第127話 キャンプの夜(3)

〈……放送が、九時をお知らせします——〉


 ラジオの淡々とした時報が、ふたりを夜の深みへと誘う。


 くるみから目を逸らせないまま、ボリュームのダイヤルを手で探り当てて音量を下げた。


 真夏の夜の蛙や虫の合唱が、小さくなったそれを上書きする。


 点けっぱなしの番組は歌を終え、今は届いたお便りと恋愛談義を語り合っているが、ふたりとも互いを見つめあい、ささやくそれに耳を傾ける者はいない。


 テントのなかをぼんやり照らすランタンの光が、碧の心の動揺を表すように、ちらちらと揺れた。


 LINEを開くと、くるみが見守るなか、碧は彼女とのトーク画面に文字を打ち込む。


 送信をしなかったのは、この距離じゃする必要がないからだ。


〈僕だって〉


〈してるに決まってるじゃん〉


 音に、言葉にするのが恥ずかしいから。このままこちらを見つめられたくないから。


 そんな情けない逃げ道だけれど、思惑どおり腕のなかのくるみはこちらを見るのをやめて、未送信の文字を眺めた。


 それから桜の花びらみたいに可憐なゆびさきをキーボードに伸ばし、送信を押してから新たな文字を上書きする。


〈じゃあもっとしてほしい〉


〈私とおなじくらい〉


 互いの目も見ずに、ふたりでひとつのスマホでやりとりを完結させて。


 それでも、どっどっと鼓動は際限なく早まっていく。


〈だってあんまされるとこっちからいたずらするかもしれないし君だって〉


 打ってる途中の指を、不意に止められた。


 くるみが預けきるように寄りかかり、こちらを見上げてくる。



「……いたずら、しちゃうの?」



 熱に浮かされ、ぼーっとする。


 もう心拍数は限界だった。こちらにもたれる彼女にも、きっと伝わっているのだろう。


 きぃんと耳鳴りと目眩がして——距離をとろうと碧はくるみの肩をやんわり引き離して立ち上がった。


「暑いから涼んでくる」


 と言ったが、まるで焦ったせいみたいなので訂正をかける。


「……じゃなくてやっぱり眠いしコーヒー貰ってくる。このレモネードみたいなの甘ったるすぎだし、あと夏のせいだからまだ寝たくないし、ほんとに夏のせいだし」


「碧くん」


 しどろもどろをさえぎられ、振り向いて——後悔する。


「私のせい……?」


 その発言を、よくこんな表情で言えたものだ。


 花の蜜を孕んだようにとびきり甘くていとけない、安堵と幸せが滲んだはにかみ。そこに底知れない色香のあるコケティッシュな笑みが交じって、相反する印象が両立している。


 ——あ。駄目だ。


 だってこんなのは、矛盾だ。


 言葉に対しあまりに不釣り合いな表情は、こちらを混乱の渦に叩き落としそうで。


 柔くとろけた白い頬をつついてうやむやにすることも出来ただろうが、今の碧にそんな余裕はなかった。もう、逃げるしかなかった。


 しかしくるみは仔猫みたいに後を追い、寂しげな声をあげて袖を掴んでくる。


 行かないで、と乞うように。まるでスローモーションみたいに。


「待っ——」



 今になって、思う。


 公開告白が本人の耳に届いたら彼女はどう思うのだろうか、と。


 もし何かの間違いで『いいよ』なんて言われたとしたら。


 ——他に追いかけるべきものがある僕は、どんな結末を待つのだろう?


