第145話 くるみの誕生日(1)
そうして訪れた、九月十四日——くるみの誕生日。
前日までにあちこち奔走していたおかげで、当日はくるみにどたばたを悟られることなく、落ちついて迎えることが出来た。
幸運にも連休と重なってくれたこともあり、つばめの家でのお泊まりを終えたくるみは午前中の早いうちからうちにやってくる。
誕生日の本人が快諾してくれたおかげでつばめと湊斗もお祝い会に招くことになっているからか、ずいぶんときっちりお洒落しているみたいだ。
白をベースにラベンダー風の紫を時折アクセントにした、いつもよりちょっとフォーマルなワンピース。亜麻色の髪は編み込んで、余った毛先は耳の上あたりでくるりと巻かせて、薔薇の花みたいなお団子にしている。
いつものようにソファにちょこんとお行儀よく座って、けれど普段よりかはちょっと緊張している様子で趣味の刺繍やレース編みをしたり読書をした後、まるで日課のように——実際そう言って差し支えない頻度なんだけど——キッチンに立って昼ごはんを用意しようとしたので、そのタイミングで碧は慌てて止めた。
「待って!」
「え? な……なに?」
「なんかすごい働こうとしてるけど。駄目だよ、今日は一日ゆっくりしてなきゃ」
「……あ! そっか。そうよね、うん」
ぎこちなく頷いてエプロンの蝶々結びをいそいそ外すくるみ。本当に働き者なのだが、年に一度の誕生日にまで家事をしようとするのは困りものだ。それに碧はくるみには内緒でまだやることが残っている。
そこで、とっておきの秘密兵器を出すことに。
「実はいいもの貰ったんだけどこれ、映画のチケット」
「! もしかして誕生日のプレゼント? ありがとう……?」
「あはは……違う違う。前にやりたいことリストに書いてあったし映画館行ったことないんでしょ? 僕今からいろいろやることあるし、おひとり様になっちゃうけど冒険のつもりで今から見ておいで」
ずいっと突き出した碧の手の先でぴらりとへこたれた一枚の券には、近頃学校の映画好きでも話題のタイトルが印字してある。
事前に映画館に足を運んで予習をする時間はさすがに取れなかったので、面白いかどうかは知らないが、怖いものが苦手なくるみでも問題ないように、事前にあらすじや批評を調べて危なくなさそうなものを選んだ。ここでセレクトを間違えて、彼女のせっかくの誕生日に水を差すわけにはいかない。
「けどこのチケット碧くんのなのでしょう? 私が貰っちゃうのは、その……」
もちろんくるみの慎ましい人柄上、一度は断ってくることも計算済みだ。
「気にしなくていいよ。ほら、僕こういうのあんま好みじゃないし、どっちかというと洋画とかホラーが好きだしさ」
「うぅ。あの、私が家にいる時はおねがいだから、そういうのはちょっと」
「いいけど、今日で十七歳になった
「そ、そんなことないってば!」
「じゃあ今夜は夜通しホラー映画……あ、いたいいたい。分かったからクッションで殴らないで」
「碧くんのいじわる」
ぷくーっと頬を風船にして抗議したくるみは、さっとチケットを奪った。
「じゃあお言葉に甘えて貰っておくわね、ありがとう碧くん。……でも朝ごはんは」
「余り物あるしさすがにどうとでもなるから。ほら、楽しんでおいで。寄り道しないで帰ってくるんだよ。あともしポップコーン買うなら一番小さいサイズね。大きいのだとお腹いっぱいになるから」
隙あらばすぐ世話を焼こうとするくるみを制して、箱入りお嬢さんの彼女に逆に世話を焼き返して、玄関まで見送った。
ちょっと強引だったかと思ったが、裏の思惑のない親切と見做してくれたみたいで、くるみはわりとすんなり家を出ていってくれた。
*
——おたんじょうびの、お祝い。
いつもより幼い心の独白を、くるみはする。
