる?〉


 きっと眠る前の習慣の日記でも書いていたのだろう。数分してから返事が来る。


〈まだおきてる。ちょっといろいろ進めたいことがあって。どうしたの?〉


〈少しだけ待っててくれる?〉


〈? うん〉


 不思議そうな返信を見てから碧は、エレベーターで下へ降りて、夜道をかるいランニングの速度で走り出した。


 いつもの信号を渡り、見慣れた十字路を曲がり、紅葉前でまだ緑の銀杏いちょうの並木道を進んで。


 自分の住宅街とはすぐ隣町なのに、成城という名がつくだけで住居の構えも地価もがらっと別世界になるのだから驚きだ。その辺の公衆電話ですら、庶民が立ち寄れない風格がある気がする。


 やがて到着したのは、くるみの家の前。都内の一等地なのが信じられないくらいのあの白亜の城だ。


 数えきれないほど送り迎えにより何となく分かってきたが、やはりくるみの親は家にいることは少ないようだった。立派な鉄扉のガレージが不在か、あるいは一階に明かりが灯っていないことが多い。


 今日はそのどっちもだが、バルコニーのある二階の角だけは、カーテンの隙間から光が洩れている。


 一度上がったことがあるので分かる。くるみの居室だ。


〈外見て〉


 本当に文字どおり、律儀にそのまま待っていたのだろう。既読が即ついたかと思いきや、ゆらりとカーテンが開き、隙間からのぞいた少女がこちらを見つけて、驚いたように口を開いて動かした——窓で聞こえないが、多分僕の名前を呼んだのだ。


 からからと、二階のバルコニーにくるみが姿を現した。


 さすがに夜遅い時間なのもあって寝る前なのか、繊細なレースと柔らかなフリルをあつらえた白いネグリジェを着ている。


 庭を挟んで若干距離があるので、会話はスマホ頼り。


〈あおくん?〉


 石造りの柵を掴んで身を乗り出すと、夜風にネグリジェの裾が夢みたいにはためく。


〈どうしたのこんな夜遅くに! 会いにきてくれたの?〉


 明かりで逆光になって、表情はよく分からない。


 頼れるのは文字から読み取れる感情だけだ。


〈ここ数日会えなかったなって。あと、料理ありがとう。今日早く帰れなくてごめんね〉


〈ううん! 私がしたくてしたことだから……お礼言ってくれてありがとう〉


 白亜の城を見上げる碧と、それを見下ろすくるみ。


 市井の平民と、名家のお嬢様。


 まるでロミオとジュリエットだな、僕は柄じゃないが、なんて暢気に思いながら。


〈家族ってみんな寝るの早いの? 一階に灯りがないから〉


〈ううん。両親はふたりとも出張中で、あと三日は帰らないんですって〉


〈そっか。本当に寝る前だったならじゃましちゃってごめん。話しておきたいことあったけど、それはLINEに送っておくから明日読んでおいて。僕はそろそろ帰るよ〉


 家路を辿ろうと踵を返したところで、またスマホが震える。


〈待って! 私した降りる!〉


 という文字を見るにつけ、がらがらぴしゃんと、勢いよく窓が閉まる音が聞こえた。やがてがちゃりという玄関の戸の音と、ぱたぱたぱたという忙しない足音が近づいたかと思いきや——


「わっ!?」


 碧が足を止めて振り返ると、急に立ち止まると思っていなかったくるみが、衝突もといぼふっと碧のお腹に飛び込むかたちとなった。


「大丈夫?」


「だ、だいじょうぶ」


 そっと引き剥がしてやると、くるみは恥ずかしそうにぷるぷる震えている。


 何となくからかって遊びたい気もしたが、今の反応が十分に可愛すぎるので、碧は何か言うのをやめた。


 遠巻きだと分からなかったが、ネグリジェは十月下旬に外に出るにはあまりに心許ない格好だ。冷えこんだ夜の空気はさぞ寒いだろうし、こんな姿を通行人なんかに見られたらかなわない。


「それ一枚だけ? 風邪引かない?」


「家は暖かいから大丈夫、だいじょうぶ」


 くるみが大丈夫を二回連続で言う時は、あんまり大丈夫じゃない時だ、というのは長く一緒にいるので分かっている。


 羽織っていたパーカーを脱いで華奢な肩にかけてやると、くるみは一瞬赤くなった後、幸せが滲み出たように口許を綻ばせ、瞳をとろりと細めた。


 それが可愛くてすぐさま抱き締めたくなったが、伝えるべきところを真っ先に言うことにした。


「一つ先に言っておく。今日ほたると凪咲さんに会ったんだ」


「ほたるさん、と凪咲さん……?」


「ルカが勝手に話しちゃったっぽくてさ、彼女できたーって。ほたるはその事を聞きたかったみたいでちょっと……一時間くらいかな、喋ってきた。凪咲さんは連れてかれた先の店でバイトしてて偶然会った。僕らのこといろいろ聞かれたから説明しておいた」


 こういうのは本当に何でもないからこそ、隠さずに堂々と共有した方がいい。


 余計な不安を与えないように淡々と、それでいてしっかり伝え切ると、くるみは納得したようにほわりと目尻を下げた。


「……そっか。それで碧くん今日いなかったのね」


「ごめんね、先に連絡すればよかったね」


「んーん。碧くんの時間は碧くんの時間だし」


 そう言ったくるみは怒ってる訳でも拗ねてる訳でも全くなく、自分と他人をすっかり切り離して、自立しているように見えた。


 くるみは溜めこむタイプで、相手の事を尊重しがちだ。あまりに物分かりがよすぎて、本当は寂しいんじゃないかと心配になってしまう。


「……なんか思ってたよりあっさりしてるね」


「だって私が気にならないように、先回りして言ってくれてるんだって分かるもの。そういう誠実さがあるから、私は碧くんのこといつも信じられるんだなって思う。……うん、信じてるの」


