第119話 迎えた翌日に(1)

 ——そうして迎えた夏休みの初日は、衝撃の再来から始まった。


 バイトの予定もないし、本当は昼間まで眠りをむさぼろうと思っていたのだ。なぜならお察しのとおり昨日の夜はなかなか寝つけなかったから。


 が、リビングの方からする物音がそれを許さなかったらしい。


「……くるみ?」


 寝ぼけ眼を擦りながら寝室を出ると、やはりというかくるみがいた。


 どうやら合鍵を使って来ていたらしい。


「……えっと、おはよう? どうしたの朝っぱらから」


「あ……お、おはようございます。昨日のこと……きちんと話しておきたくて」


 昨日、というワードに一気に眠気が覚める。


 正直まだ気持ちの整理はついていない。


 ここ数日で本当にいろんなことがあった。


 夏貴に打ち明けられた本音、全校生徒の前での対話——。


「僕も訊きたかったんだ。どうしてあの時だけ、日本語で返事をしたの?」


 ふたりでソファに並んで座る。碧の問いかけにくるみは肩をびくっと震わせると、一瞬だけ迷うそぶりを見せてから話し始めた。


「あのまま日本語で何も言わず去っていたら、学校中から尋問を受けていただろうし、プラスな話をしてるって少しでも予測させた方がいいでしょう?」


「そうだけどさ……」


 くるみに好きな人がいるといううわさがあるなかであんな返事をすれば、碧がくるみの想い人になったと思われてしまうのは聡明なくるみも分かっていたはずだ。


 この現状を君は嫌じゃないのか? ——そう聞きたくも、羞恥とためらいで喉に引っかかって言葉にはならない。


 くるみは困り笑いを浮かべた。


「……碧くん。私はあなたが思ってるよりきっと、ずっとしたたかなの」


 何の話かと不思議に思ったが、とりあえず耳を傾ける。


「自分の学校での立場を、私は事実として理解してる。皆さんに自分がどう思われてるか知って、ひとつひとつの発言が誰かに影響してしまうことを、分かった上で。いつもは誰にでも押し並べて平等になるように、気を払って振る舞ってる」


「うん」


「そんな私だからこそ……烏滸がましい言い方かもしれないけれど、私からも碧くんと進んで関わりを持つこと望んでると皆さんが知れば、かえって誰もあなたに余計なことを言わなくなると思って」


 彼女はまっすぐこちらを見て、自信ありげに二の腕をぽんぽんと叩く。


「だから碧くんは何かあったらすぐに私に言うのよ? 今までは関与できなかったけれど、これで私も当事者になれるし、堂々と意見を言えるから。もう学校でこれ以上、思い違いを見過ごしたくはない。……私にだって碧くんを守れるんだからね?」


 つまり、今までは碧のパーソナリティにのみ注がれていたはずのマイナスの感情を、くるみは碧との関係を公言することで自分事にしようとした、ということだ。


 〈理想の優等生〉として築き上げてきた今までの立場を〈碧を守るための盾〉にした。


 その行動がどれほどの覚悟を伴うかは、想像に余りある。


「……ありがとう」


 こくり。


「くるみは強いな」


「はい。私は強いのです」


 揺るぎない笑みを浮かべて断言してから、


「でも……わ、私の好きな人とか……こっ恋人って思われてることは、その……碧くんにとって不本意だと思うから。そこはその、ごめんなさい」


 僅かに頬を赤らめて、ちょっぴりよそよそしげに視線を泳がせる。


 心底申し訳なさそうに、か細い声で言われれば何か言うことはためらわれるし、何より恋人というワードにこちらも照れるので、彼女の頭を撫でることで返事の代わりとした。


「碧くん……」


 細い髪を絡ませないように慎重に指を動かせば、くるみが伏せた面差しを僅かに持ち上げる。


「誰にどう思われるか想像して動くことは出来ても、誰かにどう思われるのかを決めることは出来はしないよ。……僕は別になんにも気にしてないから。くるみもそんなに気にするな」