まさか、彼が誕生日のお祝いをしてくれることになるなんて、思わなかった。
〈他のお家って、どういう風にお誕生日をお祝いしているんだろう〉
そんなことをふと考えてみる。
昔の自分のうちでは、誕生日はひとつだけ、何でもほしいものを買ってもらえた。
可愛いぬいぐるみと一緒にいるのが大好きだった幼き頃のくるみは、毎年ふわふわくまさんを贈ってもらえたのを思い出す。ケーキにろうそく、そんな誕生日を象徴する組み合わせもまた、幸せな記憶と一緒に覚えている。
けれどそれも、小学校に上がる前だ。成長につれ家族は多忙をきわめ、続いた風習はひっそりとなくなった。大学の教授選で勝利した母は、誕生日のある九月が年間で一番慌ただしいらしい。直接言ってくれた〈おめでとう〉は、そのうち上枝に預けた手紙になった。
初めは寂しかった。
けれど、物分かりの悪い子でいたくないから、文句は言わなかった。
両親の期待に応えたい。
その一点において、勉強も習い事もがんばって、がんばって、がんばって——
幼いくるみが一番なかよしだったのは、学校の友達でも近所の同い年の子でもなく、プレゼントのくまのぬいぐるみ。けど枕許に寝かせていたその子も、いつのまにか居なくなってしまった。母が大きくなった娘にはもう必要ないと看做して片づけてしまったのだろう。
だから——碧が空港で買ったハスキーのぬいぐるみをくれたとき、どうしてこの人は私のほしいものが分かるんだろうと不思議だった。
思えばあの頃からもう、碧はくるみを大切にしようとしてくれてた。
読めないところはあるけど、本当に思ったとおりを誠実なままに言って、行動してくれる人。けどそれが、くるみにとってはどんな全肯定の言葉よりもほっとできて、それにまたどきどきさせられて。
そんな彼が、誕生日をお祝いしてくれようとしている。
くるみにとっては小さい頃から数年振りの、バースデーを。
まだ内緒みたいだけど、きっと自分を喜ばせるためにいろいろ計画をしてくれているってことは分かっていた。お祝いはまだなのにその大きな優しさがもう沁みて、九月十四日が終わってしまうことが名残惜しくなってしまう。
——甘えすぎに、ならないかな?
いつも惜しみなく愛情を注いでくれる彼に、自分は何を返していけるんだろう。
日々のお料理、たまに家事のお手伝い。
語学力はすごいくせに、そういうのはだめだめでからっきしな彼に代わってやってあげるくらいで、釣りあう行為とは思っていない。ずっと彼のお世話をしていくんだとは心に決めているけれど、それはくるみがそうしたいからだ。
いっぱい恩返ししたいと同時に、思う。
——どうして私に、そこまでしてくれるんだろう?
*
仕上げにバースデーソングを集めたアルバムを再生して、碧は時計を見た。
上映が終わり、くるみが帰ってくる時間だ。
お呼び立てしてひと足先に到着していたつばめと湊斗と、手ぐすねを引いて待ち構えていると、ようやく玄関から鍵を回す音が聞こえた。
「湊斗こっちこっち」
とつばめが声を潜めながら彼の体を扉の前まで押し、彼女もその横っちょに並ぶ。
——とうとうだ。喜んでくれるだろうか。
と、思ったが碧はあえて玄関には迎えに行かず、彼らと同じく、彼女がリビングに姿を現すのを待つ。
やがて、がちゃりと。
「ただいま帰……」
そう言いかけたくるみが、廊下からスリッパで足を踏みいれて、瞠目した。
どうやら、驚かすことには成功したらしい。一体ぜんたい何を見詰めてこういうリアクションに至ったのか、仕掛け人の碧は全てわかっている。
「……碧くんこれ……」
「お誕生日おめでとう。くるみ」
「おめでとー!!」
「楪さんおめでとう」
あえて朝には言わなかったお祝いの言葉を、連綿とシャワーのように降り注がせる。
