第143話 誰のために(1)


 土日になり、碧は早速、計画のために動き始めた。


 とある企みのもと、二日連続でほぼ朝から夕方まで湊斗のカフェバーを訪問していた碧は、からんころんとドアベルを鳴らして外へ出た。


 秋の到来に伴い、陽の昇っている時間は日に日に短くなっている。


 すいすいと気持ちよさそうに空を泳ぐ赤とんぼが、さわさわと揺さぶられる木の葉の向こうに消えていくのを見送り、そろそろ長袖を出さないとなと思いながら、とある物が詰まったマイバッグを片手に持ち上げつつ、協力してくれた親友に礼を言う。


「今日はありがと、湊斗。いろいろ助かったよ。今度ごはん奢らして」


「おう。ゆず——」


「くるみさんの手料理は却下な。それ以外で」


 先回りで釘を刺すと、湊斗が苦笑した。


「美味すぎてせめてもう一度味わいたかったんだけどなぁ。まあ、お礼はうちでバイトしてくれればそれで結構。うちの親もいいかげん外国人相手にジェスチャーで通じるようになってきたけど、それでも人手は足りないのなんのって」


 ああそんな話もあったな、ということを思い出さされた。


 ずいぶんだけど、バイトに誘われた当時は海外の大学に進む予定だった。しかし今は違うしいいのかもな……なんて思案に寄り道していると、湊斗が碧のマイバッグを目で示す。


「ま、それはさておき。こんだけ練習してその道具たちがあれば、本番は失敗しないだろうし、今日は早く帰ってやりなよ。首を長くして待ってるんだろ」


「いや、くるみさん連休だし今日はつばめさんのとこに泊まるんだってさ。ほら」


 と言いつつ見せたスマホのトークには、


〈碧ーくるみん今晩借りるね! うちに泊まるから! 押せ押せするためにいろいろ作戦会議するからね♡〉


 という怪文書が表示されていた。


 ちょっと意味がわからないし、考えるのも怖い。


「あいつ。せっかく誕生したての新婚夫婦から新妻さらってくとか酷いな。なあ碧?」


「その呼び方はまだ早いって」


 結婚どころか婚約すらしていないのだけど、彼のいじりはもう慣れっこなので、今さら動じたりはしない。


「まだ、ねえ。……楪さんがお前を大好きなのはずっと前から知ってたけど、こりゃ碧も負けず劣らず同等以上の愛情だな」


「え、知ってたっていつから?」


「年明けくらいからだけど。お前も気づいてたよな?」


「とし? ……まあ……うん」


「感情だだ洩れってか、もう目が『好き』って言ってたよなぁ。夏が近づいてからはもうあふれすぎてて行動に出てたし、学校でもこっそりスマホで連絡とってたりひそひそドイツ語? で会話してたり涙ぐましい努力してただろうけど、鋭いやつは察してそうなくらいだったしなぁ。これでつき合ってないの? ってもどかしくてしょうがなかったもん俺」


「嘘?」


「え、逆に気づいてないと思ってた?」


「……いや、もう何も聞かないことにする」


 親友の慧眼には戦慄せざるをえなかった。


 くるみからの好意自体は、気づいてたかどうかで言えばなんとなく察してはいたし、梅雨あたりからは猛攻とも呼べるアプローチをされてる気はしてた。けれど、年明けからってのはそりゃ嘘だ。あの辺りはせいぜいクリスマスを一緒に過ごしたり年始にハンバーガーを買って一緒に食べたくらいで、甘ったるいやりとりはなかったし、湊斗の言う時期は本人の言う〈すき〉を自覚した季節と時差がある。


 ——あるいは……僕もくるみも気づいてないだけで、はたから見たらそんな前からそういうふうに見えてたってことか?


 湊斗たちが夫婦だの言ってきたのも、からかってるんじゃなくてもしかして本当にそう見えてた?


 ……これ以上考えたら思考が迷宮いりしそうだったので、ここいらで断ち切った。


「ま、とにかく碧にとっての日本一可愛い彼女さんのためだし。喜んでくれるといいな」


「一点訂正させてもらうと、くるみさんは世界一可愛い彼女だ」


「今日も惚気が絶好調なことで」


 中てられたように呆れ気味に突っ込んだ湊斗が、表情を改めて言った。


「ところで俺らもほんとに明後日、行っていいの?」


「大丈夫だと思う。結構前にだけど誕生日の話になった時、賑やかなお祝いをしてもらえるのもいいよねって言ってたから。ただぽろっと出た発言っぽかったし、本当は嫌かもしれないからいちおう再確認はするけど……」


