第138話 交際宣言(1)
翌日の登校日は、ふたりの門出を祝福するような晴天だった。
スマホの目覚ましより早くベッドを出た碧は、半熟の目玉焼きとトーストを朝食にし、旅先で書き終えた課題のレポートをデイパックに詰め込み、クローゼットでぐっすり眠っていた制服を、一ヶ月半ぶりに叩き起こした。
そうしているうちに約束どおり、くるみは出発の二十分ほど前にやってくる……のだが。
「おはよ——う……?」
合鍵で玄関に上がりリビングまでやってくるや否や、目を丸くしながら挨拶もそこそこに、瞬きをしぱしぱとくり返す。
その先には、全校集会があるからと鏡の前でネクタイを締めている碧がいた。
「おはよ。やっと今日だね」
とのんびり言うと、いやそうじゃないでしょうと言いたげにはくはく口を動かし、自らの美しい髪にくるみは指を差す。
いったいなんだと思いつつ彼女に倣って自分も短くて黒い己の毛先を抓み上げ、ああと得心すると同時に。
「その髪! 切ったの?」
とようやくくるみが言った。
もう一度鏡を見れば、まだ少しだけ見慣れない自分がいる。碧は毛先を弄りながら、こくりと頷いた。
「これは昨日ね。君と一緒にいるなら僕も、出来るだけ見栄えもよくしたほうがいいかなっと思ってさ」
そう……髪をほんの少しだけ、短くした。
くるみがほたるにいろいろと複雑な感情を抱いていたことも察していたから、くるみをしょんぼりさせたくない碧の方からあまり彼女に会わないようにしていたこともあり、カットをすることもなく、ここ最近は伸ばしっぱなしになっていた。
夏休みには毛先が目の下まで掛かっていたので分けてなんとか視界を確保していたのだが、くるみの隣に立てる人間になる最後の一念発起として、昨日くるみと別れた後、湊斗に教えてもらって予約してたヘアサロン——ちなみに人生初——に行ってきたのだ。
とはいっても去年の冬くらいの短さに戻っただけで、殻を脱いだとか、別人に間違えられたってことは一切ないのだが。
それでもくるみからしたら久しぶりで物珍しいのだろうと、ちょっとは誉めてもらえることを期待していたら、白磁の手がやおらシャツの襟に伸ばされた。
「……あ。ネクタイ曲がってる」
かいがいしい
「髪を切るのはいいけれど、肝心なところでだらしないのはめっ、だからね?」
「あ……うん。ごめん」
「よし。いい子です」
なんというか、よく考えたらつき合う前からくるみはこんなかんじだったけど、いくら恋人同士になったからって、新婚夫婦みたいな真似はさすがに照れる。今なんかまさに、旦那さんを仕事に送り出すお嫁さんそのものだ。
本人に一切自覚がなさそうなのがまた可愛らしくて、もちろん伝えれば真っ赤になって狼狽えるだろうから、心に秘めておくことに。
そして小さい子供を優しく嗜めるような口跡はいつもどおりながら、彼女の目が泳いでいるのも気になっていた。
「全くもう。碧くんは私がいないとだめだめなんだから」
「ありがとう。……ところでこっち見ないのは、髪がどっかおかしかったりとか?」
どういう訳か彼女は寂しげに瞳を伏せる。
「……くるみ?」
「別に。格好いいなって」
「そういう時は、
「……嘘はついてないわ」
本音なのはわかるのだが、どう見ても憂わしげかつ心細げで、喜んでいるようには見えない。
間近でじーっと見つめ続ければ、詰まった距離に気づいてびっくりして
「あの、ね? ……これ以上碧くんが格好よくなったら、女の子にいっぱい人気になるのは目に見えてるから。少し複雑だっただけ」
「さすがに持ち上げすぎじゃない? 僕は別に、僕のこと格好いいと思わないけど」
「かっこよくなくないっ。碧くんはもうちょっとご自分の色気とか魅力とかを自覚なさって! ただでさえ、他の人にない碧くんのすごいところがみんなに知られて、嬉しい半分ちょっと焦ったりしてたのに」
「あるとしてもそれ、くるみ限定な気がするけど……。でもまあ、君が言うのなら、そうなのかな……?」
碧はわりと本気で分からなかったのだが、一歩近寄り制服のシャツの裾を掴みつつ低いところから見上げてくる大粒のヘーゼルは、まるで「余所見してほしくない」と訴えかけるようだった。
けれど確かに、人間とは自分にないものを持つ者に惹かれるのだとはよく言ったもので、この間の花火大会で碧が一時的に女子に群がられたように、帰国子女のトリリンガルという肩書きは高校という狭い世界じゃ珍獣扱いというか、それなりの優良物件と呼ばれる理由になり得るというのは身をもって分かっている。
