第142話 大切な日にむけて(2)

 その日の帰り道。


 いつものけやき並木の歩道を手をつないで歩いている間、くるみは始終くすくすと上機嫌に笑っていた。


「笑いすぎ」


「ふふっだって……碧くんが……ふふふ」


 おかしそうに、それでいて上品に肩を揺らすたびに、下校中の柏ヶ丘高生や、近隣にある他校の生徒の注目が、一気にくるみに集まる。


 ただでさえ並び立つ者がいないと断言できるくらい可憐な少女が、華やかな笑みを零していたとなれば、鬼に金棒。衆目を集めるのもさもありなんというものだ。


 自分としては「そんなに笑わなくても」と思うのだが、止めようにも左手は握っていて、右手はくるみの鞄を持っているので、小さな抵抗とばかりに絡めた指をにぎにぎするしかない。けどそれすら彼女はスキンシップと捉えて表情に喜びを浮かべるので、もう何しても駄目そうだった。


 で、なぜくるみがこんなに笑っているかというと。


「碧くんどれも可愛い。お眠さんだったの?」


「人を赤ちゃん扱いしないの」


「いいでしょう? 意外と睫毛長いんだなぁとか、目を閉じると少し幼くなるんだーとか、新たな発見ができるし。けれど碧くんの目の優しくて不思議なかんじも好きだから、見れないのは勿体ないかな?」


「……そういう視点で見られるのも誉められるのも恥ずかしいんだけど。でもまさか、写りをすぐ確認できないのが仇になるなんて思わないよね……」


 トランプみたいにぱらりと広がってくるみの手に揃うのは、ついさっき現像したてほかほかの、インスタントカメラの写真たちだ。


 初めて二人で撮ったちょっと緊張気味のツーショット、ほたるの旅行中に預かった文鳥と戯れるくるみの隠し撮り、横浜のお出かけで撮った旅先での思い出。


 どれもつき合う前で、振り返るのが何だか懐かしくてくすぐったい……のだが、問題は碧が目を閉じているのがそこそこ多かったことだ。


 とくにキャンプで撮った写真で碧だけが写ったものは「居眠りしてるのかな?」レベルで数枚に一度はきれーに瞑目。多分夏だから外の光が眩しかったんだろうけど。半目がないのが幸いか。


 あるあるなのかもしれないが、くるみが笑ってくれたことで多少報われた気がする。


「けれど……こうしてかたちに残せて、よかった」


 くるみの尊いものを見るような、透けそうなほどに淡い笑みに、碧は首を傾げる。


「あんまり記念写真は撮らないほうだった?」


「小学校の運動会とかの行事は、忙しい両親に代わって私の兄が来てくれてたの。そのときの写真は、私が逆に困っちゃうくらいにはいっぱいあるかな。そんなに撮らなくていいのに! ってくらい」


「ああ……なるほど?」


 くるみの語り口から、まだ会ったことのない兄貴の人物像が浮き彫りになってきた。


 多分そのひと、妹大好きお兄ちゃんだ。


「けどこうして同年代の誰かと写ることはなかなかなかったから……嬉しかったの。たとえ目を瞑ってても、せっかく撮り溜めた半年ぶんの思い出ですものね」


 〈半年〉という時の長さを想念するように、遠くの空を目で追う。


「……お互い好きになって、つき合うのに半年。もっと遡れば、出逢って一年か」

「長かった? 短かった?」


「僕もくるみも十六歳——これでも短かったほうだろうけど、もっと早く出逢ってつき合える道があるならそっち探すのもありだったなって、なんか急に勿体なく思えてきた」


「それ、きっと私が警戒して終わると思う」


「確かにそうかも。けど僕は自信あるけどな」


「自信? 何の?」


「……もしどちらかがこの高校に通ってなくても。僕が日本に帰国しなくても、くるみが親の言う別の高校に行っていても。きっと違うところで出逢って、僕はくるみをいいなって思って、何度だって惚れていくんだろうなって、そういう自信があるだけ」


 言い終えても返事がない。


 横を向けば、くるみが泣く寸前みたいな目をしながら真っ赤になっていて、ぎょっとした。視線を交錯させると、逃げるようにヘーゼルの瞳を伏せる。


「くるみ?」


「……それ、私のことわざと困らせるために言ってるわけじゃないわよね」


「いや本音だけど……何で?」


「碧くんてストレートな物言いは前からだったけど……こう、おつき合いしてからだと威力が……なんかもう、どきどきしすぎて体に悪いというかっ!」


 裾をきゅっと掴んで、そういうのずるいもん、と上目遣いで睨め上げてくる。


 どうやら泣きそうな理由は、哀しいとか傷ついたとかそういうんじゃなくて、感情が揺さぶられすぎて、ただ羞恥が爆発寸前になっているかららしい。


 だが、心拍がいつもよりだいぶ小走りなのは、こっちも同じだ。


 むしろそういう、狙ってるんじゃないかってくらいにいっそあざとく可愛い仕草を、天然でやられてるこっちのほうが身が保たないのでは? とすら思う。


 ——本人は自覚ないところが、くるみの恐ろしいところなんだよな。


「気持ちはしっかり伝えたほうが拗れないってこと、僕が知ってるからなんだけどな。くるみとはすれ違いで喧嘩になるとか嫌だしさ。今までもしたことないし、ちょっと想像つかないけどね」