 ようやく目を合わせてくれたくるみだが、その瞳はじとっと細まっていて、どことなく不機嫌そうだ。


「気にしてないって……なんか、それはそれで」


「あ、いやっ正直言えばちょっとは驚いたし思うところもあるけど。こういう時にも動じないのが僕って人間じゃん。ほら、長く生きてればこんなこともあるって」


「……少しくらい動じてくれてもいいのに」


 何かを期待するような、拗ねたような呟きにどきっとしつつ、内心の狼狽を悟られないようにもう片方の手でスマホのロックを解除する。


 やはり案の定というか、さすがにくるみもいるクラスのグループLINEでこそ開けっ広げに会話は行き交っていないものの、普段は絡みのない級友から個人宛てにいくつかメッセージが届いていた。


〈突然連絡ごめん。秋矢って楪さんと今どうなってんの? つき合ってるって噂すげえ流れてくるんだけど嘘だよな? いや嘘って言ってくれ頼む〉


〈秋矢くん! 碧の昨日のあれ何? なんて言ってたの? ていうか何語!?〉


 どうやら先日の出来事はみんなにとって、碧の想像より遥かに衝撃が大きかったらしい。


 ちなみに颯太からは『おめでとう』とスタンプが届き、勘の働く湊斗とつばめからは『どっきりじゃないよね?』と訝しがられている。


 ちなみにさりげなく確認したところ、くるみには似たような連絡は一切届いていないようで、いつもどおりの穏やかな休日の始まりだったらしい。その辺は好きな子にみっともないあがきを見せたくない男達のプライドみたいなのがあるのだろう。


「……休み明けになったらきっと、学校中に尋問されるんでしょうね」


「僕一生夏休みがいい」


「また小学生みたいなことを言う」


 それで言うと、スマホという便利で厄介な道具でもう尋問されてるし、なんなら呼び出しもされているのだが、通知の数を見せると心配されそうなので、とりあえず心に秘めておくことにする。


