第118話 約束(2)
くるみを連れて碧は、生け垣の間を縫ってれんがの小道を辿った先にある、ふたつの校舎に挟まれた広い中庭に出てきていた。
以前つばめや湊斗と一緒にお弁当を持ち寄ったのもここだ。
教室の窓から丸見えとはいえ、穏やかに広がる芝や花々は目を楽しませてくれるので昼休みは早い者勝ちになる人気のスポットなのだが、さすがに放課後となった今はひとっこひとりいない。
庭の真ん中にそびえる杉の木をぐるりと囲むように藤棚が建てられており、その下にはベンチがいくつも並んでいる。春先の可憐な淡い紫ではなく、今は空の隙間に青々と葉をしげらせたパーゴラの前でようやく足を止めた碧は、掴んでいたくるみの手をふっと解き、ひといき吐く。
「くるみさん……じゃなくて、えっと。く、くるみ」
思わずいつもの敬称をつけようとしたところで試験前に交わした約束を思い出し、慣れない呼び名を辿々しく言い直すと、涼やかで清楚な笑いがくすりと風に乗って届く。
「ふふ、はい。くるみです」
「本当にこれでよかったの?」
「じゃなかったら初めから言いません。それとも碧くんは呼びづらい?」
「そうじゃないけど、つくづく物欲がないよなあって」
日頃の労いにスタバチケットとかケーキとかの方がよかったんじゃないかと言うと、くるみは苦笑気味に眉を下げた。
「だって、私が本当の本当に叶えたいことを碧くんに言ったら、きっと困らせちゃうのは分かりきってたから」
「? 別に困らないけど」
「そ、それをノータイムで返されるのも照れるけど。でもやっぱりその様子だと、碧くんはまだ分かってないみたい。だからいいの、このままで……いいの」
碧が何も返せなかったのは、困ったような笑みと共に、これ以上訊くことはためらわれるような物言いで締め括られたからだ。
「いっぱいいっぱい、私のほうがもっと……がんばらなきゃ」
「くるみはもうがんばってるじゃん。勉強も家事もいろいろ」
「ううん。碧くんの分からないところで、もーっとがんばらなきゃいけないの」
安堵なのか、はたまた気持ちがくたびれ果てたのか。心理の捉えきれない嘆息をひとつ残すと、くるみは涼しい木陰を出て、真夏の灼くような真っ白い残光のなかへと優雅に歩んで距離をとった。
眩しくて目を細めていると、ところで、と声が聞こえる。
「大事なお話ってなに?」
「あ、そうだった。ごめん急に。なんか他にやつらに、見せたくないなって……いやそうじゃなくて」
「?」
不思議そうにこてんと小首を傾げるくるみを前に、危うく口を噤む。今は狭量さとかしょうもない嫉妬なんて気持ちを伝えるためにここに来たんじゃない。
くるみをまっすぐ見据えながら、切り出す。
「……生い立ちまわりに隠すの、もうやめようかなって」
くるみは少しばかり驚いたようにぱちりと目を瞬かせる。
「別に話したから何だって話だし、人にどう思われるかをどうこう出来る訳じゃない。ただ、自分がそうしたいと思ったから、そうしようかなって……思ったんだ」
「うん」
「だから————」
取り出しかけた言葉が、途切れた。
学校中が妙にざわついている——それが夏休み目前の高揚だけじゃないと気づいたのは、開け放たれた廊下の窓からこんな会話がたった今、ばたばたと耳に入ってきたからだった。
「ねえ聞いた?」
「何なに? 何の話?」
「なんか学校の中庭に
「告白? けどそれならよくあることじゃ……」
「それがその辺の奴じゃないんだって。なんとお相手は時の人の——」
思いもよらない捉えられ方に、碧は絶句した。
それから、今の掛け合いをきっかけにようやく気づく。
幾千と突き刺さる、熱を孕んだ、視線に。
気づけば一階から最上階までのあらゆる校舎の窓から、学年問わず数多の生徒がこちらを覗いていたのだ。
さーっと血が降りていく感覚がする。どうやら、近頃いろいろ調子いい碧が、
ちょっとこれは、試験でいい成績を修めたからって、気を抜いていた自分の完敗だ。
