第152話 お泊まりの練習(2)


 【お泊まりの練習】とは?

 男女が一緒に眠ることの前段階。転じて、一緒に晩ごはんの支度をしてたべてお風呂を貸してパジャマになって、寝る前のルーティーンを共にこなして、同じ空間の違うベッドで眠りに就くこと——碧辞典から引用。


 

 自分はそう解釈した。では、彼女の方はどうなのか?


 ……訊く勇気がないことは言うまでもなかった。


 翌日の夜。くるみを迎えにいき、マンションへ戻ってから、碧はクローゼットから厚手の毛布を取り出していた。


 清潔なまま仕舞われていたそれは、いわゆるお客さんが来た時のためのもの。リビングにブランケットはあるが、さすがに晩秋になろうというときに、それ一枚じゃ心許ない。


 ふと目に留まったベッドの横の床には、着替えなどが詰まったいつもより大きいボストンバッグと、出番を待っているであろうルームウェアがちょこんとあって、それが否応なく〈彼女がうちで一晩のお泊まりをする〉ことを意識させる。


 もちろん高校生なりの葛藤はある。両想いの恋人同士が、親が不在の家に深夜ふたりきり。大人の階段を登らないほうが珍しいのだと思う。そして『練習』の対義語に何があるのかは死んでも考えない方がいい気がする。


「……今日は、お泊まりじゃなくて一緒にいるだけだから。きっと」


 とりあえず今は、ぶつくさ自分に言い聞かせるように呪文を唱えてからリビングに戻ると、くるみが心ここに在らずな様相でお茶を淹れてくれているところだった。


 だが、スマホを片手に何かを熱心に眺めていて、ポットを持つ手は止まっている。


「…………くるみ?」


 ぼんやりしてたらしいくるみは、我に返ってスマホを伏せた。


「あっ……うん! ごめんね、考え事してて」


「頼むから火傷はしないでね」


「そ、それはこっちの台詞。碧くんも急に来たら危ないんだから。いい子だからいきなり私をびっくりさせないこと。いい?」


「うん。けどくるみも熱湯を片手にスマホは危ないから気をつけたほういい」


「……もしかして見たの?」


 くるみが気まずそうに視線を逸らすので、不思議に思いつつ首を横に振ると、彼女は「ならいいけど」と安堵のため息を落とした。


 どうやら、碧に見られたくないページで何らかの調べ物をしていたようだ。


 もしかしたら、恋人でお泊まりする時の法式を予習していたのかもしれない。なぜなら昨日、碧のスマホの検索履歴も、そんなかんじのワードで埋まっていたからだ。


 同じくこういうのが初めてで疎い彼女もそうなのかな、という希望的観測だった。


 ——そうだよ、初めてなんだ。


 くるみがぼーっとするのは珍しいなと思ったが、梅雨の寝落ち事件を除けば初めての正式な宿泊なので、当たり前だが彼女も多少は、というかけっこう緊張していたに違いない。


 何か喋らなきゃ、と珍しく焦った碧はとりあえず念のための確認をしておく。


「ちなみに……ご両親には今日のこと、ちゃんと伝えてきたの?」


「うん。さすがに男の子の家にお泊まりしますっては言えないし、つばめちゃんのお家にって連絡しておいたからアリバイはばっちり」


「……なら心配事もないか」


 彼女に嘘を吐かせてしまったことにちょっぴり心がちくりとしたが、今の状況からしてそれが最善だろう。


 でも以前話を聞いたかんじからするとくるみに中学までの自由はほとんどなかったと言っていたから、お泊まりを許可することさえ意外だし、いろいろと謎が多いというのが碧から見た楪家の印象で。


 夏のキャンプへの旅行といい、兄と一緒ではあるがオーストラリアに追いかけてくれたことといい、くるみが地道に交渉をがんばった結果、もしかしたら少しずつ彼女の気持ちを理解して、自由にさせてくれているのかもしれない。


 それがなぜだか根拠もなく、嵐の前の静けさのような気がするのは、不可解だけれど。


 いつか挨拶に行くことがあったらそこでどんな人たちなのかが分かるのかな、なんて思いながらふたりぶんのマグカップを持っていってソファに腰掛けると、おずおず後をついてきたくるみも、隙間を少し空けて、右隣にちょこんと座る。


 碧はくるみの目を見て、ふたりの間の猫一匹通れるくらいの距離に目を落とし、それからまたくるみを見た。


 彼女は気恥ずかしげにヘーゼルの瞳を揺らすと、腰を浮かして詰めてきて、腕と腕が大胆にふれあう。ただやっぱり、その動きはどこかぎこちなかった。


「もしかして余裕なかった?」


「……うん。なんか、ね。今日本当に碧くんのお家にお泊まりするんだ……って思ったら、気持ちがオーバーフローっていうか……改めてどきどきしてきちゃって」


「それは僕もだけど……まぁ本当のお泊まりじゃなくて、今日は練習なだけだからね」


「う、うん。そう、練習」


 かちかちになってるくるみを解すように白い頬をやわやわ指でつつくと、少しだけ表情が柔らかくなる。ついでに碧の方も、ゆびさきに伝わる心地よさからすっかり落ちついていった。


 彼女の肌にふれると、どうも幸せな気持ちになるのだ。


 近頃、碧はくるみにふれたい気持ちでいっぱいで、それをどう懐柔するかが問題で。ぽきりと折れそうなほど細いくびれに両手で組んだ輪っかを回してみたいと思うのは、その華奢さが自分にはないものだからだろう。


「ところでそれ何?」


 視野が広くなったからか、存在に気づいたのはキッチンカウンターにある白い箱。


「ベーグルサンドとキッシュですって。晩ごはんに一緒に頂きましょうね」


「へえ。ありがとう」


「上枝さんから頂いたの。今日は学校の子のお家にお泊まりするので晩ごはんは大丈夫ですってお伝えしたら、手土産にどうぞって」


「わざわざ……そっか。僕からもお礼言いたいんだけど」


 何となくくるみのお泊まりの相手が僕なのを分かってて、根回ししてくれている気がする。なら、頼むべき伝言はひとつしかないだろう。


「くるみが明日帰ったら『ありがとうございました』ってお泊まりの相手が言ってたって、伝えておいてくれる? それと」


「それと?」


「……『ずっと大事にします』って」


「ふふっ。おかしな碧くん。あんまり大事にとっておかないで、たべちゃったほうがキッシュも上枝さんも本望なのよ?」


「……そうだね。それはちゃんと頂くよ」


 何も分かってなさそうなくるみはようやく少し緊張が解れたらしく、ピュアな瞳を細めて笑うので、今のところはそれでいいか、と碧も笑って立ち上がり、フォークとお皿をふたりぶん取り出した。

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