第139話 交際宣言(2)
マンションを一歩出ると、長い髪をなびかせる風が、夏より少し遠くなった空に飛んでいった。
運動会を開きたくなるような青い空には、まだこの季節は終わらせないとばかりに、ルネ・マグリットの絵画みたいな晩夏の入道雲が浮いている。朝だというのに、制服のシャツの下が早速汗ばみそうだ。
この通学路を今とは逆の方向に辿った七月の事件の帰りは昨日のように思い出せるのに、恋人つなぎをして隣を優雅に歩いているくるみの、清楚代表みたいに涼やかな半袖の制服姿は、なぜだかものすごく懐かしい。
あの時はこんなことになるなんて想像すらしてなかったな、と思う。
交友および交際を正式に公表するということで、きっとずっと待ち焦がれていたのだろう。隣の少女は、少し浮かれたような足取りで精彩を放っている。
会話の糸口を差し出してきたのもまた、くるみのほうだった。
「碧くんは課題はきちんと終わらせた?」
「キャンプに行く前、くるみと一緒にやったぶん
「
呆れと心配で坐った目がこちらを刺す。
「学校見学のならオーストラリアの宿に戻ってすぐに終わらせたけど……なんていうか旅先で移動も多かったし、疲れててどんなこと書いたか覚えてないというか」
「でも、ちゃんと書けたなら偉いえらい」
「先生にはびっくりされそうだなー。わざわざ独りで行ったのか? って」
「ふふ。確かに碧くんくらいだものね、そんなことしちゃう高校生」
くすくすと肩を揺らしてから、思い出したようにくるみが続ける。
「ずっと家空けてたし、今日の帰り、また買い出しに行かないとね」
「フィルムの現像も行かないとね。なんだかんだばたばたして行けてなかったし」
「うんっ」
柏ヶ丘高校の正門へ続く道には、街路樹にけやきの木がゆったりと並んでいる。
マンションから学校までの徒歩の道のりは、間に駅を挟んでいて、住宅街の辺りは学校の知りあいと出くわすこともまずないのだが、踏切を渡ってからはもう校舎がすぐそこなのもあり、柏ヶ丘高生だらけだ。
他愛のない会話をしているうちに、気づけばその歩道に差しかかり、ふたりはいよいよ見慣れた白いシャツの群れから注目を集め始めていた。
「大丈夫?」
「……碧くんが手、ずっと握ってくれるなら大丈夫」
「かしこまりですよお嬢様」
やがて二人は正門を潜り、キャンパスへ。
さきほどから登校中の柏ヶ丘生に二度見されたりしていたが、校舎が近づくとより生徒たちが騒然とする。
ひそひそと内緒話しているのは、碧を値踏みしているのだろう。告白じゃないと弁解したのはあくまで同じクラスの人たちだけだったので、そのことが伝わっていないこの人たちからしたら碧とくるみはつきあっていることになっているのだ——今や事実だけど。
だが、計算違いだったのは、ここまで誰も話しかけてこないことだった。
羨望より嫉妬の眼差しがやや
なぜかというと、理由は碧にも分かっていた。
手をつないで隣を歩くくるみが、今がどれほど幸福かというのを、表情と仕草と空気——それら全てで、物語っていたからだ。
皆の理想の少女として……偶像として持て囃されている時の、繊細で儚げでどこか寂しげにすら見える
皆が挨拶すらしてこないのももっともで、学校での彼女しか知らない人が見てもおそらく一瞬よく似た他人——くるみほどの美少女はいないけど——に空目しまうかもしれないくらい、彼女は年相応の屈託のない感情を表に出していた。
——僕からしたら、これでもくるみの全力の半分以下にすぎないと言いたいけど。
そして隣で恋人つなぎするのは、あの事件でいちやく時の人となった高二男子。目を奪う理由としては十分すぎるだろう。
なんて考えている間に、立ち止まる生徒たちに見守られるなか、すんなり昇降口に辿り着いてしまった。
「……碧くんは大丈夫? やっぱりいろんなひとに見られてるけど……」
「誰かさんが守ってくれてるから平気」
「?」
「いいよいいよ、教えたら加護がなくなりそうだから」
「かご?」
横恋慕をする気すら失せさせる、どころかむしろ守りたくなる、彼女の上機嫌が結局のところ一番の武器な訳で。
