第141話 大切な日にむけて(1)
くるみとつき合い初めてから数日。
今日を乗り切れば、土日と敬老の日による三連休が待っているという昼休み。いつもはくるみがタッパーに残してくれたお惣菜を弁当箱に詰めて持参、それが出来ない日は購買のパンで済ませているのだが、今日は彼女がわざわざお弁当を持ってきてくれた。
何でも、学校でふたりして堂々と一緒にいられることが、相当嬉しかったらしい。
「はいどうぞ、碧くん」
幸せそうに瞳を細めながら、中庭のベンチの隣に座ったくるみは、きっちり包んだお弁当箱を渡してくれる。
出会ってすぐの頃、お礼にお弁当をもらっていた時以来だが、あの時はあくまで義理返しという名目があったのに今はそれがない。愛情百%で成り立っていることは、くるみの表情が全てを物語っていた。
好きな人には美味しいものをあげたいから——照れながら言った彼女の言葉に、碧も赤らびたことを思い出す。
「ありがとう。……ていうかすごい豪華なんだけど、何時に起きたの?」
「ふふ。いつもより一時間早く起きただけよ」
さらりと言うのだが、すごく気合いがはいったお弁当だった。
グリーンと紫があざやかな、枝豆としば漬けの炊き込みごはんに始まって、手間のかかってそうなスコッチエッグに人参のグラッセ、ミニトマトに茹でた絹さやにブロッコリーなどの野菜たち。
年頃の男子高校生らしくそれなりにがっつり系を好む碧のために、塩唐揚げや海老の春巻きといった揚げ物も詰めつつ、好物のだし巻き玉子も欠かさない。
さらにデザートには洋梨。もちろんくるみが隣にいるだけで碧は幸せなのでこれは言葉の綾だが、文句のつけようのない最高の昼ごはんだ。
「けどくるみはもとが早起きだからなあ」
「……私がしたくてしたことだから」
あーんしてあげましょうか? と悪戯っぽく笑いかけられてドキッとしたが、さすがにそれは控えていただかなきゃまずい。
ここが中庭ということは、あの事件の日よろしく、あたりの校舎に会話が筒抜けということで。
事実、同学年の人らはともかく、上級生らしき先輩の男や、うわさ好きそうな下級生らしき女子の軍団まで碧たちのやりとりを見物しようと窓に姿を見せているので、あまりいちゃつきすぎると後々収拾がつかなくなりそうである。
碧もくるみとの絆の深さを知ってもらいたくはあるけれど、かといって逆恨みされたい訳じゃないのだ。
ちらりと窓を見ると、三年生の野球部らしき男子生徒が嫉妬をあらわに睨んでくる。
碧に倣らうようにくるみが不思議そうに同じ方角を見ると、口笛を吹きながら白々しく解散するので、やっぱり
*
交際がスタートして明確にかわったことが、三つある。
一つ目は
「なんか……くるみ様って話しかけやすくなったよねぇ。前はあんなに手の届かない雲の上の人だったのにね。いや今もだけどさ」
「俗っぽい言い方になっちゃうけど、彼氏ができたから?」
「かなー?」
とはクラスメイトの会話だ。
鎧を捨てて、夏休みが明けた今のくるみは、唯のひとりの女の子だった。
守ってあげたくなるほど嫋やかなのに、誰も寄せつけないほどに凛々しくて。手を伸ばしたくなるほど可憐なのに、差し出すゆびさきが霞むほどに儚く遠くて。時に美しく時に親しみやすく、それでもやっぱり違う世界に住んでいる——そんな矛盾だらけの少女は、きっともういない。
本当に少しずつではあるが、碧が堂々と隣にいられるようになったことで、今のところ恋人限定にではあるが、本当に心から嬉しそうに笑うようになった。
もともと彼女のファンだったひとたちは離れるかと思いきや、恋する乙女のきらきらした表情は、今までのお人形みたいに物静かだったそれよりずっとずっと可愛いと、ますます人気は高まったわけだ。
彼氏としては、あんまり彼女に熱のある視線を送られても困るけれど。
続いて、二つ目は碧の評判。
こっちはどうでもいいことなのでさらっと述べるが、あの
らしいというのは、つばめからの伝聞だからだ。
あるいは中庭のど真ん中で外国語で愛を叫んだと思われたおかげで、今どき珍しい男気がある人だとか、私もあんな愛の告白されてみたいだとかいう意見も——それらが現時点で耳に届いてきた情報である。
なんかもう、訂正するのに手が負えないからそういうことにしておこうと思う。
それ以外にも、男女問わず多くの人が話しかけてくるようになった。
碧もマイペースに気さくに応じたので、親友とは言わずとも、友達寄りの知人くらいの呼び方をしていい人がここ数日で何人か出来た。
もともと人と話すのは好きなので、ようやく何も気がかりがなく学校でやっていけると思うと、肩の荷が下りた心地だ。
とにかく前々からあった評判もまた、すっかり鳴りを潜めたのだった。
そして最後の三つ目は、一日のルーティーンだ。
学校でも話せるようになったぶん、ふたりで一緒にいる時間がふえた。