 瓶の底に沈んだ本当の気持ちさえ、曖昧で不確かなまま。



「あっ」


 足が絡みあい、すぐそばのダブルベッドにもつれるように雪崩れこむ。


 最後に視界に映ったのは、こちらを巻き込みながら空中に尾を引く、美しい絹糸で。


「……っ」


 どくん、と耳が真空になる。


 動くこともできず、碧は自分の真下にいる少女を、ただ見つめた。


 くるみはベッドに押し倒されたまま瞠目し、人形みたいに目を見開いていた。


 柔らかい光沢のある髪がはらはらと、白いシーツの雲海に美しく広がっている。


 ともすれば互いの体温が伝わり合うほどに近いところから、くるみの震える吐息が喉仏をくすぐる。やがて息を潜めたのか、届く風はか細くなった。


 自分もまた、驚きに弾んだ吐息が彼女に届くことがすごく恥ずかしいことに思えて、ぐっとこらえる。


 互いに目は離せない。


 永遠とも思える数秒がすぎ、やがて先に動いたのはくるみだった。


 驚きに瞠目していた甘いブラウンの瞳が——ぎゅっと堅く閉ざされたのだ。


 小刻みに震えて、それでも拒みはせず。


 むしろ何かを待つように身をこわばらせるくるみを見て、碧は——


「!!」


 すぐさまがっと思いのほか強い力で跳ね飛ばされる。


 くるみは混乱ゆえ瞳にぐるぐると渦を描かせながら、両腕を突き出したポーズで叫んだ。


「な、なにするのばか!!」


「何って、くすぐっただけじゃん」


 ベッドに尻もちをつきながら平坦と答えると、白い頬が一気に真っ赤になった。


 小さく唸りながら、ぽすぽすと枕をぶつけてくる。


「それは知ってます! 私がお腹くすぐったいの苦手なの知ってるでしょう……もう!」


「あはは、ごめん……もうしないから」


 小さく笑うと、くるみは怒りに水を差されたように大人しくなる。


 まだ物言いたげにこちらを見上げているが、先制したのは碧だった。


「ところでいつもならもう寝てる時間でしょ。僕も今日は疲れたし早く寝ようかな」


「じ、じゃあ私も戻る。……あの」


「ん?」


「……何でもない。おやすみ碧くん」


「おやすみ」


 何かを言いかけてから止め、ぎこちなくテントの外に身をすべらせたくるみが、ぴょこっと面差しの半分を覗かせる。


「……夜ふかししちゃ、駄目だからね?」


 照れくさそうに可愛らしい叱咤をひとつ残したくるみの、やけに荒っぽく忙しない足音が遠ざかっていくのを最後まで聞き届けてから、


「っ」


 碧は緊張の糸がぷつんと切れたように、床に崩れ落ちた。


 ——危なかった。


 何でもない振りこそして見せたがその実、この動揺を気取られまいと必死だった。


 くすぐりだって、弱いを知っていたから敢えて空気を壊すためにした。そうしなきゃ自分がくるみに何をしていたかと思うと、血の気が引く思いだった。


 事故とはいえ押し倒されたくるみは言葉こそ紡ぎはしなかったのに、気配が、空気が、表情が……『いいよ』って訴えかけているように思えたのだ。


 あのままでいれば、なし崩しにくるみのキスはじめてを一つ奪っていたかもしれない。守らなきゃいけないはずなのに、傷つけたくないのに、同時にめちゃくちゃにしたいと思ってしまった。


「もうほんと、何とかしてくれ」


 いまだ激しい鼓動のおさまらない胸を押さえ、今日一長いため息とともにふかふかのベッドに仰向けに倒れ込む。


 ……やっぱり甘い匂いが残っていて、悶々としたのですぐに起き上がった。


 代わりにソファにごろんと寝転んだ碧は、冷静さを取り戻すために、一日返せなかった海外の友人からのメッセージを返していくことに。


 十分ほどでようやく落ちついたので、眠る前に持参した文庫本でも読んで夜の延長とするかと思い立ち、バックパックの中を手で漁ったところで、何か固い紙のようなものが手の甲に当たる。


「あ……そういえば持ってきたんだっけ」


 出発の前に郵便受けから取り出したエアメールだった。


 一日があんまり楽しかったものだから、すっかり忘れていた。


 改めて宛名を確認する。


 差出人の国はドイツ。送り主の名は——。


「……琥珀こはく?」


 それはかつて同じ目的を持っていた相棒であり、日本人の親友の名前。


 そして自分がもう二度と話すことのできないと思っていた人物だった。


「なんで……」


 どうして今になって。


 日本語でしたためられた文面に目を通す。


 〈遠くないうちに帰国するからまた会いたい〉


 要約すると、手紙はそう言っていた。


 もう一冊、何かが同封されていることに気づく。


 取り出すとそれは楽譜だった。


 一番上にフランス語で題されているのは〈Le Tombeau de Couperin〉——邦題で〈クープランの墓〉だ。


 そのままでいると真夏なのに凍えてしまいそうだから、楽譜をぐしゃりと握りしめて、走るようにキャンプ場を抜け出した。

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