第147話 くるみの誕生日(3)


 やがて湊斗とつばめが帰った後、家にはしんとした静寂が再来した。


 唯一の賑やかしになっているのは、重ねた皿をキッチンに運ぶ音だけ。

 ただ、嫌な沈黙ではなく、楽しかった今日をそれぞれが振り返り耽っているゆえの、穏やかで心地のいい静けさだ。


 ——そしてお互い、若干ならない緊張があるせいとも、言えなくもないけど。


『まだ帰したくなくて』


 それを彼女はどう捉えてしまっただろうか。さすがに門限もあるから文字どおり泊まらせる訳にいかない。何より大事な彼女に親との約束を破らせるような真似はしたくない。


 けど、言葉の綾だってある。事実、碧は彼女にふれたい気持ちでいっぱいだった。


「くるみ」


 彼女はリビングでぬいぐるみを抱きしめながら、ひとり大人しくしている。


 おそらく碧を待っているだろうので、碧は皿洗いを後回しにしてくるみを優先することに決め、彼女に近寄った。


「……碧くん」


 くるみは座っていたロッキングチェアを詰めた。隣に来てほしい、という意味だと捉えて、二人掛けのそれをいたずらに揺らさないように、そっと腰を落とす。


 隣の少女のヘーゼルの瞳は、まだ潤んでいるようだった。


「……お祝いしてくれて、ありがとう。すごくすごく嬉しかった」


「喜んでくれたならよかったよ」


「今日から二ヶ月は私がお姉さんだから、子供扱いしちゃだめだからね?」


「そう言っちゃうところが……おっと」


 腕を小突いてきたくるみは、こちらにもたれて、ふふと小さく笑った。


「私ね、どうしてこんなに大事にしてくれるんだろうって、思う時もあるくらい、碧くんが私を想ってくれることに気づいてて、それが本当に嬉しくて……今日の誕生日ではもう溺れそうなくらいで」


 儚げに瞳を伏せながらも、いつだかの脆さは見えない表情で、くるみは訥々と語る。


「けれど両想い、だから、私もされるだけじゃなくて、碧くんを大事にしかえしたいから」


「……うん」


「次は十一月七日。碧くんの誕生日。その日は私からいっぱい、びっくりするくらいのお祝いをさせてね」


「あはは。それ今言っちゃっていいの?」


「え? あっ……。で、でも碧くんの想像を上回るくらいのびっくりをあげるから事前通告してもぜんぜん平気! …………忘れてもいいんだからね?」


 可愛いうっかりやさんの華奢な肩に腕を回す。甘い空気にどきどきと戸惑いを抱きながらゆっくり抱き寄せると、くるみは一瞬身をこわばらせるが、ふっとすぐに許すように力を弛めた。


 そして、今のはただの緊張で、彼女が初めから反発する気などなかったのを、次の発言で知ったのだった。


「わたし……碧くんと出逢えてよかった」


 貰えると思いもよらなかったそんな最上級の愛情表現に、一瞬でまよいは吹き飛ぶ。


 だってそれは、碧が常々思っていたことと、同じだったから。


「それは僕が言いたかった言葉だよ。……生まれてきてくれてありがとう。僕と出会ってくれてありがとう」


 今日、彼女が生まれた日をこうして二人で迎えられたこと。


 さかのぼれば、自分とくるみが出会えたこと。その奇跡と幸福。


 こみあげた愛おしさをすとんと呑み下せば、とある感慨がぽかりと浮かび上がる。小高い丘に登ったみたいに、視界がふとクリアに開けたような感覚。


 その名は、希望だ。


 期待と信頼が混じりあったもの。これから彼女と歩む道に対しての、眩いまでの光明。


 ——くるみと別れる日が来ることは、今後ないんだろうな。


 そう思える、思わせてくれるくるみが好きだ。


 この先ずっと彼女がいてくれれば、それだけで僕は……。そんな、かつて彼女の優しさにふれて抱いて、けれど叶わぬと諦めたはずの脆い祈念が、今ははっきりと光の道標となって、自分を導いてくれる気がする。