「確かに、お互いきちんと話しあえるタイプだから喧嘩はあまり……じゃ、なくて。そんなこと言われたら嬉しいに決まってるじゃない」


「そっか。なら、ちゃんと言ってよかった」


 碧からすれば、言葉はあくまで、くるみが心細くならないように自分の確かな気持ちを渡して共有するためのツールだ。叶うなら行動で示してやりたい。


 愛情表現とは、本来そういうものだろう。


 だがそれはあくまで自分の話。ではくるみはどうかというと、行動にも仕草にも表情にも、他者から見て分かるところ全てに碧への愛情が滲み出しているみたいだが、やはり一番は言葉できちんと伝えたいみたいだった。


「……あの、ね。私からもいい?」


 小さくはにかんだくるみが、ゆっくりと選ぶような物言いで続ける。


「碧くんが、私のことを好きでいてくれているのはよくわかったけど、私だって、あなたを甘やかしたいし甘えたいんだからね? ……碧くんが手を引いて外の世界に連れてってくれて、新しくいろんな初めてと出会ったけれど、私が隣に居たいと思えるのも、ときめいてたいひとも、この先ずっとひとりだけ……ですもの」


 ——ずるいのは君の方だ、と思ってしまうのは仕方ないことだと僕は思う。


 自分のとは違って婉曲で遠回しな表現が、くるみらしいとも。


 彼女が出した前提をそのまま肯定するのも面白みに欠けると思い、鞄を肩に掛けると、おもちのように柔らかくて白いほっぺをぷにぷにと抓んだ。


 小さく「わにゃ」とでんぐり返るような声を上げた後、くるみはやり返すように踵を上げてこっちの頬をふにふにと突いてきて、碧はこの幸せな時間が一秒でも長く続けばいいのにと、そんな気持ちが心を占有していることに気づくことさえ、幸せだった。


 身長差があるので彼女は革靴ローファーの爪先でバランスを取るのに必死なのだが、その隙をついて、碧はもう片方の手にある写真の束をさっと奪って、折れないように鞄にしまう。


「とりあえずこれ、僕が預かってていい?」


「え? いいけど……」


「ところでくるみってさ、明々後日はどうすごすの?」


 ずれた話をもとに、というか碧が持っていきたい方角へと誘導する。


 三日後——その日は彼女の誕生日だ。まず予定を確認しないからには始まらない。


 もし家族との先約があるとなればこちらは別日に祝うしかないのだが、一瞬考えるそぶりを挟んでから返ってきたのは、あくまで平坦なものだった。


「えっと、碧くんの家に行ってくつろいで、買い出しにも行って……その日父も母も居なくて夜まで居られると思うから、碧くんの晩ごはんの準備もしなくっちゃね。最近ごぶさたしているメニューだと……コロッケとかハンバーグみたいな古典的な洋風はどうかしら」


「あーうん。すごく美味しそうだけど……」


 と言いかけて止まったのは、誕生日なのに両親が家にいない——つまり一人きりの夜を過ごすかもしれなかった、ということに気づいたからだ。


 そして彼女はその事に何の感慨も抱いていない。


 昔からこうだったから慣れっこなのか、あるいは自分の生まれた日が迫ってることにまだ気づいていない……?


 その時、一瞬浮かんだ想像を上塗りするように、ふと天啓みたいに考えが降りてきた。


「あのさ! その日、貰っていい? くるみの一日」


「え? いいけど……どうして?」


 急に手を掴まれたくるみは困惑気味だったが、構いやしなかった。


 だってこの短い時間の逡巡と、くるみとの掛けあいで、思ったのだ。


 自分にできることは、高価なものを贈るのでも、大枚叩いて背伸びしたレストランに連れていくのでもなく、彼女が自分で自分の人生を人並みに幸せにしようとしているのを、恋人の立場から手伝うことじゃないだろうか? と。


 二度と戻らない〈これまで〉じゃなくいつか必ず訪れる〈これから〉のために、たとえ平凡でも、幸せな思い出を少しずつ積み重ねてあげればいいんじゃないか。


 バックパックのなかに仕舞われた、写真の続きみたいに。


 もしそうなら、宛てはある。くるみを喜ばす算段と勝算が、少なからず——。


「まだ秘密。悪いようにはしないからさ」


 きょとんとしている可愛い彼女に、碧は悪巧みの表情を浮かべて言い放った。

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