「とりあえず朝だしコーヒーでも淹れるよ。くるみはいる? いらない?」


 そう訊きながらキッチンへ向かうと、後ろからくすりと上品な笑い声が聞こえた。怪訝に思い振り返ると、くるみがちょっぴり可笑しそうに相好を崩している。


「何かあった?」


「後ろ、寝ぐせになってたから。ほら、先にこっちにおいで」


 言われるがまま近寄ればソファをぽんぽんと叩かれたので、素直に座ってみる。


 くるみは早速、私物のヘアミストとブラシで手際よく碧の寝癖を直しにかかっていった。


「うふふ。すごーく倒しがいのある毛むくじゃら」


「人を怪獣みたいに言わないよ」


 ほたるにカットを任せてる時は別になんともないのに、今はおもはゆさが胸に溢れ、僅かなくすぐったさを含んだ甘美な心地に微睡んでしまいそうになる。


 気を抜けば、すぐに二度寝してしまいそうだ。


「碧くんは髪がさらさらで羨ましいな」


「それ君が言うか。僕と比べ物にならないくらい綺麗じゃん」


 亜麻色の絹束を一房、手に取る。指どおりがよくて梳っても引っかからず、いつも光にとろけて天使の輪が浮かぶくるみの柔らかな髪。


「けど碧くんはこれといったケアはしないでこれなんでしょ?」


「何ならたまにドライヤー忘れて寝るし」


「それは風邪ひくから駄目」


 ごもっともで。


「けど、前にシャワーお借りした時はサロン専売品のいいシャンプー使ってたみたいだし、意外とその辺はこだわりあったりするの?」


「ああ、あれはほたるが髪にいいからってくれたやつで——わっ待ってどうしたの」


 ぷくう、と頬に風船を拵えたくるみが、ぽすぽすと八つ当たり気味にクッションで殴ってくるのを慌てて宥める。


「あのさ、ほたるって従姉弟だから。懐かれすぎてて僕もちょっと距離おきたいんだよ」


「なら私もお友達だからおすすめしますもん。このヘアミストはあげるから、碧くんは今日から毎晩しゅっしゅして」


「僕から女の子の匂いしちゃうじゃん」


「なによ、ホワイトティーの香り可愛くていいじゃない」


「いや、匂いまでお揃いなのはその……さすがに恥ずかしいというか」


「……!」


 くるみがぽふんと赤くなり、ぴたりと押し問答が止まったタイミングで丁度、ぴんぽーん、とチャイムが鳴った。


「わ、私が出てくるから碧くんはドライヤーしてること!」


 しょうがない話だが、やっぱ昨日以来、お互い意識してしまっているらしい。


 慌ただしく逃げていったくるみを追いかけていったのだが、


「はい、秋矢です。どちら様で……あ、湊斗さん?」


 くるみが自分の苗字で名乗ったことの照れなんか、訪問者が友人だと知ったことですぐに吹き飛んだ。




 

「どうすんだよ昨日のこと」


「あ、それお土産? ありがと、くるみさん甘いの好きだし助かる」


「おい会話しろよ」


 くるみは涼しいリビングで待ってもらって玄関先に出ると、湊斗はすかさず突っ込みつつも、カフェバーで売ってるバスクチーズケーキの箱を渡してくれた。


「…………。とりあえず上がる?」


「おいなんだ今の間は。あとすげー嫌そうに言うなよな」


「だって僕はいいけど会話に困るだろ、ふたりが」


「あーねあーね。一緒にいる前提で話されてどうも助かりますよ俺は。っぱ愛の巣だもんな。いいよ俺はおじゃま虫になりたくないし」


「理解が早くてこっちも助かるな」


「否定しないようになったあたり成長したよなお前も。……で、どうなの? 学校中大混乱だったけど、あれどうにかするの相当骨折れると思うぞ」


 ケーキの箱は靴箱の上においといて、かるーく答える。


「どうもこうも、堂々と外を一緒に歩けるようになったからいいのかなって」


「なんぼなんでもポジティブすぎないかそれ」


「心配しなくても、そこは僕から何とかするよ」


「……そこまで言い切るなら俺はもう何も言わないけど」


 と、話がついたところで、碧のスマホが通知を奏でだした。


 どうやらメッセージじゃなくて着信らしい。


 画面に表示されているのは——〈夏貴〉。


「もしもし。何?」


『あー……俺だけど。碧? 今電話して大丈夫だったか』


「僕の名前やっと呼んでくれるようになったんだ?」


『うっうるせえニヤニヤすんな! 今それはどうでもいいだろ! そうじゃなくてクラスのやつらがお前のこと呼ぼうとしてるんだが、お前はどうすんの?』


「どうするも何も、夏貴はどこにいるんだ」


『いや今日クラス会だろ。……あ、もしかして呼ばれてなかったのか?』


「……」


 一瞬だけ放心してから、受話器のところを抑えて湊斗に訊く。


「今日クラス会あるってほんと?」


「え。グループで告知されてただろ。俺は欠席にしたけれど」


「……」


 またもや放心してから、スマホを耳に押しつける。


「行く。会場どこ?」


『俺から電話しといてなんだけど、お前まじで来るの? 多分昨日のこと根掘り葉掘りされるだけだと思うしやめといたほうがいいと思うけど』


 ここだけ声が若干遠くなったのは、おそらくクラスの連中に聞こえないように息を潜めたからだろう。というか電話自体きっと、そそのかされてかけさせられたに違いない。


 碧は心配げにする湊斗を見ながら、余裕ぶって宣言した。


「みんなに言っておきたいことがあるから。昨日のこともしっかり釘を刺してくる」

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