 いや、違う。一緒に手をつないで歩いていくのだ、と思う。


 今後きっと長い間お世話になる彼女の温もりを今は享受したくて、かみしめたくて。碧はなるべく真剣に聞こえるように尋ねた。


「帰したくないってはいったけどさ、さすがに親御さんにはまだ怪しまれるようなことはしたくないんだ。だけどその。少しだけ……ふれてもいい?」


 猜疑も警戒も知らないうぶな瞳が、こちらを見上げる。


「……私からも、いい?」


「何?」


「あの、ね。私の希望は……な、なんでもどうぞって言ってくれた、でしょ? な、ら。その、碧くんが今日、門限ぎりぎりまで構ってくれる権利が……ほしい。時間が来るまでいっぱい、いっぱい甘やかしてほしい……です」


 健気に辿々しく紡がれた可愛いおねがい事に、碧はもうどうにかなりそうだった。


 どんなに大人ぶっても高校生。


 こうして、互いに本音で甘える時間が必要なのだろう、自分もくるみも。


 今はすっかり恋人同士の甘美な空気だが、その目にはまだ涙の名残があったので、まずは親指で拭ってやる。首から上はそえた掌にすっぽり収まり、その小ささに驚いた。


 何かを乞うようにこちらを見つめるくるみを、碧は改めて観察し返す。


 ——かわい。


 京都の血筋を引いているというが、儚げかつ繊細なその美貌は、やっぱりどこか日本人離れしていた。


 肩に落ちたつややかな長い栗毛は優しく体のラインに沿っている。桜の花びらみたいに淡く彩られたくちびる、凛とした忘れ鼻、くっきりとした二重と烟るような睫毛によって引き立てられた大粒の美しい琥珀の瞳、大人っぽさとあどけなさが同居した——あまりに完璧すぎて、現実じゃないような目鼻立ち。しかし確かな重みが、手に伝わる体温が、彼女が今ここに存在していることを証明している。


 嫌がるそぶりは、ない。以前碧になら何をされてもいいと言ってくれたのは事実らしく、へにょりと優しく目尻を下げることで、ふれることを許してくれていた。


「……あおくん」


 どこか舌足らずで甘えるような呼びかけに応じるように、そっと近づき——踏み荒らされる前の雪さながらの真っ白いほっぺたに、掠めるくらい慎重に唇を押し当てる。


 愛情をこれでもかと上乗せした、優しい優しいキス。


 自分と同じ人間なのが信じられないほどなめらかな白磁の柔肌からそっと遠ざかると、くるみは大きな物音がしたときのうさぎみたいに数秒のあいだ動かなくなったのち、接吻をしたところから広がるように頬をさっと紅潮させた。


 再び、こいねがうような潤びた眼差し。ぐ、と面映さをのみこみ、それに応えるように、二つ目のキスをゆっくりと、今度は額にする。


 びくり、とくるみの体が僅かに揺れる。


 その次は華奢な右腕を掴んで、持ち上げた。重力に従って少し緩いワンピースの袖が肘まで下がり、肌があらわになる。北欧の人みたいに白く、血管が青く透けて見えるほどの手首にそっとくちづけすると、か細く震える呻きをくるみは洩らした。


「あ……ああ碧くん」


「……ごめん。怖かった?」


「ううん。怖くはない、けどっその……は、恥ずかしかった……だけ」


「今くるみが嫌がることはぜったいにしないって誓う……けれど、止めとこうか」


 すでにくるみは緊張でがちがちだ。


 彼女は女の子で、男である自分以上に余裕がないだろうから、出来る限り気遣おうと思ったのだが、こちらを相当信頼しているのかやはり拒む様子はない。首を横に振ってから、羞恥に細い体をぷるぷるさせつつ次の行動を待っている。


