第140話 交際宣言(3)


 やがて本鈴のチャイムが鳴り、皆が席に戻って行く。


 みんなまだ聞き足りなそうにしていて、解散する時も渋々といった様子だった。


 だが碧とくるみが本当に交際を始めたことを皆が理解するには、ふたりの掛けあいは十分すぎるほどだったらしく、彼らの本当の交際宣言は現代のかなめたるスマホの協力もあって、午前中のうちに呆気なく学校中に知れ渡ったのだった。



 そして来たる放課後は、くるみとふたりで帰ることになった。


 なぜかって、本当だったら湊斗やつばめも一緒に加わってカフェバーで祝宴のようなものをする予定だったのだけど、ふたりは空気を読んだのか知らんが「それはまた今度でいいから初日くらいふたりでラブラブしといで♡」と言い残して、逃げた。


 話を聞いたところによると、幼なじみ組ふたりも一緒に電車で帰るらしい。


 つばめがモデル仲間の男に気にいられ、わりとしつこくされているみたいで、何かあってからじゃ遅いということで湊斗が彼氏のていで毎日一緒に帰ってあげることになっていると言っていた。


 事情はあれだけど一歩前進じゃん、と言ったら〈今のお前に言われるとすっかり嫌味だな!〉といじり返された挙句、それどころか〈浮かれる気持ちも分かるけどあんま見せつけんなよ〉〈お前楪さんの前だと別人みたいに優しい表情だからな〉なんてLINEで注意される羽目になっていて、碧は坐った目でトーク画面を見下ろすことに。


 ……が、結論から言うと、すんなり一緒に帰ることはできなかった。


 くるみとの交際の件もあり、全校集会や担任からの諸連絡、初日からフルスロットルで再開し始めた授業という密度の高い午前に碧はわりと疲れていたので、早く家で休みたかったのだが、クラスメイト達がそれを許してはくれないらしい。


「ね、秋矢くん」


 ホームルームも終わって机の上のテキストを片づけていると、肩にかかる髪を揺らして凪咲なぎさ——碧につきあわないかと言ってからかってきた子だ——が、身を乗り出してきた。


 たぶん碧にしか分からない程度にだが、彼女は一瞬だけ苦笑気味な表情に見えた。夏休み初日、あのおふざけみたいな口説き文句を言ってきたことと、関係しているのだろうか。


 そう思うとちょっと気まずいが、とにかく答えないからにはどうしようもない。


「何か聞きたいこと? 待たせてる人いるから早めだと助かるかな」


 朝は女子が多かったが、今度はようやく状況を呑み込めたのか、後ろには追従した男子もそこそこいる。


 だが意外なのは、乗り込みに来たというよりはとりあえず話を聞こうとしてる様相なところ。朝よりもずっと和やかな空気なのがその証拠だ。


 なんにせよ、ここは碧のがんばり次第だろう。


「分かってるって。あのさ、秋矢くんが自己紹介で世界平和どうたらーって言ってたの、私はすっかり下手な冗談だと思ってたんだけど、もしかして本当だったりするの?」


「……いろいろひどいこと言われてる気分なんだけど」


「あ、ごめんね! 死んだ目しないで! オープンキャンパスのレポートもどこだっけ、外国の大学まで行ったんだっけ? だからもしかしたらそういうことなのかなって思って」


