第123話 家族合宿(2)


 高速道路を降りた車に揺られ、買い出しのために行きずりの道の駅に寄り、ついでにこの辺の名物だという信州そばをお食事処で注文して空腹をいなす。


 そこからさらに十五分ほど走って窓を開けてみると、東京のそれとは違う澄んだ涼しい空気が、はたはたと通り抜けていった。


 さすがは高地といったところで、気温は自分たちの街よりも五度も低いらしい。道路の果てにそびえる峰には白い雪がまだほんのり残っているのだから、そりゃ涼しいわけだ。


 見慣れない地名の案内標識を見送り、とおりすぎる建物の数がめっきり少なくなってきた頃、辿り着いたのは、看板の立った森のキャンプ場だった。



「「わあ……!!」」


 プレゼントをもらった子供みたいな声を重ね合わせたのは、都会っ子の少女二人組。


 都内でもベルリンの市街地でも、まず見られない風景だから気持ちも分かる。


 雄大な深い木々に挟まれたそこには、青々としたのどかな芝がどこまでも広がっていて、つい二時間ほど前まで散々見てきた民家も鉄塔も雑踏もどこにもない。


 車を降りれば、あれほど灼熱だった太陽も、今はヴェールに包まれたような穏やかな陽気を注いでいた。その下で思いっきり伸びをする。


「うーん。空気がおいしいってこういうことか」


「おいしいの? 何味?」


「はは、勉強のしがいがありそうだな、千萩は」


 ふわりと夏の匂いがするみずみずしい風が吹き、みんみんと鳴くセミの声を連れてくる。せせらぎも聞こえるあたり、水辺が近いのだろう。


 山の稜線も空も近い。少し手を伸ばしただけで、ブルーハワイに染まるかき氷みたいな入道雲をふわっとすくい取れそうだ。


 そしてぽつりぽつらと設られているのは、広々としたウッドデッキとコテージ、キャンプの本領たる大きなベルテント。


 きゅっと握ったおにぎりみたいなアイボリーの三角形で、カーテンのように大きく解放された入り口からは中の様子がうかがえる。


 これがまた外見よりずっと広い。カラフルな旗でおめかしされているだけじゃなく、北欧風のテーブルや椅子やラグに、果てはふかふかの巨大ベッドまで運び込まれている。


「お兄ちゃん! 千萩たちあれに泊まるの?」


「みたいだな。今時のアウトドアってこんなすごいんだ……」


「あふふ、グランピングっていうのよ。道具揃えなくていいんだからいい時代よね〜」


「私、インスタで検索して予習してたんですけど、写真で見たのよりずっと豪華なんですね。まるでホテルみたい」


 目をきらきら輝かすくるみは、はしゃぎたいのを抑えているように見える。


 五月にお出かけしたときみたく感情を出せばいいのにと思ったが、そうしないのは母たちがいるからだろう。そう思うとちょっぴり、何だか誇らしい。


 とりあえず、降ろした荷物を抱えて小道を進むことに。


「それにしても山なんて何年振りかしら?」


「母さんは家と会社の往復から外れるのも久しぶりなんじゃない」


「いやだ。これでも昔は旅行好きで毎年雪山にスキーに行ってたのよ? 碧も大昔連れて行ったの覚えてない?」


「どちらかというと僕は山より海がいいな。自分で釣った魚が美味い」


「ふーん? それここで言うって、連れてきた私への宣戦布告かしら? そこまで言うなら後で川で晩ごはんのお魚獲ってきてもらおうかなー?」


 会話を聞いてぴんときたのはくるみだ。


「あの、碧くんって案外なんでもできますよね。それってもしかして、お母様にいろんなことさせてもらったからなんでしょうか?」


「案外て」


 まあ、遠からず当たっている。


 将来困らないために、というより貴重な子供時代を楽しませるために、父や母は休みが来る度に出来る限りいろんなところに連れて行ってくれた。


 そんなわけで釣りも何度かした覚えがあり、海外移住する前はよく父親に釣竿片手に海や山に連れて行ってもらっていた。なんとドイツでは釣りをするのに資格がいるのでそれっきりだったけど。


