第122話 家族合宿(1)
それは合宿当日の朝のことだった。
玄関を出ると、じわじわ焦がす烈火の太陽みたいなセミの声が、高い蒼穹に響く。八月ともなると朝でもすでに気怠げな暑さが待っており、まだエレベーターを待っているだけというのに、外に出て一分もしないうちに早速汗ばんでくる。
むわりと身体にまとわりつくような熱気は日本特有のものであり、こういうときは海の向こうが恋しい。
そんなことを思いながら降りた一階のエントランスで郵便受けを確認すると、一通の手紙が入っていた。
「……エアメール?」
教科書くらいのやや大きめの封筒だ。宛先には筆記体の英語でこちらの名前と住所が記されている。スマホをまだ買い与えられなかった時の知り合いには代わりに二カ国の住所を教えていたので、おおよそ海外暮らし時代の友人の誰かだろう。
そう判断し裏返して差出人をチェックしようとすると、どうにか許可が降りたおかげで早朝からすでに待ち合わせしていたくるみに呼ばれた。
「碧くん? 出発できそう?」
「……あ、大丈夫。ていうかくるみこそ、本当にその大荷物でいくの?」
「? そんなに多くないと思うけど」
「いや多いよ。何泊するのかと思ったもん」
碧はリュックひとつで済むのだが、くるみはそうもいかないらしく、日傘に帽子にポシェットにと山盛りだ。
「じゃあ行こうか、荷物持つから貸して」
くるみのボストンバッグをさっと受け取ると「……ありがとう」と、はにかんだような礼が聞こえる。
会社がある神保町近くに住んでいる母親とそこに泊まっている千萩は、車で迎えにきてくれることになっていた。マンションを出てすぐのところで拾ってもらうことになっているので、そろそろ向かわなければならない。
この手紙は旅先で夜にでも読めばいいだろう。
そんなかるい気持ちで、封筒を鞄にすべりこませた。
*
再会の挨拶もそこそこに、くるみを先に座らせ、自分も後から乗り込むと、母のランドクルーザーはすべるように走り出した。
備えつけのカーステレオからMrs. GREEN APPLEの『青と夏』が流れると、ようやく旅の実感が湧いてくる。夏休みの人に溢れた駅前をエアコンの効いた車内から横目で追い越し、烈々とした空の下の東京からどんどん遠ざかっていくのを車窓から眺めていると、運転席の琴乃がバックミラーの向こうでご機嫌に言った。
「さてさて! いろいろ移動しながら出来るゲームとか考えてきたんだけど、まずは挨拶かしらね。千萩、ほら。ご挨拶なさい」
助手席には初めから妹がいて、後ろには自分とくるみ。お隣同士仲良くね、という意図がひしひしと伝わってくるのは気のせいか。
まだ十三歳の千萩は、やはり半年前に会った時より少し大きくなっているように見えたが、内気な性格はそのままらしい。肩にかかる柔らかいブラウンの髪を寄せ合うようにして口許を隠し、もじもじ恥ずかしがるように瞳を伏せた。
「……
「私じゃなくてくるみちゃんによ?」
蝶のささやきのようなボリュームで、運転席に耳打ちする。
「なになに……『こんにちは千萩です』って」
「ふふ。はい、こんにちは」
「えっと……『今日はよろしくです』って」
「通訳してる風なとこ悪いけど日本語なんだから、大きな声で言えばいいでしょ」
伝書鳩に思わず突っ込むと、千萩は驚いたように鞄をぎゅっと抱きしめた。
妹は兄とは違いかなりの人見知りだ。いちおう日本語は話せるが得意ではなく、自信もないようで、もちろん難しい単語は分からない。家族の間では日本語で話すルールだったのだがやはり学校や家の外ではドイツ語がメインになってしまうので、物心つく前に移住となった彼女には母国語のマスターは厳しかったようだ。
なんて考えていると、隣からぱーっと後光らしきものが差した。
「はじめまして、くるみです。千萩ちゃん、今日は来てくれてありがとう。もし日本語で分からないことがあったら、スマホで調べて、できる限りで言い換えるから教えてね」
くるみが光り輝く天使のような笑みで優しく話しかけると、はっとした千萩が憧れるようなきらきらした目で見つめた後、はにかみこくりと頷いた。
どうやら
翻訳アプリに文字を打ち込み、千萩がスマホを掲げる。
〈くるみちゃんはドイツ語分かるの?〉
「ほら。折角なんだからスマホは禁止。それくらい自分で言えるでしょ?」
「千萩ちゃん。私は分かるって程じゃないけど、碧くんに教えてもらってちょっと勉強してみたの。三ヶ月だからまだまだ聞き取れないことはあるかもしれないけれど」
「すごい……。千萩、日本語は自信ない……から」
「そしたら私が教えるから、千萩ちゃんは私にドイツのいろんな言葉教えてくれると嬉しいな。折角の夏合宿ですものね」
「ん。……あのね、くるみちゃん」
「なぁに?」
「えと。お姉ちゃんて……呼んでもい?」
「あらいやだ、千萩ったら。お義姉ちゃんだなんて少し気が早いんじゃないかしら」
「一人だけ違う漢字想像してない?」
母の妄言と兄の突っ込みは聞かず、くるみはにこやかに返した。