 ——ほんと、可愛い。


 なので碧もいつでも止められるようにと、慎重に頬にくちづけを重ねた。


 制限が掛かってこれ以上先に進むことがない、浅瀬の優しい睦みあい。


 愛の底から順番にひとつずつ積み重ねるように、ふたりの行く末へつながる道へ一本ずつ明かりを灯していくように。


 たっぷりキスを与えながらやがて少しずつ下に行き、やがて辿りついた細い首筋へと顔を埋める。


 より濃密に立ち昇るミルクのような白桃のような甘い香りを味わった後で、くるみを見上げると、夢見るような涙目になっていた。


「……もう余裕ない?」


 こくこく、と頷かれる。


「まあ僕もだけど」


「……そのわりには何だか……手慣れてると、いうか。余裕綽々、というか……っ」


「なわけ、優しくしてるだけで余裕ないよ。だからいっそ、くるみからしてくれてもいいんだけどなって思ったりもするんだけどな」


「で、できるもの! ……けっけど気持ちがまだわーってなってて、追いついてくれなくてっ!」


 切羽詰まった表情で腕をばたばたさせたくるみは、朝に湖を訪れた白鳥のような優雅な挙動でそれを折りたたみ、もじもじと指を突きあわせる。


 この様子を見るに、挑戦したとて見事に撃沈する方に賭けてもいい。けどくるみができると言った以上、そんなことは分かっていても、一度は任せてみることに。


「じゃあ、してみてくれる?」


「あぅ……えと……今はちょっと、勇気かき集め中だから……」


「そっか。今なら痕つけられたって、見て見ぬ振りするつもりだったけどな」


「——っ! だ、駄目!! 折角つばめちゃんから貰ったプレゼントを、そ……そんなはしたないことにつかうのはよくない! から!」


「え?」


 からかうことで可愛らしいお釣りを貰うつもりが、思いがけない返しだった。


 というかなぜ今、プレゼントの話を?


「もう。碧くんだってちゃんと良識あるいい子なんだし分かるでしょ? ……うん、分かるはずよ」


「ごめんちょっと話読めないんだけど」


 ——何? この子僕よりレベル高いことまで知ってるの?


 な訳もなく、あるとすればもしかして、くるみが純情なのをいいことにつばめがおかしなこと吹き込んだのか? とあらぬ罪を着せようとしたところで、答え合わせがされる。


「だってきっ……きすまーくって、リップ塗ってするから残るんでしょ?」


 呆れと衝撃と勘違いの可愛らしさで、一瞬ものを言えなくなった。


 一体どこの世界に、こんな十七歳がいるものなのか。


「碧くん? どうしたの? 碧くんってば」


 ゆさゆさ肩を心配そうに揺さぶられて、はっと我に返る。


 まあシャツに悪戯で残すみたいなのもあるって聞くし——主に昔のドラマに限定されるけど——あながち間違いでもないのだろうか。


 ゆらりと体が崩れ落ち、そのままくるみに寄りかかった。


「なんかさ、慣れてはほしいけど、そのままでいてほしい自分もいる」


「よ、よく分からないけど……あのね?」


 確かに私は、とくるみは言う。


「おつきあいも含めて、その……は、初めてのこと、ばかりだし。碧くんに近寄るだけで、今も心がきゃーってしてるけど、それでもちょっとずつでも、その……がんばりたいって……思ってるんだからね? 碧くんだって、私がずっとこのままだったらやきもき、するでしょ?」


「するはする」


 きっぱり断言し、曲解される前に続ける。


「けど、僕はどんなくるみだって構いはしないよ」


 本当は抑えるのが困難な衝動に今も抗っているのだが、くるみはそれを知ってか知らずか、ぷるぷると震え続ける頬を自らぺちぺち叩いて、やおら気概を注入してみせた。


「は……早く慣れるように。が、がんばるから」


「うん。ほどほどにね」


 そう掌の上で転がして、それからまた何度も頬にキスをする。


 見た目はすっかり真っ赤な林檎なのに、口に広がる味は熟れた白桃のように甘やかな気がするのは、くるみ特有の香りだけじゃなく、滲んだ笑み自体が蜂蜜をとろけさせたみたいに糖度が高いせいだろうか。


 ——彼女が帰るまで、あと一時間足らず。


 早めの門限がここまで恨めしかったことは未だかつてないけど、同時に助けられた気もしていた。


 このまま二人きりで睦みあっていれば、今宵は本当に、家に帰せそうになかったから。

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