だが、小鳥みたいに首をこてんと可愛らしく傾げるくるみは、自分の笑みの持つ威力に気づいていないらしい。なんだかおかしくなって、碧も真似して同じく鏡合わせみたいに首を傾げると、そのままぽすぽすと二の腕に額をぶつけてこられた。
「もう、真似っこしないの。ほら、早く行かないと遅刻しちゃう」
「そうだね。これ以上目立つのもさすがにやばいしな」
彼女も人目をあまり憚ることなく手を握ってくるどころか、人目を惹くのは慣れっこと言わんばかりに堂々と歩いていたので、今のところは大丈夫なのだろう。
誰かにけちをつけられた時のために切り札になりそうな言葉をいろいろ考えてきたのだが、それらはどうやら出番がないまま今日は終わりそうだった。
ふたりは靴を履き替え、そのまま階段を上りいつものフロアへ。
迷いなく教室を戸を開ければ、そこは夏休み明けの賑やかな喧騒にみちていた。
誰とどこに行ったとか、いつ何をしたとか。そうかけがえのない高二の夏の思い出を語り合う教室に、くるみを連れて一歩踏み入れれば、何人かが何気なしにこちらを見て——唖然とする。
それに釣られるようにしてさらに複数がこちらを振り返ったのと同時に、
「あっ! くるみーん!」
つばめがいつもと同じ調子で手を大きく振った。
くるみの親友たる彼女にしか許されていないもうひとつの渾名——誰もが待ち焦がれたであろう
「やったねー! とうとう待望の、朝から一緒に通学!」
教室がしんと沈黙していたなかでも、つばめは一切気にせずに駆け寄った。
「碧もよかったねーおめでとう! 影の功労者の私もおつかれさまって言われたい!」
「なに、つばめさんもう知ってたんだ」
「ごめんなさい碧くん、私が真っ先に報告しちゃって」
「ああ、そういうことか。僕もルカに喋っちゃったしおあいこだ」
「ルカって? 碧の海外の友達とかか」
「そうそう……あ、湊斗もおはよう。後半あんま会えなかったけど元気してた?」
つばめがくるみに抱きついて頬擦りする横で、彼女から遅れて親友の大男もやってきたので挨拶をすると、彼からは驚き半分、嬉しさと感慨が半分のにやけが返ってきた。
「折りあいついたんだな」
短い言葉だが、碧の事情を深く知っている彼だから、その十文字にはいろいろな意味が込められているのだろう。
「うん。心配かけてた?」
「どっちかというと焦ったかったから、よかったなあってかんじ。あと詳しくは聞かないけど、ちゃんと決断出来たことが俺は今すげえ嬉しいかな。おめでとう」
友人のいつになく清々しい祝福の言葉に、碧が照れくさいながらお礼を言おうとしたところで。
「けどほら、今はそれより……」
湊斗の苦笑いに我に返れば、誰しもがまだ状況を呑みこめていないといった様相で、大多数の視線は同じところに注がれている。もちろんふたりの腕の先だ。
ひとりが静寂を破った。
「……いやいやお前、なに楪さんと手つないで」
「ああこれ。僕たちつき合うことになったから」
さらっと答え合わせをすれば、ようやく止まっていた時間が再開し、
「「「「ええええええーーーー!?!?」」」」
教室が、驚嘆に包まれた。
「いや秋矢言ってたじゃん! 自分の片想いだって! あの告白もほんとは違うって——」
「それが今は両想いになったんだよ」
「はああ!? 嘘だろ!?」
「えっと楪さん……それって本当なの?」
くるみはクラスの集まりでの会話を知らないためきょとんとしていたが、むろん碧は散々釈明済み、しかもその事情がまた百八十度かわっているのだから、究明の矛先と夏休みの間に何があったかの説明責任の拠りどころは、彼女に向けられる。
クラスの連中からしたらまだ彼女の意思は一度も確認していないので、何かの間違いじゃないかと、いちるの望みをかけながらの問いかけだろうが——返ってきたのは彼らの期待を根っこから裏切る、愛おしげで親密なはにかみだった。
「……はい。私、碧くんとおつきあいすることになりました」
女子からきゃあっという嬌声が上がり、男子は失望の絶叫をした。
多分急だったら彼女らも戸惑っていただろうが、一ヶ月半の夏休みというやきもきな
早速くるみは女子の軍団に群がられ、都会から田舎に来た謎の転入生さながらの質問攻めにあっていた。