少し離れたところにいるくるみには、生徒たちの会話までは幸いにも届かなかったらしいが、彼女もまた碧の様子から多数に見守られていること自体は気づいたらしく、急に注目の渦へと放り込まれたことに、呆気にとられたように瞳を瞬かせていた。
「く——」
名前を呼ぼうとして、さすがに今はだめか、と止める。
もちろん、スマホで示し合わせて連絡するのも目立つから駄目。かといって、ここでくるみを連れて逃げるのは一番の悪手だ。
どうすべきか、じりじり決断を迫られていたところで——
「
はっとする。
見れば、対峙した彼女はその柔らかな瞳に、こちらの姿を水鏡みたいに映していた。
そのひと影がゆっくりとした瞬きにさえぎられたかと思うと、再びドイツ語。
「Du können sagen.(言っても、大丈夫)」
ヘーゼルに宿った暖かな希望の光が、勇気を乗せてまっすぐこちらに届く。
今ので、さすがに分かった。
日本より長く過ごした向こうの国の言葉。それで会話しようとしている、意思表示だと。
誰がいても関係ない、ふたりにしか分からない言語で話をしよう——そう、言ってくれているのだと。
一つは、くるみに渡したかった言葉を、伝えるため。
二つは、この場で碧の生い立ちを皆に周知するために。
いつだって碧を自分以上に理解してくれるくるみに、想いの熱量が数段飛ばしで駆け上がっていくことを自覚しつつ、すーっと大きく息を吸う。
彼女の覚悟を受け取って。
だから碧は、穏やかに笑いながらこう答える。
「Lass uns aufhören, Geheimnisse.(秘密、もうやめようか)」
校舎の物陰が、ざわつき始めた。
「今なんて言った?」「日本語じゃなかったよね?」「じゃあ何語?」——そんなささやきが、まるで湖に投げた石が呼び起こす波紋のように、小さなさざなみからやがて大荒れの嵐となるように、窓から校舎内に向かって次々と伝播していく。
君たちは知らないかもしれないが、追い詰められたねずみはライオンにだってかみつくのだ。
「Ich habe nachgedacht. Wie ich dir das Versprechen, mit dir zusammen zu sein, erfüllen könnte.(ずっと考えてたんだ。一緒にいるって約束のために、どうすれば君と釣り合えるのかを。)」
今度は「ドイツ語だよあれ!」「私映画で聞いたことあるもん」「秋矢くんって何者なの?」——そんなどよめきが耳に届く。
彼女が与えてくれたチャンス。ぜったいに棒に振るわけにはいかない。
「Ich weiß, dass ich dich lange habe warten lassen, aber ich habe eines meiner Ziele erreicht.(ずっと待たせちゃったけどさ、僕も目標はひとつクリアした訳だし)」
正しく伝わっているかなんて、分からない。
今まで文法や単語は教えてきたけれど、こうして日本語のフォローなしで日常会話するなんてことは一度もなかった。
けれどさっきだってこれまでだって、碧というひとりの人間を誰よりも理解してくれているのは彼女だから、伝わっていることを信じて話し続ける。
きっと大丈夫だろう。その証拠にくるみは、今もこうして真剣ながらも春の日差しみたいな表情で、喜びの感情を静かにこちらに送ってくれている。
——それだけで、僕は安堵できる。
「Wir unterhalten uns gerne in der Schule. Wir wollen uns gegenseitig mit Namen ansprechen. ...... So ist es mir lieber. Es ist mir egal, was andere Leute denken.(学校でもおしゃべりすればいい。名前で呼び合えばいい。……そっちの方が、いい。邪推なんか、僕はどうでもいい)」