「おい、嫌とか言うなよ。まあそんときは俺らからのプレゼントは、学校でつばめから渡してもらえればいいか」


 他人からの贈り物は受け取らないみたいなことを昔言っていた気もしたのでそれも不安要素のひとつではあったのだが、ここで断るのも彼らに失礼なので、一旦頷いた。


「じゃあまた連絡するから」


「おうー」


 親友と別れた後、何となく歩きたい気分だったので、電車には乗らず、徒歩で二駅分をのんびり進む。


 そうして最寄駅の近くまで戻ってきた碧は、通りすがりにあったスーパーマーケットの駐輪場の横らへんで、ふと足を止めた。


 そこでは自転車が四台ほど、ドミノ倒しのように横たわっている。


 風で倒れたか、荷物が引っ掛かったか。折り重なる上流に目を向けると、ひっつめ髪をした小柄な女の人が起こそうとしているので、碧は考えるより先に駆け寄った。


「手伝いますよ」


「え……? あ。ありがとうございます」


 碧が手を貸せば、自転車を立たせるのはすぐに終わった。


 シャツの裾についた砂埃をぱっぱと払いながら、女の人を見る。


 多分四十半ばほどだろうか。動きやそうな服に年季のはいったエプロンをしていた。子供を育て上げた主婦みたいな風格があるが、力が必要な作業はきつかったのか、疲れ果てたように一息ついたのち、小さなほほえみを湛えてこちらに向き直る。


「ありがとうございます。私は自転車は乗らないのですけど、ちょうどとおった時に風が強くて倒れてしまったみたいで——」


 科白は宙に浮いた。


 彼女がこちらをはっと見る。


 藤の花を思わせる穏やかな瞳が、こっちの姿をじぃっと捉えている。


「?? ……?」


 初めは不思議に思い、それからだんだんと長くなる沈黙に対し、気まずく思えてきたところで「あの」と女の人が言った。


「もしかして、と思っていたのですけれど。あなたは柏ヶ丘高校の秋矢碧さんですか?」


「え……どうして僕の名前を?」


 今度はこっちが瞠目する番だった。


「この辺で僕のことを知ってる大人のひとって、そう多くない自信があったんですけど。失礼ですがどちらさまで?」


 あくまで淡々と碧が誰何すると「そうでしたね……失礼しました」と一礼してから、女の人が名乗った。


「くるみお嬢様のお宅で家事代行をしています、上枝と申します」


 初対面にも関わらずに、これ以上なく完璧な自己紹介だった。


 碧は驚きつつも思わず居住まいを正し、なるだけ丁重にお辞儀をした。


「あ……上枝さん? まさかこんなところで会うなんて……いつもお嬢さんのお世話になってます。もしかして僕のこと、くるみさんから聞いてたんですか?」


「ふふ……はい。ごめんなさいね、急なことで驚かせてしまって。お嬢様から日頃仲よくしている男の子がいるとよく話を伺っていたものでしたから、つい……やっぱり写真とそっくりね」


 写真だなんて一体どこまで話したんだ、と今ここにいないくるみに問いたかったが、取り敢えず立ち話もなんなので近くのベンチに座ることに。


 上枝はお礼と言って缶ジュースをくれた。


 隣に座る女の人は、名家に従事しているというのでこれまた浮世離れしているのかと思いきや、いい意味で自分らと同じ庶民なかんじの、品のある主婦に見えた。にこやかな笑みを浮かべて、何かが喉もとに引っかかってる碧の言葉を待つ。


「……あの、僕なんかに道草して大丈夫なんですか? お仕事とかあるんじゃ」


「夜の契約の時間まではまだ余裕があるので大丈夫ですよ。お嬢様もご不在ですし。それより、私は楪の家の者ではないのですけど、お嬢様のご学友とのことであれば、きちんとご挨拶がしたくて」


 あの子が小さな頃から面倒を見ていたので、と上枝は遠くを思い出したように、目尻のしわを深める。


「いつもお嬢様と仲よくしていただいて、ありがとうございます」


 お礼を言いつつも、その眼差しには碧という人物を見定めようとする冷静さがあった。


 なのでこっちも、大人に対峙するための立ち振る舞いに切り替える。


「僕のほうこそ、くるみさんにはお世話になっております。改めて、初めまして。秋矢碧と申します。ご存知のとおり同じ学校の生徒で、上枝さんのことは以前からお伺いしていたのでお会いできて光栄です。…………それと、こう言うとご不安かもしれませんが、くるみさんとは、先週からおつき合いをさせていただいています」


 最後の一文は言うべきか最後まで悩んだのだが、下手に隠し事をしても結局いつかはばれてしまうので、初めから謙虚に伝えておくことにした。大人とはいえきちんと誠実に正直に話をすれば、子供の言い分でも耳を傾けてくれるものだから。


 そんな碧に上枝はぽかんと口を開けていたが、すぐに相好を崩した。


「ずいぶんと礼儀正しいのですね。大人と話しているのかと思ってしまいました」


「いえ……こういった初めましての挨拶は、いろいろあって慣れているので」


「そうでらっしゃいますか」


 生意気に聞こえてしまうんじゃないかとトーンに気をつけたが、幸い上枝はきちんとした誠実さが功を奏したのか、さっきよりもややお堅い空気が霧散したように、碧の右手に下がったマイバッグを見遣った。