彼女を出迎えたのはカラフルな風船や〈Happy Birthday〉が書かれた旗のかざり、壁に咲くペーパーフラワー、そしてつばめがまき散らした紙吹雪だった。
大きい音が苦手らしいのでクラッカーこそ鳴らさなかったが、そこはまさに誰もが一度は夢見るような誕生日そのものの光景。
くるみは何も言わなかった——いや、言えなかったのだ。
まるで賑やかな突風が心を吹き荒れて、それで帰ったら話そうとしていた映画の感想やらが目の前の紙吹雪みたいにとっ散らかって収拾がつかない……そんな表情だったから。
子供っぽくて引かれやしないかというのが唯一の心配だったが、驚く瞳の深いところではきらきらした光が揺れていて、外してはなさそうだなと人心地つく。
「び……びっくりした。もしかして、私のために準備してくれていたの?」
やっと口を開いたかと思えば、出てきたのはごく当たり前の再確認だった。
返事をしたのは湊斗だ。
「俺もついさっき来てびっくりしたんだよ。碧、すごいがんばってたみたいだな」
「いいなあくるみん。彼女のためなら何だってやったるーってかんじだよねー」
「……朝はいつもどおりだったのに」
「だから映画のチケット渡したんだよ。すんなり行ってくれて助かった」
「そっかそれで……。碧くん、私のためにありがとう。皆さんも、私のために集まってくれて……」
と、礼儀正しくぺこりと一礼するくるみを、つばめがやんわり引き留めて誘導する。
「まあまあ、もうお昼すぎだしとりあえずごはん並べよっか! あ、くるみんはもちろんお誕生日席ね!」
指差したのは、テーブルの短辺にあたる一人掛けの椅子。その単語が本来の意味で使われているのを、碧は初めて聞いた気がした。
海に出かけたり学校で会ったりはしたけれど、ここにいつもの四人が集まるのは、一年生の終わりがけに試験勉強をした時以来だ。実に半年ぶりになる。
けどその半年で、碧はくるみとつき合ったり、つばめは相もかわらずかたつむりの歩みながら湊斗と少しずつ距離を縮めたり、いろんなものがいい方向に進んでいる。
きっと、さらに半年後にはまた何かが前進しているのだろう。
なんて感慨に浸っている間に、湊斗が買ってきてくれたごはんをテーブルに並べ始めた。
「それ美味しそう。どこで買ってきたんだ?」
が、その手が止まることはない。テーブルはどんどんごちそうで埋め尽くされていく。
「さっきつばめとコストコ行ってきた」
「あ、どおりで量すごいと思った……」
「好きなだけどうぞ。余ったら持ち帰りでもいいしな。折角だし、取り皿配ってビュッフェ形式でもいっか」
ベーコンや野菜をくるくる巻いたトルティーヤを丁度いい大きさに切り落としたサンドイッチ、あまりにも巨大なピザに具沢山のサラダ、さらに駄目押しとばかりに丸太のようなロティサリーチキンがずらりと並んでいる。
「わぁ……おおきい」
そのサイズの恐るべきアメリカンさに、隣にいるくるみはまるで自分が童話の小人になった感覚なのか、いつもより多めの瞬きで気圧されたように驚きを示した。
ついでにこれには碧もびっくりだった。
食事は任せろ、と自信ありげに言っていたのでお言葉に甘えたのだが、まさかこんなにたくさん買ってくるとは思わず、配膳の采配を振る湊斗にこっそり耳打ちする。
「ごめん。後で僕が払うよ。いくらだった?」
「俺の奢りだからいいんだって」
「それはさすがに悪いから」
「結局お祝い出来てなかっただろ? ふたりがやっと結ばれた記念だから黙って受け取っておけって。な? あとつばめとコストコデートできたから俺もばっちり恩恵を貰ってるし」
「本音はそこかよ」
「あとはお前が進展を話してくれれば、それがお代で結構」
「……」
ピザを焼き直す名目で逃げることにした。
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