皆もすっかり結ばれたふたりと認識してくれたのか、学校での地位も確固たるものとなり、騒いだり揺らがそうとする輩は出てこなかった。
もちろんくるみも女友達同士でつばめとふたりで居たいことがあるだろうので四六時中ではないけど、学校の帰りはそのまま碧の家に一緒に行けるようになったし、くるみもくるみでつき合い始めてから、門限ぎりぎりまでこっちの家にいることが多くなった。
ちなみに家では、互いに頬をぷにぷにしあったり、髪を指で梳いたりという甘く優しいスキンシップをしているが、あくまで恋人になる前にもしていたことに留まっている。
ここは焦らずゆっくり進みたいという、双方の希望があるからだ。
あとは朝ふたりで登校して、夜は並んでキッチンに立って料理して、一緒に授業で出された課題をして、時々ソファでひとつの毛布を半分こしながらムービーナイトをして。
はっきり名前があるような恋人らしいことはまだまだ出来ている訳じゃないけど、今はふたりでいれるだけで、何よりも幸せだった。
*
という訳で、碧はこの数日で、くるみと学校で話すことにもほんの少しだけ慣れた。
けど慣れたからといって、どきどきしないということでは全くなくて。むしろ誇張でも恋による盲目でもなく彼女はどんどん可愛くなってるので、そんな彼女が今もこうして隣にいてくれることに、自分の気持ちを持て余すほどだった。
くるみも制服のスカートの上にハンカチを広げ、碧のよりひとまわりほど小さいランチボックスを開けたのを待ってから、ふたりでいただきますをする。
健康のためにやや控えめな味つけなのを、雑味もなくしっかり引いた出汁でいい塩梅に調整した玉子焼き。さわやかな生姜と大葉の風味をほんのり利かせて、夏でもぱくぱく口に運べる塩風味の唐揚げ。
ひとしきり味わって冷たい緑茶で喉を潤し、思わずうまーっと零せば、隣のくるみも嬉しそうに笑みを咲かせた。
「そう言ってくれるなら料理人冥利につきるわね」
「幸せ者なのは僕だって。いつもありがとうね」
「ふふ、こちらこそいつもお粗末様です。私ももーっと碧くんに喜んでもらえるように、好きになってもらえるように……精進しますので」
くすりと目を細めて健気で可愛らしいことを言うので、碧は枝豆ごはんを危うく喉に詰まらせかけた。
この子は会話が聞こえてることを幸せ
この様相だとまあ前者だろう。もし後者ならとんでもない策士だ。
そしてそんな彼女に日頃のお礼をする最大のチャンスが近づいていることを、碧は彼女に悟られぬように思い出す。
——九月十四日。くるみの誕生日。
もういくつ寝ればやってくるその日を、もちろんちゃんと覚えていた。
それは碧にとっても、すごく大事な日だから。
ふたりがつき合い始めてから初めてやってくる佳日を、くるみにとって忘れられない一日にしてやりたい。多分くるみは知らないだろうけど、碧は彼女がたまらなく大好きで、そんな愛しい存在を純粋に喜ばせてやりたい気持ちでいっぱいだった。
実を言うと一ヶ月前から何をすればいいかを考えてもいたし、贈り物もオーストラリアで吟味して買っておいてある。
けどあの時はまだ交際する前。恋人となった今はもっと彼氏らしいプレゼントを贈った方がいいのでは? しかしながら高価でも長く使えるものを買うのを好む上に、物持ちがいいお嬢さんで、それは裏を返せば持ち物はきちんと吟味して厳選しているという訳で。一体何を贈れば喜んでもらえるのか? というのが最近の難題だったり。
それに、と思う。
くるみの家庭は庶民とかけ離れている。こういうシチュエーションで
「どうかした?」
「あ……いや」
肩が若干びくっとなったのを気取られないように、敢えて口角を上げる。
「これ以上がんばられたら困るなあって。僕わりとたじたじなんだけど」
「じゃあ困ってほしい!」
何とかごまかしたつもりだったが、くるみがおかしなことを言い出した。
「それを言われてる僕は今まさに困り中です」
「ううん、まだまだ困れるはず。たとえば髪だって碧くんが短くしたんだから私も……」
「え? まさか切るつもり?」
「長さに特段こだわりとかはないから、碧くんがそっちのほうが似合うって言ってくれるのなら、その、ショートにしてもいいのかなっては……ちょっぴり思うかもしれないわ」
でも、髪は女の命と言う。事実くるみの髪は相当手間と時間とお金をかけないと辿りつかない美しさを誇っていて、自分の発言一つで彼女が長年積んできた努力の結晶を手放させてしまうのはいただけなかった。もっと自分の大事なものを、大事にしてほしい。
「……僕はくるみはそのままがいいな。というか、くるみの好きにしたらいいと思う」
「そう?」
「折角お手入れしたのにばっさり切るのも勿体ないし、その長い髪の毛のヘアアレンジ見るのけっこう前から毎日の楽しみだったしさ」
「前からって……いつぐらいから?」
思わぬ角度から切り込んできた質問に、一瞬きょとんとしてから、記憶を辿る。