当事者ではあるものの、ここに碧がわりこむのも違うので、はがゆいながら彼女に任せることに。
もともと引っ込み思案ではあれど、世間づきあい自体は人並み以上に上手くこなすくるみなので心配はしていなかったが、荷が下りたような——今までよりずっと柔和に
「圧巻だね。さすがスノーホワイト様」
「その呼び名はくるみさんが嫌がるから禁止」
つばめがほくほく口角を上げるので、自分の席に荷物を下ろしつつ、しれっと注意する。
「わ、ごめんつい……って碧、さっそく彼氏っぷりが板についてない?」
「別にこれくらいは前からだけど……」
「あーそうだったね! くるみん曰く紳士だもんね! いやー愛されてんなー」
何か尊いものを見たみたいに口許を隠すつばめの横で、湊斗が質問した。
「ドイツって告白文化ないけど、楪さんにはちゃんと言葉で確認とったの?」
「もちろん。ここ日本だし」
「けど先週いたのはオーストラリアだろ?」
恋人になった記念日はまだ誰にも言っていないはずだが、出発前にストリートバスケするために会っていた湊斗は、その時の様子とつい先日までの不在期間から、どうやら交際の開始日を勝手に逆算していたらしい。
「ふーん。やっぱそういうとこ、碧のいいとこだよなぁ」
「邪推はやめなさい」
抜け目ないな、と指でげしげしこめかみをつつくと、おみくじの筒を降ったみたいにまた質問が転がり出た。
「なあ、碧ってつきあうとどうなるの?」
「どうって?」
「ぐいぐい引っぱる系とか、溺愛する系とか? まあ大事にはするんだろうなってのは分かるけど、お前我が道を行くってタイプだし恋愛にも関心なさそうだったから、あんま想像つかないんだよね」
「彼女出来たの初めてだし僕も知らないよ。ふつうなんじゃない?」
「くっつく前から熟年夫婦みたいだったから説得力ないな」
ボリュームの狂ったスピーカーみたいにわざと音量調節をせずやかましく宣うので、そばの男子たちの机と椅子ががたっと鳴るも、碧は気にせずに、取り出したレポートの角を揃えながら返事をした。
「それは知ってる」
「……碧、前よりもっと動じなくなってるよな?」
「これが愛の力か……」
つばめと湊斗が勝手に赤くなって突っ込むのをスルーしていると、誰かがずるずると、スマホでゲームをしているもうひとりの誰かを引きずりながら近づいてきた。
よく知る男子二人組だ。こいついつも引きずられてばっかだなって思ったけど、とりあえずそれは黙っておきつつ挨拶をする。
「おはよ、颯太。あとなっちゃん」
「なっちゃん言うなや。あーほら死んだだろが」
「おはよう碧っち。やったじゃん」
吹っ切れたように爽やかな目をした颯太はそう
こういう時こそ何か言うべきなのに、言葉が見つからずにいると、彼が先制した。
「いいんだ。俺のは諦める理由を探し続けてたってかんじだから、こうなって嬉しいくらいだし、言い方悪いけど他の人でもよかったってことに気づけたしさ。けど君たちは君たちじゃなきゃ駄目なんでしょ?」
頷いてから、友達相手への礼儀として、これだけはと思っていたことを紡いだ。
「……ちゃんと幸せにするよ」
「よく言った男前! よしよししてやるから後で本人にも言えよー!」
ラケットを握り慣れた固い手で髪をわしゃわしゃして戯れてくるので、されるがままになりつつ、横持ちしたスマホにお熱の夏貴を見やる。
ちらっと視界に映った画面が懐かしのアーケードゲームらしいのは、あの時の勝負のことを未だ引きずってるのかと少し思ったので、何も見なかったことにした。
「……で、隣の君は何も言わないの?」
「何か言ってほしいのかよ」
「うん」
「やっかまれても知らねえぞ」
「何とか捌くよ自分たちで」
「ふん。……まあ、助けないとも言わないけど」
すぐそばでは颯太がうんうんと同意し、湊斗とつばめは、狐に包まれたみたいにぽかんと互いを見つめあい、碧は苦笑した。
まあ夏貴と和解したのも彼らがいない時だったので、その反応も詮ないことだ。
今度、新しい友人として紹介するのもいいかもしれない。夏貴は否定するだろうけど。
「碧くん」
するとその時、こちらのやりとりが気になったのか、