「ちゃんと本気だよ」


「そっかー。けど通訳とか外資とかあるなかで、なんで一番曖昧なやつなの?」


「仲よくなったなら教えなくもないけど、それにはくるみさんの許可が要るかな」


 本当はまだ彼女にも真なる理由までは話していないし、凪咲にも話すつもりは今のところないけど。


「あ、はぐらかした。けど……やっぱり掘り出し物なんだなあ。楪さんどうやって見つけたんだろ?」


 やっぱり何かの加護があるのか、とぶつぶつ呟く凪咲を、隣にいた男子が「おい」と引き止め、彼女もごめんごめんと片手で拝む。


 例の一件もあって、正直この人のことは警戒していたのだが、この様子を見るに杞憂だったかもしれない。


 その時、自分の名前が聞こえたからか、もともと放課後は一緒に帰る約束をしていたからか。くるみがスクールバッグを提げてやってきた。


「あ、楪さん。帰るとこごめんね。ふたりってそもそも夏休み前の時点で結構仲よかったよね? きっかけは学校の外……だっけ?」


「はい。私が雪の日に困っていたところを助けてもらったんです」


「えーそれって運命ってこと!? はおい……」


「はお……? いえ、運命って言葉も悪くはないですけど、どちらかといえば偶然と言ったほうが私としましてはしっくりくるかな……って思います。だって初めから決まってるよりそちらほうが、なんだか嬉しいじゃないですか」


 くるみがヘーゼルの瞳をくすぐったそうに細めると、教室の後ろの方に集まっている女子の方からは「可愛いー」の合唱が聞こえた。


 ——うん、僕もそう思う。


「まあ秋矢くんからは楪さんのどこが好きなのかはたっぷり聞いたからいいとしてさ」


「え……そうなの?」


「凪咲さん余計なこと言わないでよ」


「そんな大事なこと彼女さんに隠しとく君が悪いんじゃない?」


「……? 私のいないところで何かあったの?」


 すんと表情を失くして黙秘権を行使すると、くるみは不服を示すようにぺちぺちと二の腕を控えめに叩いてきた。凪咲は一瞬くるみの子供っぽい仕草にきょとんとしてから、気を取り直したように笑って尋ねる。


「楪さんは秋矢くんのどういうところを好きになったの?」


「わ、私ですか」


「あーそれ私も聞きたい!」


 驚くべきは、わらわらと皆がお喋りを中断して集まってくること。


 どうして女子というものは、他人の恋愛を根掘り葉掘りすることにそこまで関心があるのだろうか?


 くるみも困ったようにおろおろとして助けを求めるようにほっぺに手を当てたが、皆が逃がすつもりもなく詰め寄せるので、諦めましょうの意を乗せて首を振っておいた。


 その甘い判断が、後に後悔を呼ぶことになるのだが……。


 群衆の真ん中にいるくるみは、やがて答えない限り帰れないことを悟って腹を括ったのか、小さく吐息を落としたのち鞄を机に。


 繊細なゆびさきを喉の前で組みあわせて——瞳に深い慈愛を滲ませる。


 おそらく碧のことを考えているのだろう、ということが分かるのがおもはゆい。


「ぜんぶです。……碧くんのぜんぶが、私は好きです。こんな素敵な人がほんとうにいるんだって、今でも不思議に思うくらい」


 クラスメイトたちは物音ひとつ立てずに、しんと聞き入っている。


「確かに碧くんは空気が独特というか不思議というか、多くを語らないのもあって、一見近寄りがたいかんじはするかもしれません。けれどそれは確固たる自分の世界を持っているからで、本当はすごくかっこよくて心優しいひとなんです」


 ——そっか。くるみから僕はそう見えてるんだ……。


 と、嬉し恥ずかしで若干にやけてしまいそうだが、本当にやばいのはこの後だということを碧はまだ知らない。


「たとえば高校生になるとまわりの目や評価を気にしがちになるのに、誰に何を言われても、しっかり自分を手放さなくて。知らない世界に踏み込むのにも勇敢で、誰かのために自分が傷つく道を選ぶような繊細な人で——私にはなかったそういうところに深く尊敬していましたし、その優しさに私も何かを返せたらと思っています」


 かつて碧を敬遠していたクラスメイトたちは気まずそうに視線を交錯させるが、くるみは気にせず、むしろより柔らかな響きで続ける。


 ——あ。これ、考えようによっては公開処刑な気がしてきた。


「もちろんそれだけじゃなくて、器が大きくて寛容で、穏やかで温かくて、私をひとりの女の子として尊重して大切にしてくれて。マイペースだったりのんびりやさんなところもあるし、最初は急に踏み込まれてびっくりしたけれど……今となっては碧くんがそうしてくれたおかげで、今の自分があるんだなって思えたから」