「もちろんいいわよ。千萩ちゃんは中学生? ドイツの学校ってどんなところ?」
「
「私は碧くんと同じ学校よ。そっちと違うところあるのかな。日本の高校はね——」
二人は打ち解け、時折くすくすと笑いながら談笑する。
妹だから意識はしないが、千萩もなんだかんだ美少女だし、並ぶと本物の姉妹に見えなくもない。
なんて思っていると、信号待ちの間に母が鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出した。
「さてさて。挨拶できたことだし、折角だし皆で絵しりとりしたらどうかしら。言葉が駄目でも、イラストなら万国共通でしょ?」
「……
「ルールはこう! 難しいなら濁点は外してもよし。私運転してるから千萩が代わりに描いてくれる?」
「む……」
口を挟む余地がないまま、勝手にスタートした。
多分くるみと千萩が打ち解け合えるように、考えてきてくれたのだろう。
真っ白な画用紙には、左上のりんごからスタートし、ごみ箱とこいぬ座のイラストが描かれている。
ちなみに妹は絵が上手いので見間違いはまずないだろう、むしろ進んで難易度の高いものを選んでいる節がある——次は『ざ』か『さ』だ。
「……」
何かよからぬものを感じて隣を見ると、案の定くるみは苦い表情をしていた。
くるみほどよくできた人間もなかなかいないが、そんな彼女にも努力で克服しきれなかった弱点は存在するのだ。
右手がそっと頬にくっつけられてるので吹き出しそうになる。残念ながら秘密のサインを出されても碧は助けることは出来ない。覚えて活かしてくれるのは光栄だけども。
「くるみ」
「……だいじょうぶ、何も言わなくていいわ。私の次が碧くんだから、何とか読み取って」
大事な使命を託された。
千萩からスケッチブックを受け取ると、鉛筆片手にくるみは真剣な表情で手を動かす。
時々「あっ」とか「うぅ」とか小さな悲鳴が洩れ出ているあたり、本当に苦手らしい。高校では必死に隠してきたらしいので、多分碧しか知らない一面だ。
たかが絵しりとりなのに、大真面目に描いている姿は、妙に可愛らしい。たっぷり時間をかけてイラストを描き足し終えたくるみは、おずおずと不安げにしながら大切なバトンを預けるようにこちらに回してくる。
「——これは」
絵を見て、碧は戦慄した。
いつも字は綺麗なくせに、何故かゆるゆるとした頼りない線で、丸い耳がふたつに四本足。輪郭はどうみても横を向いているのに、豆大福みたいにつぶらな目とやけににっこりとした口はじっとこちらを見ている……おかしい。
まるで幼稚園生の落描きだ。
「……さい?」
「サーベルタイガー!」
「判るわけ」
動物で『さ』から始まるものを捻り出したのだが、そんな古代の化石を出されても判るはずがなく、思わず笑ってしまった。
絵心ない自覚があるなら、もっと分かりやすいのを選んでほしい。妙に味があって可愛いイラストではあるのだが……。
ものは試しにと他の動物も描かせてみたのだが、書き分けができないらしく、やはり彼女談のサーベルと似たものが提出されたので、笑いをこらえる羽目に。せいぜい差分として縞々やぶち模様があるくらいだ。
くるみが、描きかけのペンを置いてこちらを見る。
さっきまであんなに優しいお姉さんをしていたのに、今は頬が風船でむすっとしているのは気のせいか。
「ごめんごめん」
「……なでれば許してもらえるとか思ってない?」
「あはは、ばれた?」
「碧くんのばか」
さすがに母親の前で罪と罰はできないようだが、ぷるぷる震えてるし拗ねているのは明白だった。苦手なことがあるのがよほど悔しいのだろう。
助手席で、妹と母は目を皿にしている。
「くるみちゃん、もしかして絵しりとり苦手だった?」
「え? あっいえ大丈夫です! そ……その、お気遣いなく」
「お姉ちゃん……いやならいやって、言っていいんだよ?」
「おい千萩」
兄には分かる。妹のその発言が、絵じゃなく兄貴に失礼なほうの意味ということを。
しかしくるみは気づいていない様子で瞳をぐるぐる乱す。
「そ、そんなことないです! 私お絵描き大好きです! ほ……ほら、くまさんだって描けちゃいます!」
負けず嫌いと、途中で物事を投げ出さない完璧主義が、今日ばかりは味方になってはくれないらしい。さっきとほぼ同じな間違い探しイラスト——本人の言うくまさんをせいいっぱい掲げるので、碧はもう何も言うまいと心に決めた。
結局しりとりは続行しつつ、くるみの可愛らしい奮闘をほんわか見守る羽目になり。
さらにその後のトランプでも、碧の見せた華麗なシャッフルに妹と一緒になって喜んでくれたはいいものの、駆け引きに慣れないくるみは考えが表情に出てしまうせいでジョーカーが手札に残り続けては惨敗続きになっていて。それを見た碧がこらえきれず笑えば、一瞬不服そうにしたくるみも、釣られて子供みたいにあどけなく笑った。
——僕らを乗せて、車はゆっくりと目的地に進んでいく。
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