「うーんどうかな? 確かにそれもあるけど、一番はお父さんに似たからじゃないかな? あの人は碧に輪をかけて人並外れてるのよ」


「そうなのですね。碧くんたまに高校生と思えないくらい大人っぽいときあるから、それもご両親譲りなのですか?」


「いやだくるみちゃんたら私のことそんなに誉めなくても。それはまー、この子も昔いろいろ苦労したから。ねー千萩?」


「んむ。お兄ちゃんは旅人だもんね」


 仲睦まじく同意をしあう母と妹。否定と肯定どっちをしてもなんだか負ける気がして、だんまりを決め込んだ。


「くるみちゃんにもいつかお父さんに会わせたいわねぇ」


「はっはい。ぜひ……?」


「会う予定はもう母さんいないとこで立ててるよ。むこうの実家まで連れてくから」


「あ……あらいやだ、もうそこまで話が進んでいたなんて!!」


 訂正も一苦労しそうなので、そのままにしておく碧だった。


                *


 まずはフロントのある山小屋でチェックインを済ませることに。


 千萩と母はふたりでツインルーム、碧とくるみはちょっと贅沢にダブルルームをそれぞれ占有だ。荷物を預け、母が代表で手続きをしているあいだに、くるみと近くを探検をすることになった。


 旅をしていると、遠くに来たなあって身に染みる瞬間というものがある。自分の場合それは、ホテルとか船とか夜行列車をくまなく冒険しているときで、フロントで猫が暮らしていたり、従業員が椅子で寝こけている時なんか、あー日本じゃないなあってなるのだ。


 ゆっくり歩いてアスレチックコースへと続く看板やら、売店やら、川へと降りる階段やらを見つけてテンションが上がっていると、やがて小高い丘の展望台に辿りついた。


 くるみがぱたぱたと走り出して、丸太の柵から下を覗きこむ。


「わぁ……」


 二歩遅れて自分も近寄ると、冗談みたいにきれいな眺めが待っていた。


 上空にはとんびが風に乗って舞い、遥か真下には森と、糸のように細い線を描く渓流。むこうの山脈が消しゴムでこすったみたいに白くぼやけているのは、きっと霧のせいだろう。


「すごいな……もはや絵葉書」


 隣のくるみも似た感慨を抱いたようだ。


 風が吹き、ゴールデンウィークに見立てた彼女のワンピースがささやかに揺れる。


「もし天国があるとしたら、きっとこういうところなのでしょうね」


 宝石みたいな言葉を聞きながら、遠い山裾にロープウェイらしきものがつながっていることに気づく。つまりあっちの名も知らぬ山にも、また人がいるということだ。


 すぅーっと息を吸い込み、


「僕らが地上を見ているとき地上もまた僕らを見ているのだー!」


 大きく叫んでみると、木霊こだましたやまびこが三重になって返ってきた。


「ふふ、なにそれ。やっほーじゃなくて?」


「会話してるっぽいほうが面白いかなって」


 なんて笑い合っている間も、空のてっぺんに昇った太陽はじりじり腕を焼く。都会とは違い、さえぎるものがないのだから当然だ。


 汗がシャツのなかをつつうと伝う。えりを引っぱって額を拭った。


 日本の夏は、いくら高原とはいえ……


「やっぱ暑いな」


 思わずそう呟くと、くるみが笑いの残響で綻びた頬のまま日傘をこちらに傾けた。


 一緒に入る? の合図だ。


「涼しいの、それ」


「碧くんは体温が高いのでしょう? ならあったほうがいいんじゃないかしら」


「ふーん」


 ご親切に甘えて、若干屈みつつ小さな影におじゃまさせてもらう。いきおい余って、こつんと互いのこめかみが当たった。


「あー……ちょっと涼しい、かも? ……ん」


 ふと、ふれあっている彼女の体が震えていることに気づく。


 様子をうかがうと、唇をきゅっと結んでいた。耳もほんのり赤い、気がする。


「熱中症?」


「違う。そ、そんなにくっついたら暑いままでしょう……ばか」


 掌でぐいぐい押してきた。言われて初めて気づいて、自分も体が余計に熱くなる。


「この間は一緒のブランケットかぶったのに?」


「それは私からくっついたからいいのであって今のは駄目なの!」


「お嬢様は気難しいな」


 得られた涼を手放すのは惜しいが、くるみが茹ってしまう前に後ずさろうとすると、シャツの袖を掴まれて引き止められた。


 とりあえずはこのままでいいらしい。まだ若干頬は赤いが——。


「……けどいいね、これ。僕は手ぶらが好きだから多分買っても使わなそうだけど」


「私は日に焼けると赤くなっちゃうから」


「色白だもんな、くるみは」


 そういえば出発前は日焼け止めのクリームをきっちり塗り直してたし、麦わら帽子もあるし、対策はばっちこいといった風情だ。


「遠くまできたし、そろそろ戻る?」


 しばらく散策して尋ねると、くるみは立ち止まってスマホに文字を打っていた。


 誰かに連絡しているみたいだが、どこか愁いのある表情なのは気のせいか。


 くるみさーんとおどけた口調で呼んで手をぐっぱすると、ようやくこちらに気づく。


「あ……ごめんなさい。じゃあ戻りましょうか」


 何かが引っかかったが、すぐに柔和で優しげな笑みに戻ったので、そのことにはふれないまま、テントへと引き返した。

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