第126話 キャンプの夜(2)
焚き火が熾火になった頃、もう少し晩酌をしたいという母を火の番に残して、ウッドデッキの展望台でのんびり夜風に当たっていた。
山とはいえ真夏なので空気はぬるいが、都会で揉まれた気分をさっぱりさせるには十分だと思いながら、ウッドデッキに体を預ける。
夜天には女の子が転んで金平糖をばらまいたみたいな星々。そんな神様のプラネタリウムの下で、りぃりぃと名も知らぬ夏の虫の合唱を聴きながら何も考えない時間をつくるというのはなかなかに贅沢だ。
とくに最近は勉強に力を入れたり、くるみとの関係をクラスメイトに詰められたりといろんなことがあったので、こういう旅行自体ありがたいなと思う。
とはいえ忙しい現代人の哀しい宿命なのか、本当に何もしないというのも何となく落ちつかなくて、端末でスペイン語の動画を再生した。
「Dígame lo que piensa.」
追いかけるように発音を真似する。いわゆるシャドーイングだ。
たとえば野球でバッドとグローブに手入れが要るのと同じように、言語もごぶさたすると忘れてしまうので、記憶の維持のために時折こうして取り出してやることが必要なのだ。
「Sigo pensando que existe una correlación entre ambos.」
「えーと、ぶえなすなーちぇす?」
「Lo sabrás cuando lo veas——っ」
突拍子のない掛け声に、危うく舌をかみそうになる。
振り返ると、思ったとおりの人物だった。
「えへへ、びっくりした?」
「はあ……見慣れてなきゃてっきり、夏の幽霊かと思った」
「今のはスペイン語?」
「分かるの?」
「解らないけど、何となくそうかなって」
そう言っていたずらっぽく笑ったくるみは、温泉から戻ったばかりらしく、頬はほんのり上気している。
湯上がりの隙だらけな姿は一度見たことがあるが、その時と違うのは一番上のボタンまできっちり留めた健全なしましまパジャマなところだろう。春休みのビデオ通話を思い出すと家では恐らくお嬢様なネグリジェなのだろうが、あれはあれでこう……突き刺さるので、むしろ助かった。
なんて、こちらの思惑も何も知らないのだろう。
彼女はしなだれるように柵に身を預けて、こちらを上目遣い。
「続けてどうぞ?」
どこか甘えんぼな響きで促され、どきっとしつつ言われるがまま再び動画に耳を澄ませるが、やっぱり集中できるはずもなくて碧はスマホをポケットに押し込んだ。さらば、スペイン語。
「ところでくるみはこんな時間にどうしたの? また眠れない?」
「あ、私のこと手のかかる小さい子かなんかだと思ってるでしょう」
むむっと頬をふくらませたくるみは、そうじゃなくて、ともじもじ肘を右手で掴む。
「……なんだか今日が終わるのが名残惜しくて。ふたりでもう少し一緒にいたいなって」
しなしなと、烟る睫毛を月下に伏せながら。
「夏の夜が短いせいで」
「……そっか」
夏のせいなら、しかたがない。
「いいよ。言われてみればこんな夜も二度とないだろうし」
それがどうにも可愛くていじらしくて、碧は少しおおげさに頷いた。
さすがに他の宿泊客もいるので、クローゼットにあったガウンを羽織らせる。
ラウンジに寄ってからホットハニーレモンを二杯貰って、テントに連れていき、ラグに脱ぎ散らかした服を雑にどかした。
「眠くなったらベッドで寝ていいからね」
「ね、寝ません!! いじわる」
梅雨に起きたお泊まり事件を思い出しながらにやにや言うと、ほんのり頬を赤らめたくるみにぺちぺちと抗議される。
本音はくるみが寝た後のベッドは甘い香りがして寝れない原因の一つになるから、こちらとしてもあまり貸したくないのだけど。
碧は片した地べたに腰を下ろす。ソファも椅子もビーズクッションも空いているし、そこはくるみに譲るつもりだ。
「好きなとこ座っていいよ」
そう言われたくるみはきょろきょろとあたりを見回してから、何を思ったのか。迷わずラグに——正しくは
「ん?」
「え?」
調子外れな声をそのまま返すように、振り返りつつぱちりと瞳を瞬かせるくるみ。
「好きなとこ座っていいって言ったから」
「そか。なら仕方ないね」
——ってなるか普通?
