第144話 誰のために(2)
家に帰ると、当たり前だがリビングに灯りはなかった。
今日は三連休の真ん中で、時刻は十八時の手前。
一人暮らしだからこれがあるべき姿なのだが、合鍵を預けているくるみが結構な頻度で遊びに来ているので、彼女がいないと何だか物足りない気持ちになる。
他の家と生きた街並みでも眺めて寂しさをまぎらわそうとベランダに出ると、柔らかなブルーモーメントの空にはもう、つんと澄ました三日月がぽかりと浮かんでいた。
〈人に優しくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人に優しくしなさい——〉
——ここで父から貰った言葉を思い出したのは、すなわち連想と呼べるものだろう。
碧が今の生き方を自分に誓ったのも、こんな時間のこんな空だったから。
「……ちゃんと話しておかないとな」
長らく想いを寄せ続けた相手と結ばれ、毎日が現実じゃないみたいで。
幸せでいっぱいだけど……ひとつだけ引っかかっている心残りがあった。
くるみにはまだ、大事な事を話していない。
なぜ海外留学をする予定なのか、その本当の理由を。
将来の話とは表裏一体としてきちんと教えておこうと思ったけれど、出国前で時間がなくてうやむやになってしまった、自分が今の自分になった話を。
あの時アラームが鳴ってしまったことで妨げられたのは、自分の想いを打ち明けることだけじゃないことに、当時は気づきもしなかったけれど、今振り返ればそのことに安堵している自分は確かに居て。
きっとくるみは、この話をすれば黙って聞いてくれるだろう。理解して手を取って、泣けない碧の代わりに涙して、これからも隣に居ることを望んでくれるのだろう。
けれど、そうであっても碧が怖かった。
——何にでもなれるくるみを、僕が鳥籠から自由な世界へ帰してやりたい。でもこの話をしたらきっとくるみは……
ふっと小さく息を落として、碧は思案を中断する。
「……とりあえず上枝さんに会ったことだけは今日話しておきたかったけど……居ないならしょうがないしLINEでいうか」
明日は誕生日だしな、と雑念は振り切り、スマホのロックを解除してトークを開くと同時に、しゅぽっとメッセージが更新された。
〈碧くん今なにしてた?〉
もちろんすぐに既読をつけてしまったので、丁度スマホと睨めっこを始めようとしてたことは、すっかりばれているわけだ。
〈くるみ今なにしてた? って送ろうとしてた〉
〈もう知ってる〉
なんかこういうふとした瞬間に共鳴というかシンパシーがあると、積み重ねた時間の長さを否応なしに突きつけられた気がして、ちょっと照れくさい。
〈今日つばめさん家に泊まるんだっけ? 今は仲よくごはんの準備でもしてたとこ?〉
〈うん。お家でたこ焼きパーティーですって〉
〈すごい楽しそう〉
〈あの……それよりね。私ちょっとだけわがまま言いたくて連絡したんだけど〉
〈ん? 珍しいね〉
〈駄目ならいいけど!!〉
〈いや言っていいよ。もっとわがまま言ってほしいくらいだし何でも甘えていいからね〉
さっきまで耽っていた想念が若干滲み出したメッセージに一拍おいて、しゅぽっと更新。
〈ほんのちょっと、だけでいいんだけどね? 電話とかでもいいから……少しだけ碧くんをかんじたいなって〉
言い方がずるいだろ、と思ったがそれは呑み込んで返事をした。
〈わかった。なんなら少し会う? つばめさんとの時間奪ったりしちゃ悪いし五分とか十分とかになるけど〉
〈いいの? でも……〉
〈もう夜になるし危ないから僕がそっちまで行くよ。つばめさんの家って湊斗の近くだったよね確か。近くになったらまた連絡する〉
〈うん……! ありがとう〉
スマホをポケットに突っ込んですぐ、鍵だけ持って外に出る。
アプリの時刻表を見たらすぐに電車が来そうだったので、各駅停車で少し移動して降りてから五分歩いたところで、最愛の彼女はすぐに見つかった。
閑静な住宅街の角にある、小さな洋風のメゾネットの前。ぼんやりと光る街灯の下あたりに、楚々としたシルエットが心細げに佇んでいる。その華奢な立ち姿は夕暮れ特有の哀愁も
待たせちゃったならもっと急げばよかったな、なんて思いながら近寄ると、くるみがこちらに気づいたらしく、弄っていたスマホをカーディガンのポケットに仕舞ってぱたぱたと駆け寄ってきた。
ふりふりと揺れる尻尾が見えるのは気のせいか。
「碧くん。来てくれてありがとう」
「待たせちゃってごめんね。寒くなかった?」
「今日会えることがもう……嬉しくて。ぜんぜん気にならなかった」
「そっか」