 幸せそうに、美しくもいとけない笑みを浮かべたくるみ。


「まだまだお互い知りたいことがたくさんある段階ですけど……視野が広くて、遠いからって皆が手を伸ばさずにいるものに、ぶれずにずっと突き進み続けるこの人がいつか訪れる世界を、私も一緒に見てみたいって思ってます。それが何年後だって、何十年後だって」


 いったいどこまで先を考えているんだ、と皆が揃って思っただろう。


 碧も、いつかはくるみが自分のどこが好きかを聞きたいとは思っていたが……こんなに深い愛情を持っていることの再確認と、多分彼女もさらっと述べたので自覚してないのかもしれないが、果てしない未来も見据えていることに、この感情をどう表現していいか皆目見当もつかなかった。


 いつもピュアな愛情ゆえの爆弾を落としてくることに、今後どう対処すればいいかも。


 ただ、彼女の隣をこの先ずっと占有できる予約チケットを貰えたことは確かで、それは碧も密かに望んでいたことで。


「そんなかんじで、回答になっていましたか……?」


 クラスメイトたちは揃いも揃って火照り、見るに忍びないといった様子で各々目を逸らしている。


 そりゃそうだ。今くるみがしたのは、とんでもない惚気話だったのだから。


「……なんかもう、べた惚れってかんじだね」


「俺らのスノーホワイト様が……」


「この花盗人はなぬすびとめ」


 くるみの考えはせめて否定すまいという男心か、本気でやっかんでるわけではなく戯れのように口々に並べる彼らに、碧もまた高揚をごまかすようにふざけ返す。


「その後に続く言葉に『罪にならない』ってあったと思うけどな」


「何で分かるんだよ。帰国子女なら日本語下手くそなのが相場だろ」


「去年は下手だったけどくるみさんとお喋りしているうちに覚えた」


「こいついちいち喧嘩売ってくる!」


「じゃあ楪さんは秋矢くんのこと、いつから好きなの?」


 とはまたしても凪咲の問いで、くるみは律儀にも答えようとする。


「それは——」


「待って、これ以上は駄目。あとで僕だけに教えて」


 と、止めさせたのは碧。


 さすがにいまの愛おしげな表情をもう一度見せるのは憚られる。


 そんな思惑もあり、クラスメイトが赤くなって固まる目の前でそのままくるみの鞄を持ち上げると、彼女の細い手首を掴んで、ぶらぶらと振ってさよならの合図にした。


「じゃあ僕たちは行くから」


「もう!? 私学級委員だしみんなが気になってることこの後まとめて連絡していい?」


「えー……」


「すごく嫌そう!!」


「だって、やっとふたりきりだしさ」


 そうして教室を出ると、手をつないだくるみがぴったり隣を歩きながら吐息を零した。


「もう私、朝からずっとどきどきしっぱなし。……早くお家に帰って休みたいな」


 それってどっちの? と碧が尋ねると、くるみは上品に喉を鳴らしてから、明確な答えは返さずに掌を握り返す。


 その調子だと今日は門限ぎりぎりまでマンションにいるつもりだろう。


「……碧くんは、他の人に知られたくなかったの?」


「うんって言ったら、そういう可愛いとこも僕の前だけにしてくれるのかな」


「ふふ。本当にかわいいひとなのは、私じゃなくて碧くんのほうだったりして」


「格好いいって言ってくれた方が僕は嬉しいんだけどな」


「じゃあそれは帰ってから言ってさしあげます」


 廊下は人が多い。その判断は賢明だ。


「……Ich mag dich sehr.(私あおくんのこと好き)」


 碧にしか聞こえないくらいの音量で、ぼそっと愛の言葉をささやいたくるみが、腕にぽてりともたれてくる。


 多分意味はわからなくても、あるいは聞こえていなくても。すれ違う人たちは彼女の表情と行動から、どんな類のことを言ったのかはあらかた想像はついたのだろう。


 そして、視線が今度は碧に集まるなか、もちろん返すべき言葉はひとつしかない。


「……Ich auch.(僕も)」


 湊斗にやりすぎ注意と怒られた以上、もうしばらくはドイツ語に頼ることになりそうだったから。

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