 気丈に言い切る姿が、健気でいじらしくて。そんな彼女を碧は優しく抱き寄せる。


「わっ」


 甘く爽やかな香りと共に、驚いた声がシャツに阻まれ、くぐもって立ち昇る。


 柔らかさを味わうようにぽんぽんと宥め、背中をさすった。


「ぎゅーの日じゃなかったの?」


「今日……土曜日」


「覚えてなかったの?」


「ううん。忘れてない!」


 いつもより力ある語調で言うと、彼女からもむぎゅーっと腕を回してきた。


「今日は出来ないのかなって思って……代わりにうさぎさん抱き締めてたもん」


 何だか今日のくるみは口調がやけに幼なげだった。やっぱり寂しかったんだな、と思うと、つい抱き締める腕に力がはいってしまう。


「別に曜日に拘らずに毎日、朝昼晩してもいいんだよ」


「え? いいの?」


「逆になんで駄目だと思った。彼氏なんだから好きにしていいのに」


「すきに……」


 少し余裕さを取り戻したくるみが、腕の中でいたずらっぽく笑う。


「そんなこと言っていいの? 毎日ひざ枕とか一緒に寝かしつけとかしてあげちゃうかもしれないのよ?」


「うんって言いたくなるけど、いいの?」


 くるみは一瞬きょとんとして、それからしばらく考えてから、柔らかく眼を細める。


「私が、したいの」


 なるほど。くるみもなかなか掌で転がせなくなってきたな、と思う。


 しかし恋人関係においてのリードは男がすべきだ、とモテる男代表格のルカが昔言っていた。主導権を握るべき以上、ここで引き下がるわけにはいかない。


「じゃあせっかくだしそれは任せて、次のとっておきにしておこうかな」


「任されました。他にはしてほしいこと、ある?」


 すっかり世話焼き妖精を発揮するくるみの目が生き生きしていて、やっぱり尽くすタイプだな、と思わず笑いそうになってしまったところを、堪えて言う。


「んー。たまにはくるみからしてほしいとか……かなぁ。前回も僕からだし」


「?」


 分かってなさそうなので、指を狐みたく輪っかにして、自分の頬につんと近づけた。


 意味を理解したらしいくるみが、さっと頬を紅潮させる。


「今、してくれるの?」


 腕のなかの華奢な肩がびくっと揺れて、潤んだ涙目がぎこちなくそっぽを向いた。余裕な振りしてたんだな、と思ったのは、紡がれた次の言葉さえも震えていたからだ。


「ぅ……そ、それは、あの。ゃ……っぱり、また今度、で——」


「あはは。嘘うそ、冗談だよ」


「じ、冗談」


 反応を見て笑うと、からかわれたと分かったくるみがより頬を真っ赤に染め上げて、ぐりぐりと額を押しつけながら抗議の意を示していた。


「そうやって人の反応で遊ぶ。ばか」


「誰かさんが可愛いからなー」


「……そう思ってくれるなら、いい」


 他人のことなど言えた義理じゃないけど、照れやさんなくるみは少しの事ですぐに赤くなるのが、可愛い。


 色白だから紅潮が分かりやすいのもあるかもしれない。


 けどその初心うぶさがありがたい。もしくるみがぐいぐい来るタイプだったら、体がいくつあっても持つ気がしない。今だって高鳴る鼓動が落ちつく気配はないのだ。


 ——だって冗談だなんて澄ましたポーカーフェイスの裏に、どぎまぎと動揺が隠れているなんてばれたらめちゃくちゃ恥ずかしいし。


 それはそうと、このまま次に会う約束もせずに帰るのもなと思う自分もいて。


 だってこんな広い家に一人きり——そんなくるみは、想像するのも、もの寂しい。


 ひとしきり体温を交換し合ったあと、ゆっくり離れてから碧は切り出した。


「……僕さ、明日は予定ないんだ」


「!! じゃあ会える? 私は……もし碧くんが大丈夫なら、会いたい」


「うん。だからさ、明日会ってそのまま月曜の朝、一緒に学校いくのも有りかなって。どう?」


 一緒に夜を明かすにしても、今日はもうこんな時間だから見送って、明日であれば実行可能だろう。そう思って提案したのだが、数秒のラグ。


 とたんにくるみの頬が一斤染になるので『あっこれ勘違いさせたな』と察した碧は、訂正をかける。


「もちろん本物のお泊まりじゃなくて……えと、なんていうか、一緒にいるだけだから。くるみが嫌がることはしないって約束するから」


 だってまだ、たったの一ヶ月だ。


 こんな早くにお手つきをするつもりはないし、その気持ちはしっかり伝えねばならない。


 自分も自分で恥ずかしくて若干舌が回らないなか言い切ると、くるみは溢れそうな羞恥の感情をどうにか逃すように、きゅっと小さい手で碧の服の裾を掴む。


 その反応が、肯定か拒絶か分からない。


 さすがに早計すぎたか、と後悔の念を抱くものの、やがて辿々しい語調で、か細い承諾が腕の中から上がった。


「……その。練習、でいい……なら」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る