級友たちの視線が惜しそうに彼女を追いかけるのは、本来の人気もあるけれど、まだまだ注目の的だから。学校一の有名人の待ちに待った、あるいは恐れられた熱愛報道なのだ。少なく見積もってもあと一週間はこの熱狂と詮索は続くだろう。
「おかえり。くるみは大丈夫だった? 何か訊かれた?」
「どうしてつき合うことになったのかって
「まあそうだよね」
その辺は真っ先にクラスメイトが尋ねることは予想はしていたが、くるみばかりに考えて答えさせることになったのは申し訳ない。
碧がオーストラリアに行って、それをくるみが追いかけて、その深い愛情に碧が告白を決めたなんて、自分で言うのも何だがドラマみたいなことを今ここで話すのは難しいだろう。
くるみの人望からして信じてはもらえるだろうが、下手に格好のねたを提供するものでもないし、ふたりの大事な思い出は、秘め事のままにしておくべきだ。
「説明するの任せちゃっててごめん。疲れてない?」
「ううん。大丈夫」
「ならいいけど、この後も他の学年から訊かれそうだし、体力は温存しないと」
「そうかもしれないけど……碧くんとのことを話すの、私はぜんぜん疲れないし嫌でもないのよ? 学校でも碧くんとお話できるようになって、それだけで幸福だから」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、これからもっと幸せにするから、現状で申し分ないとかは思わないでね」
「……ふふっ。じゃあ碧くんを幸せにするのは私ね」
碧が眉を下げて笑いかけると、花の蕾がふありと綻ぶように、やや恥ずかしげにしつつくるみも上品に口許に手を持っていって、くすくすとあどけなく髪を揺らした。
それは、彼氏の碧からしてみても、何度だって惚れ直してしまうほどの、美しいはにかみで——。
本人たちもこの瞬間ばかりは意図せずに、今までふたりきりのときにしかしていなかった仲睦まじいやりとりを公衆の面前でしてしまったことに、気づかないまま。
その時なぜか、本当になぜか——ちぱちぱと小さい拍手が巻き起こり、碧は我に返る。
「!?」
どうやら見惚れたのは自分だけじゃないみたいで、群衆からは息を呑む音まで聞こえ、彼らの半数以上はぽかんと口を開いていた。
そして同時に、生温いような見守るような、どこかむず痒くなる視線。
ここでようやく碧は、どのようにおつき合いを告げるかばかりに気を取られて、自分たちの
「……いや教室には私たちもいるんだけど、ね?」
「仲がいいのはもう分かったからさ!」
「ふたりの世界に行ったらとことん帰って来ないんだね」
「あ……」
お前らちょっとやりすぎじゃないか? と湊斗に耳許でぼそっと呟かれるが、時すでに遅しである。
クラスメイトの呟き曰く「愛だね」「眩しい」「羨ましい」とのことらしい。
親友たちも後ろで、照れだか呆れだか分からない表情で見守っていて、くるみに至っては、真っ赤になってしおしお小さくなる始末。
ものすごく居た堪れない空気になっているので、碧は恥を忍んだ。
「ごめん、教室騒がせちゃって。……なんか当たり前のこと言ってるみたいだけど、くるみさんがこうやって学校で高校生らしく笑ってられてるのも、それを皆が温かく迎えてくれるのも、すごく嬉しかったから……」
だからその、ありがとうね。と誠実に今の心境を述べると。
「…………」
何かが女子達の間で定まったらしい。
一番近くにいた子がはーっと吐息を落とし、床に崩れ落ちる。
「そういうことね……」
「なんか楪さんが秋矢くん選んだのわかる気がする……」
「……なんで今まで気づかなかったんだろ」
なんかよく分からないリアクションがあって困惑したが、とりあえず、クラスではいちおう受けいれてもらえたことに、ほっと安堵した。
くるみも頬を淡く染めているが、心底嬉しそうに身を寄せるので、第一目標はクリアといったところだろう。
そして後ろでは、誰かが呆れ気味にぽつりと言うのだ。
「碧ってつき合うとこうなるのか……」
「こりゃあ、俺らが手を貸すまでもないな」
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