「えー。うーんいつだろ。美人だなって思ったのは、わりと知り合う前からだったけど」
「そのわりに私と話すのにさっぱり動じてなかったみたいじゃない?」
「いや、あれはモナリザの絵を眺めてるのに近かったというか。ほら、ルーブル美術館行くとポールで近づけないようになってるじゃん。あと硝子で守られてる」
「えと、私ルーブル美術館は行ったことないけど……なんとなく言いたいことはわかる」
「ひとりの女の子としてはっきり、すごい可愛いなと思ったって意味で言えば、冬休み前に雪で遊んだ時かな」
「そ、そっか。…………そっかぁ」
他愛ない相槌を舌の上で何度も転がしながら、くるみはへにゃりと頬を弛ませながら、恥じらうように横髪を指でくるりと弄ぶ。短くしたらその可愛い仕草は見られなくなるので、今のままが碧としては望ましい。
にしても、なんかだいぶ前から女の子として意識してたみたいな回答になったことに気づき、居た堪れなくなったので、碧も質問で返す。
「そっちは?」
「わ、私?」
「この間クラスの子に訊かれてたのに回答を先延ばしにさせちゃったから、教えてもらおうと思って。僕のこといつぐらいから好きになってくれてたの?」
明日の晩ごはんのメニューを尋ねる時くらいなんの気なしに訊いた、というかこっちが答えたのだから当然そっちも答えてくれるだろうと言う気持ちで問いかけたのだが、くるみはみるみるうちに真っ赤になり、ごまかすようにブラウスの一番上のボタンを指先で弄りはじめた。
「それは、その」
「ん?」
「す……すきって、気づいたのは」
「何なに?」
「えっと……春休みの彗星の日に……私を探して迎えにきてくれた、とき」
「あー……」
もちろん覚えている、というか忘れるはずがない。
碧もその日に、くるみを好きだと確信したのだから。
ということは自分と同じ瞬間に恋を自覚した、ということで。
そう思うと、なんだかむしょうに嬉し恥ずかしで頬がじんと熱くなる。
「でも、本当に好きになった日はわからないわ。自覚したのがその日だから、気づいていないだけで。その、恋をした……のは、もっと前……なのかも? わ、分からないけど!!」
「えーいつだろう。気になるな」
碧の見解からすると、烏滸がましいかもしれないけど、桜を見にいった時にはきっともう多少の好意はあったんじゃないかと思う。
じゃなかったら『僕に会いにきてた?』とかいう問いなんか、くるみは迷うそぶりすら見せず一刀両断していただろう。自分も少なからず好かれている自覚があったから訊けたのだ。その好意のカテゴリーを判別できなかっただけで。
では、いつなのか。
問題を出されれば究明したくなるのが、大学受験を控えた高校生——あるいは人生で初めての彼女ができて浮かれた男のさがなわけで。
「ホワイトデーの時とか、僕からのプレゼントわりかし喜んでもらえたみたいだし……もしかしてそれがきっかけだったりする?」
「……ええと、その……」
「じゃあバレンタインのあたり? まあ、どうでもいい男ならあんな手のこんだキルシュトルテなんか焼こうと思えないもんなぁ」
「う……あ、あれはその、日頃のありがとうの印であってっ」
なぜか言い淀みながらむきになるくるみ。
「待てよ? 考えてみればその何日か前だって……」
碧はあくまで冷静に、どんどん検証と振り返りを進める。
くるみが「うぅ」と小さく呻きながらどんどん茹でだこになり、肩を震わせていることに、気づかぬまま。
「ほら、お酒のチョコで酔ったときもべたべたに甘え……むぐ」
「これ以上の掘り返しは禁止!!!」
とうとう、いつになく粗野な叫びでおふれを出された。
「いつなんて自分でも分かんないしなんか恥ずかしいから野暮なこと考えないの!!」
ぜえはあと息を荒げながら、碧の口にむりやり自分のぶんのだし巻き玉子を突っ込んだことでお喋りを封印したくるみを見て、碧は自分もまた相当な幸せ
もぐもぐする碧をみてくるみは、烟る睫毛をしおらしく寝かせる。
「いま、だいすきだから……それじゃ駄目?」
恥じらいに白い頬を淡く染め上げてるのを見て、これは誕生日びっくりするぐらい喜ばせてやらないと帳尻が合わないなと、愛おしい彼女の柔らかな髪を優しく撫でながら、人知れず企画を組み立て始めた。
……そして
「なあ、あれどう思う?」
「勝てる訳ない」
「ていうかもともと勝ち目なかった」
「いつから同じ土俵に立っていると錯覚していた?」
「つまり、俺らが入学した時にはすでに先輩たち両片想いだったってことだよな」
「皆まで言うな。虚しくなる」
「僕らのスノーホワイト様が……遠くに行ってしまう……」
お砂糖の土砂崩れと集中砲火をもろにくらって、というか盗み聞きのせいで自爆して。
男子たちがふたりの間にみじんの隙もないことを思い知るのに、浮かれたふたりが気づくことはついぞなかった。
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