肝心の会話が分からないからか、群衆は碧の告白失敗を見届ける予定から、まったく予想だにしなかった事件の成り行きを見守る方向にシフトしたらしい。
ざわめきは徐々に小さくなり、代わりに皆が固唾を呑むような気配がする。
そんななか、碧は最後の確認を投げかけた。
「Du hast gesagt, dass du damit einverstanden bist, aber ich frage dich noch einmal. Bist du damit einverstanden?(いいって言ってくれてはいたけど、もう一度訊く。くるみは、それでも平気?)」
言い終えるとまず、ずっと真剣に耳をそばだてていたくるみの結ばれていた口許が、糸をたゆませたみたいにふっと
——あ、伝わったんだ。
もちろん難しい表現やワードはなるべく使わないようにした。考えて考えて、言葉を吟味して、それをゆっくり発音して。
そうしてまで伝えたかった意志を受け取ってもらえた。
碧は静かに返事を待つ。本来なら休み時間の終わりを告げるはずの鐘がりんごんと鳴り、それが高い空へとけゆく残響となった頃。
彼女は受け取った言葉をぎゅっと抱きすくめるかのように一瞬だけ瞑目してから、大粒の宝石みたいなヘーゼルをふたたび夏の大気に解き放ち——
「——はい。喜んで」
ふあり、と。
甘く優しく瑞々しく、あれほど騒がしかった全校生徒を静まり返らせるほどに可憐で美しくて——まるで光に満ちた概念のように尊い笑みを見せた。
時が奪われ、呼吸さえ忘れてしまう。
それは、学校では繊細で儚げで完璧なお手本のような笑みしか見せなかったくるみの、史上最大に喜びの感情のこもった表情。
毎日のように一緒にいる碧ですら、見たことがないほどの。
というか……待て。
——どうしてここだけ、日本語で返事をした?
しん、と。
まるで真冬の大地にあらゆる生き物が冬眠してしまったのではないかと思えるくらいに、世界から音がなくなった。数十人あるいは数百人が息を潜めているとは考えられないほどの静寂が、この瞬間キャンパスを支配する。
だが終わりは、すぐに訪れる。
「……今のって」
見守っていた誰かがぽつりと呟いたのを、最後に。
堰き止めた水が怒涛の勢いで溢れるように——次の瞬間、爆発した。
「——————」
「——」
「————!」
学校中に溢れた音の洪水。
驚いた鳥が木々から空へ飛び立ち、支配するどよめきが街すら揺らしていく。
そんななか、くるみだけは。
ひとりだけ声の届かない透明な水底の世界にいるように、ただ静かに柔和な笑みだけを湛えて、希望を孕んだ温かな瞳でこちらを見ていた。
「……どうして」
くるみは聡明だ。この場でああして答えることで、その言葉がどう解釈されるかくらい、分かっているはずなのに。
大合唱が目眩のように、ぐわんぐわんと意識を揺さぶる。
多分、みんな騒いでるのだろう。
あるいは祝福、あるいは嫉妬、はたまたただの驚き。他にもさんざめく呪詛だとか、嬌声だとか、あまりに的外れな騒ぎがあちこち行き交う。
けれど何一つとして、碧の耳には届かなかった。
*
——そんなうわさが、学校中を駆け巡るのに、多くの時間は要さなかった。
戻ろうとした教室はすでに、爆弾みたいな衝撃を伴ったニュースで持ちきりで。
碧は彼らに見つかる前に静かに学校を出て、それから全速力で帰路を駆け抜けた。
靴紐を結びなおす余裕なんてない。じりじりと空気を焦がすような蝉の鳴き声も、民家の庭で小さな太陽みたいに咲く
突き抜けるように碧いはずの空が、揺らめく陽炎みたいに滲んでいた。
そうして、いまから。
長い長い休みが、始まる。
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