が、碧は自分の将来と大義のために外国語を努力して習得したのであって、それを自分を魅せる武器にするつもりはないし、なんなら半分以上は生い立ちのおかげでもあるし、ドイツへ移住を決断した父親に感謝すべきだ。
それに誰に寄ってこられて誰に嫌われてもどうでもいいというか、極論くるみが好いてくれるならそれでいいと思っていた。
とはいえ夏休み前の試験なり、昨日の散髪などは、くるみに見直してもらえないかなっていう打算が一切なかったと言えば嘘になるわけで。
誰のためでなく、ましてやくるみの為なんて言うつもりはなく、自分を高める努力の決断は第一に自分のためにしたのだけれど、あわよくば——なんて考えていた自分の浅ましさを恥じながら、それでもやきもちを焼いてくれたのが嬉しくて。
「知らないの? 僕だってくるみさんに言い寄る男が今後もどれだけいるんだって考えたら、相当嫉妬しそうだってこと」
「……そう、なの?」
「あんだけモテればそりゃね」
「けど……私だって叶うなら寄ってきてほしくないわ。見た目に気を遣っているのだって、好かれたいからじゃなくて理想の自分でありたいからだし。……気持ちは嬉しいけど、時間とられるのは迷惑してるもの」
結構こういうとこは合理主義というかドライだよな、とは口には出さず。
「ほら、そうやってくるみは僕だけ見ててくれたでしょ」
「碧くん以外の人に見むきなんかしませんもん」
「それと同じで、僕もくるみしか見ないよ」
ずっと隣にいてくれて、励まして勇気をくれた彼女以外の誰かに、目移りなんかするはずない。くるみが世界一可愛いのが事実ということを前提として、仮にくるみより条件のいい女の子がいたとしても、碧は決してそっちを選ばないし、彼女に自分を選んでもらえることを願うのだ。
「僕ってこんなんだし、いい意味で誰かに何か言われるなんて想像つかないけど、とにかく心配にさせることはしないから。約束」
「……そう。ならいい、の……だけど」
真っ向からの誠実な言葉に照れたのか、淡い色彩の髪の隙間から覗く耳までほんのり赤くしたくるみが、もじもじ両手の指同士をつついたり組み合わせたりしている。
「こんなこと言うの、可愛くないかもしれないけど……私は碧くんの世界を制限したくなんかなくて。でも今日だけは……私だけの碧くんで、いてほしい……です」
あまりの可愛らしさに呻きそうになったちょうどその時、ふと天啓が降りてきた。
「じゃあ最後にひとつだけ、もう秘密のやり取りもなくなるだろうけど、ふたりの合図決めとく?」
「え……?」
そう言うと碧は、一人で手遊びしていた彼女の右手を拐い、ミルクのように真っ白くなめらかな掌を、そっと自らのそれで包み込んだ。
「教室に行くまで手はつないだままでいるから、なにか嫌なことがあったら、手をぎゅっと握って」
手を奪われたくるみは初めは虚を衝かれていたものの、きゅっと唇を結んでからこくりと静かに頷いて「……碧くんのそういうところが私は好き」とはにかみつつ呟いた。
ちょうどその時、点けっぱなしにしていたテレビの朝のニュースが今日の星座占いをスタートさせる。
学校は近いので、この時間でも余裕はあるのだが、誰かに絡まれるかもしれない面倒事を考えたらそろそろ家を出たほうがいいだろう。
「じゃあ出発しようか」
「碧くんは占いは見ない? あまり信じない派?」
「今日はどう考えたって大吉なんだから見る必要がない派」
「そっか。じゃあ私も大吉に決まってるし、占いは毎朝なんとなく見てたけど、今日からは卒業かな」
「星座は違うよね?」
「でも今日は一日一緒にいるんでしょう? 碧くんがラッキーなら、私も幸せなのです」
照れと恥ずかしさにほんのり喜びを織り交ぜたような柔和な笑みを浮かべたくるみは、今度は彼女の方から、こちらの左手に慎重に指を絡ませる。
くるみは自分で持つつもりだったようだが、碧が彼女のスクールバッグをさらりと持ち上げると、代わりにくるみはくすぐったそうなお礼と共に、合鍵で玄関の扉を施錠した。
——そうして僕たちは、交わり始めたふたりの世界へ、最初の一歩を踏み出すのだ。
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