「ところで、ずいぶんと大荷物みたいですけれど……?」


「ああ。これは明日、くるみさんの誕生日ですよね。ささやかですが僕からも何かお祝いが出来ないかと思って……あれ、上枝さん?」


「……いえすみません。ちょっと驚いたもので」


 思わず名を呼んだのは、上枝が目を丸く見開いていたからだ。


 リアクションが少々不可解ながら、碧は真剣な眼差しでひとつ問うてみることにした。


「あの、不躾なのは重々存じ上げてるのですが、上枝さんから見てくるみさんがこれまでどういう誕生日を迎えてきたのかって、教えていただけたりはしませんか?」


「お嬢様が?」


「はい。もちろん出来ればで構いませんが……彼女を、喜ばせたいんです」


 しかし返ってきたのは渋るような回答だった。


「……そうですね。そう言われますと私も、お話したいのはやまやまですが、ご本人に聞かれてはなかったのですか? もしお嬢様も話していないこととなると、家の内情になりますしお手伝いの立場からですと……」


 残念そうに眉を下げるが、碧はめげない。


「それは僕が、上枝さんが大切に思ってらっしゃる女の子の友人、ということでも駄目ですか?」


「そう言われると困りましたね」


 上枝は観念したようにゆるく笑った。


「守秘義務があるのであまり深い事情は話せませんけれど、お嬢様がどんなお誕生日をお迎えしたいかくらいは……先ほど助けていただいたご恩もありますし、私の見解でよければお話ししてもいいかもしれませんね」


「もしかして僕、警戒されてます?」


「むしろその逆ですよ。本当にお嬢様の仰っていたとおりだなって。……秋矢さんは何というか、お嬢様と打ち解けただけのことはあるというか。人の懐にはいりこむのに長けているのですね」


「そう見えるのなら、上枝さんが話しやすい空気にしてくれたおかげですよ」


「ふふ、お上手ですこと。そしてお誕生日のお話ですけど……秋矢さんは今のお嬢様を見て、どう思われますか?」


 何の脈絡もない問いかけに一瞬訝しんだが、話の取っ掛かりかもしれないので、素直に自分の見解を述べる。


「えっと……。なんていうか、そのへんの高校生よりかはだいぶ大人びてますよね。しっかりしてるっていうか」


 というのは世を忍ぶ学校での姿で、碧に対してだけ何か気にいらない事があるとぺちぺち叩いてきたり、むくれると頬が風船になったりと結構子供っぽいところがあることは言わないでおいた、本人の名誉のために。


 上枝は同意見だったのか、小さく一回頷いてから続ける。


「……そうですね。なのでもし喜んでいただけるとしたら……それは心の底からはしゃいで童心に返れるような、うんとお誕生日らしいお祝いの仕方なのではないかな、と思います」


「お誕生日らしい……?」


「ええ。誰もが一度は夢見たような、そんなお祝いがいいんじゃないでしょうか」


 ふと思い出した記憶の上澄み。横浜で遊んだ時、くるみは屈託なく笑っていた。大好きなお花を見て、知らない街にはしゃいで。


 そうか。あの時の生き生きとした表情を引き出すには——


「上枝さん、ありがとうございます。今のをヒントにちょっと考えてみます」


「あら、もうよろしいので? プレゼントとかはご相談なくてようございますか?」


「それくらいは僕が選んだものを渡さないと、立つ瀬がありませんよ」


 お辞儀をして、それから。


「あ……それと出来れば僕のことはご家族にはまだ言わないでいただけると。いつか時が来たら、自分たちからご挨拶に伺いたいので」


「ええ、大丈夫ですよ、旦那様方にはお伝えしません」


「ありがとうございます。……どうぞ、よろしくおねがいします」


 それを聞いて、上枝はしみじみと言った。


「ふふ。じゃあ私と今日会話したのは、いつかの予行練習みたいなものですね」


「……そうですね。くるみさんが今いまそう思ってくれているかは分かりませんが。僕はそのつもりです」


 名家のご子女を奪う以上、生半可な気持ちで彼女に告白することを決めた訳じゃない。


 碧の将来の他にそういう事情もあって、気持ちを伝えるのが遅くなったのもある。


 つまり碧は既に、くるみと今後終わりなく共に生きていく覚悟だったのだが、彼女にすら伝えていない想いをまさかこんなに早く誰かに……ましてや彼女に近しい人物に今の想いを聞かせることになるなんて、思いも寄らなかった。


 ——まったくもって自分がどこを目指しているかも、またくるみの居ないところで話が進んでしまった訳だ。


 勝手に外堀を埋めてしまったと言ってもいい。


 だが申し訳なさはなく、むしろはっきり言葉に出すことで、温かな湯気みたいに輪郭を得ずにぼんやりしていた気持ちが、ようやく定まった気さえした。


「これからも、お嬢様をどうぞよろしくおねがいしますね」


 大事なものを託すように挨拶をした上枝は、最後まで彼女を下の名前だけで呼ぶことは決してなかったが、やっぱり家政婦以上の情があるように見えた。

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