挨拶もそこそこに、ふたり並んで近所の公園のブランコに座ってから、物分かりがよさそうに澄ました姿が何となく引っかかって、尋ねてみる。
「……くるみ、なんかあった?」
ヘーゼルを瞬かせて一瞬きょとんとするので、いつもと様子が違ったことに悟ったことを直に教えてしまう聞き方は失敗だったかと反省しつつ、かぶりを振った。
「何もないならいいんだけど」
「……ううん。ある!」
きっぱり強い語調で言い切ったくるみが、今度は萎れたように睫毛を伏せる。
「わがまま言ってごめんなさい。二日間会えなくて、連絡もあんまり取れなくて寂しかったの。……これは何かあったにはいりますか?」
まわりに誰もいないとはいえ外だから、派手に身を寄せたりはせず、はにかむように袖をちょこんと抓んできたくるみ。
健気さたっぷりの発言に碧はもう、このまま彼女を家に連れて帰って、仔猫のように好きなだけ愛で倒したい気持ちでいっぱいになった。
続いて覚えたのは、こうして素直に甘えてくれる事への安堵で。しみじみと「ほんとうに両思いなんだな」と深く思い知って、また愛おしくなる。
恋人となかなか会えずに寂しがるのを一体誰が責められよう。
むしろ準備に奔走してたとはいえそうさせたのは碧なので、その心細さを少しでも明るい気持ちにしてあげたくて、ぽろりと口を走らせた。
「くるみ。明日、誕生日なの覚えてる?」
「え……?」
本当に思いも寄らなかったのだろう。
虚を衝かれたように言葉を失うくるみに、碧は小さく笑う。
「あはは……やっぱ忘れてたか」
「や、やだ。もうそんな季節……? じゃなくて! 碧くん覚えててくれたの?」
余程びっくりしたのだろう。彼女は、本当に珍しく目を白黒させ、覚えてもらえて嬉しいやら覚えてなくて情けないやらで、表情をころころ忙しそうに転がしていた。
「いや、本当は秘密にして明日驚かそうと思ったんだ。けど、こういうワクワクする時間も含めて誕生日だよなって思って。楽しい時間は長いほうがいいでしょ?」
それは、上枝さんから助言を貰って、考え直した結果だ。
結果としてくるみが寂しそうにするから話したのは、それもそうなのだが、もともと遅くとも前日までに気づかないようなら教えておいてやるつもりだった。
お誕生日らしいお祝い——それを聞いて、自分も子供の頃は十一月になると指折り数えて七日の到来を待っていたことを思い出したのだ。
ただびっくりさせたいって気持ちを優先させて本人に寂しい思いをさせるより、くるみにも自分の誕生日を待つ喜びを味わってほしかった。もう後一日だけど、されど一日である。
「だから明日、楽しみにして待っててよ」
「え…………もしかして碧くん、お祝いしてくれるの?」
「だって大事な彼女の誕生日だよ。つまり、僕にとっても特別な日なんだよ」
くるみはまだ何かに驚いているようだった。
瞳に何かを滲ませて——けどそれはすぐ甘やかな幸福に上塗りされる。
「じゃあ……お祝い。おねがいしても、いい?」
「うん。任せて」
甘え下手で万能で一人で生きていけそうに見えて、本当は誰よりも寂しがりやで甘えんぼな女の子の髪を、碧はそっと指で梳った。雪がふありと解けるように、見る間に心地よさそうに頬が弛んでいくので、碧も釣られて口許を綻ばせる。
「……甘えていいよ」
それからおもむろに両腕を広げると、くるみの大粒の瞳が、雨上がりの空みたいにぱあっと光った。目が開いたばかりの仔猫のように控えめに擦り寄ってくるので、こちらからも迎えるように彼女を優しく抱き留める。
しばらく彼女の体の柔らかさに身を任せてから、宥めるように言う。
「希望があればさ、なんでも言ってくれていいからね。僕から言わなくても、くるみが自分からしたいときにこうやって甘えていいんだよ」
「……そ、それはまだ難易度が高いというか」
返事がもごもごとくぐもっているのは、服に埋もれているから。きっと恥じらう表情を見せたくないのだろう。
けど耳の赤さは隠せていない。
こっちとしては広義の意味で甘えて頼っていい、のつもりだったのだが、どうも彼女は今しているみたいなハグを自分からしにいく事と捉えたようだ。
もぞ……と動いて、くるみは明確に照れたままこちらを見上げる。服に擦れたせいで、こたつから出てきた猫のように髪がぼさっと崩れているので、手櫛で優しく直してやる。
自分がもし女だったらこんな美しい髪の持ち主になりたいものだ、と思えるストレートヘアーは、少し指で梳るだけで天使の輪が復活し、さらりと優美な直線を描く。
掌に伝わる感覚が陶酔してしまうほど心地がよくて、つい継続して撫で続けていると、くるみが小さく言った。