もぞもぞと
体格差ですっぽり包まれた彼女が、父に甘えきる幼い娘みたいで心底可愛らしく、碧も何か言うことも出来ずに黙ることに。
ただ少しだけ逃げるように、後ろに手をつき重心を移して彼女との隙間を生み出す。
しかしそれすら、くるみが追従して体をぽふっと預けてくることで水の泡なんだけど。
壁には、ランタンの放つ優しい光に照らされたふたりの大きな影が、まるで抱きしめあっているようにせらせらと揺らめいている。甘えていいよって自分が言った以上、ここで逃げ出すのは許されない気がする。努めて平静でいろ。
が、どうにも居た堪れない……そうだ、確かベッドサイドにラジオがあったはずだ。
そうひらめいた碧は、せめて静けさを遠ざけるため、腰を浮かし前のめりになりつつ、枕許のほうに縋るように手を伸ばした。
「……!」
腕にすっぽり包まれたくるみが、緊張したようにぎゅっと目を瞑る。
のも束の間、微睡むような調子で夜の底をただようFMラジオのトークが始まったと分かれば、ばつが悪そうに頬をほんのり染め上げた。
「ごめん、今つぶしちゃった?」
「あ……大丈夫! ただちょっとだ、
「だだちゃ豆?」
「ぜんぜん違うし何でもない!! それより碧くん、私見せたいものがあって」
腕のなかで早口でまくしたて、スマホのロックを解除すると、一枚の写真を映した。
くるみにしては本当に珍しい、自撮りだ。
フリックは女子高生らしくいつも高速なのに、セルフィーは慣れていないのか半分見切れているのが、かなりほほえましい。
野外で撮ったらしいその右手にあるのは、日本国旅券の文字が印字された一冊の——
「それ、パスポート!」
「実はこのあいだ申請して、やっと昨日貰えたの」
「へーいつの間に! おめでとう」
「ありがとう。ここには持ってこれないけれど碧くんには一番に見せたかったし、なにより一歩進んだのが嬉しくて……つい写真撮っちゃった」
幸せが染み込んだ、とろけるような表情。
腕を回して抱きすくめたくなるのを、必死に抑えた。だって後ろにいる碧が何か手出しするなんて訝る様子など、くるみにはみじんもないのだから。
くすくすと妖精の羽擦れのように笑ったくるみは、こちらの肩にもたれて頬をすりすりと押しつけた。
甘いミルクの匂いといつもよりあどけない仕草に、思わず喉が鳴る。
〈次の曲は——〉
ラジオから、カーペンターズの『Only Yesterday』が再生される。
自分が生まれる遥か昔に誕生した曲だけど、父がよく聞いていたから碧もこの歌は知っていた。その父は祖父がよく聞いていたことで好きになったらしい。
I have found my home here in your arms
Nowhere else on earth I'd really rather be……
三世代を渡ってきた曲が、夜の空気に染みていく。
「……あ、パスポートといえば」
ふとくるみに、このことをまだ伝えてなかったのを思い出した。
「僕さ、八月の後半にオーストラリア行ってくる予定なんだ」
「!」
突然の話に瞳をぱちくりさせるくるみに、スマホで予約ページを見せる。
「クイーンズランド州から始まって次にシドニー、その後はキャンベラって街。最後なんか泊まる予定の宿がまたすごいんだよ。ほら、こういうとこ」
「これってホテル……じゃ、ない?」
「そういうのは長く泊まるには高いから。僕は節約したいから28
「し、知らない人と。世界は広いのね……」
「今あっち真冬だしマフラーとかダウンジャケットとかまた出さなきゃ。だからまあ、ざっくり二週間ほど家は空けると思う」
「半月も……そっかぁ」
見るからにしょんぼりしたくるみに、碧は困り笑いで励ましを返す。
「冬休みの時と同じで、ちゃんと連絡は見れるし返せるからさ」
「ほんとう?」
「
身を捩って、くるみが一気に距離を寄せる。
なんていうか……こういう時に美少女だと思い知らされるよな、と思わず見惚れてしまっていると、真剣にこちらを見据えていたヘーゼルの瞳が、ふっと曇った。
怪訝に思うと同時に、自分の言い放った〈連絡〉というワードに……テーブルの湯気が立たなくなったレモネードみたいに、碧の思考は妙に冴えていた。
「くるみさ」
碧は彼女の名を呼んだ。
「……もしかしてお母さんとまだ、ちゃんと話しあえてない?」
今日、くるみは何度もスマホを気にしていた。
だからもしかして、と思ったのだ。
そして目の前の少女はというと、いたずらが見つかった子供みたいにささやかに口角を上げたのだった。
およそ半分は当たりってとこか。
「今回の旅行はちゃんと許可を貰ったから大丈夫よ。誰と行くのって聞かれたから学校の子って答えて」
「うん」
「ただ、代わりに時々連絡をするのが条件だったから……それでスマホが手放せなくて」
「……そっか」
ということは本来であれば家の事情で難しかっただろうに、本当にがんばって交渉してくれたのだろう。母との電話の時、断りづらい空気にさせてしまったのだとしたら、申し訳ないことをしたと思う。
「ここに来るの、無理させてたならごめんね」
「! そうじゃないの!」
きっぱりした語調の否定。
続けて慌ててぶんぶん首を振って、甘い香りのロングヘアを波打たせる。
「うちはいつも家族が忙しくて旅行もあまりいけなくて。だから私、今日のキャンプも、碧くんと海外に行けるのもすごーくたのしみにしてたの、知らないでしょう?」
「じゃあどうして。なんか今日ときどき難しい
「……気づかない?」
反問されたので頷くと、くるみは白い頬に朱を昇らせてぼそっと呟いた。
「私があなたと一緒にいて難しい表情してたら、理由は……ひとつしかないのに」
寂しげに揺れ動いて、今にも逃げ出してしまいそうな熱を帯びたその瞳。
それはまさに、午後一緒に釣りをしたときのものと同じで。
「碧くんとくっついて、あなただけどきどきしてないのは……ずるい。ばか」
どくんと脈が大きく跳ねる。
だってその言い方じゃ、まるで彼女は——
「不平等、だから」
碧は息をするのも忘れて、彼女を見つめた。
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