「けど、ね? 私も……思う事はあって」
「どんなこと?」
「碧くんが、本当に私のことを大切にしてくれてること、ぜんぶ伝わってるの。だからこそ私も……もっと前に進みたいなって。だって折角……彼氏と彼女、になったんだから」
紡がれた勇気ある発言は、尻すぼみに空気に解ける。
〈前に進む〉——その言葉の意味するところを捉えきれず、これはちゃんと確認しないと後々盛大なすれ違いになりそうだな、と碧は咄嗟に目を泳がせた。
何せまだつきあって一週間ほどなのだ。
けどそんな泳ぐ目を一点に止めさせたのもまた、くるみの次の発言で。
「だから、ね? 毎週土曜日に、私からぎゅーして慣れることにしようかな……って。碧くんはどう思いますか?」
——提案の要件があんまりいじらしくて可愛らしくて、僕はずるいと思ってしまった。
「もしかしてつばめさん発案?」
「さっきまで、お勧めされた恋愛ドラマの再放送を観てて……いいなって」
大胆な提案が恥ずかしいのか、言い淀むくるみ。何となくからくりが分かってきた。
「出来もしないこと言ってない? というか、何で土曜日?」
「そ、そんなことない! 私は今まで約束を違えたことは一度もないわ。ぎゅーなら海外じゃ挨拶みたいなこと碧くん言ってたし、それに土曜日なら一週間おつかれさまって気持ちになるでしょう? ……うん、なるもん」
「じゃあ早速今してよ」
「え?」
「今日、土曜日だけど」
「えっ…………あ。そ、そっか? そうよね……うん」
くるみははてなマークを浮かべたまま、スマホのロック画面を確認すらせずに、連休のど真ん中でカレンダーの感覚がずれているのも手伝って、謎に納得した。
——本当は今日、日曜なんだけど。
こういう詰めの甘いところ、正直めちゃくちゃ可愛くて好きだ。
くっついてるところをわざと離れると、くるみから「あっ」と小さな悲鳴が洩れてつい笑ってしまうが、約束は約束だ。
そのまま、衝撃の到来に備えるようにし、彼女もまた身構えたかと思いきや。
「えいっ」
と、妙に子供っぽくも可愛らしい掛け声を残してから、月の光を透かすウェディングベールのように柔らかな髪の毛をなびかせて、飛びこんできた。
「っと」
優しく抱き留めつつ、小さなつむじを見下ろす。驚くべきは、あのシャイで恥ずかしがりやなくるみが、何のためらいもなくハグをしてくれたことだった。
てっきり照れて渋ると思ってたのでこれは意外だが、有言実行はさすがと言ったところだろう。思ったよりもあった勢いを相殺していると、くるみは腰に手を回して、ぴったりと身を寄せた。
まるで寂しさが横いりする僅かな隙間さえなくそうとしているみたいに。
「なんだ、やればできるじゃん。偉いえらい」
「子供扱いは禁止っ!」
「あはは、いつもされてるから仕返し。……ついでに言うと、今日は本当は日曜です」
「!! ば……ばか!」
「ごめんね。あと六日も待てなかったから。今のは昨日のぶんってことにしておいてくれる?」
「う……もう。そんなこと言われたら駄目って言えないでしょう、ばか。碧くんは本当に甘えんぼさんなんだから」
甘えるのが好きなのは君もだろうに、とは言わずにくるみの華奢な腰をぽんぽんと叩くと、腕で包まれた彼女の表情は、幸福と恥じらいが一緒くたになって織り混ざったような、とろけたようなものになる。
彼女と密着したことは今まで何度かあるとはいえ、こうして抱き締めたくるみの感覚をじっくり味わうのは初めてだ。女の子とはどうしてこうも、小さくて温かくてふにふにしているのだろうか。自分とはまるで違う生き物だ。
……恐らく見た目じゃ決して想像がつかないくらいの質量を伴った柔らかい何かが、本人も意図しないうちに当たってることは、考えないようにしてるけど。
「まぁ彼氏だからいっか」
「? どうかしたの? 彼氏さん」
「なんでもないですよ彼女さん」
ぎゅーの日が制定されたことで、この幸福と焦ったさを週に一度味わえるのか……と思うと、碧はちょっといろんな意味で気が遠くなりそうである。
男子高校生としては半分拷問のようなものだが、提案者のくるみはそんなことは露知らずなのだから仕方がない。
しばらくその格好でいると、くるみがおもむろに言った。
「……碧くん」
「うん」
「あした……すごーく期待、しちゃってもいい?」
「応えられるようにがんばるよ」
そう返すと、まだ青く若い夕夜の空に、くすぐったそうな笑みが小さく響いた。
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