第117話 約束(1)
柏ヶ丘高校の夏休みは、長くて有名だ。
七月半ばから九月の上旬にかけてのおよそ一ヶ月半という巨大な自由を、与えられた生徒たちは謳歌することになる。高校によっては講習や勉強合宿を催すところもあると前に聞いたが、ここはそういう行事はない。
つまり何が言いたいかというと、部活やクラブに入っていない碧が今日をもって次にクラスメイトと会えるのは、始まったばかりの夏を飛ばして次の季節が訪れる頃ということで。
「秋矢くんって夏休みはなにするのー?」
それは週明け、夏休み前の最後の登校日。
解散のホームルームが終わってからも、このまま帰るのが物足りないクラスのみんなが残って夏の予定を話し合う教室で、碧は今まで会話したことのないクラスメイトの女子生徒に話しかけられていた。
学年五位の称号はどうやら〈何考えてるか分からない不真面目な男〉という不名誉な思い込みのラベルを、少しばかり引っぺがしてくれたらしい。が、かと言ってわざわざ声をかける意図がよく分からず、困惑を隠しながらさらりと返事をしてみる。
「バイトと勉強とオープンキャンパスかな」
「ふーん? 絵に描いたような高校二年の夏だね」
オーストラリアまで一人で航行することは言うまい。
「ところで何で僕に?」
「いやー秋矢くんさ。前より話しかけやすくなったなーって思って」
「……そう?」
「うんうん。ぱっと見は近寄りがたいかんじっていうか、ぶっちゃけると高校デビュー失敗したからって開き直って斜に構えてるのかなってかんじだった」
「だいぶぶっちゃけましたね」
「バーで夜な夜な酒を呑み散らかしてるってうわさ聞いたことあるくらいだし」
「それが本当なら僕は今ここにいないと思う」
「あはは! それもそうだね」
どうやら半分はからかい、残りはただの気まぐれらしい。
ずばっとかざらない物言いで女子の人気を博しているその少女——
「ま、かわったって言えばスノーホワイト様が一番だけど」
その先には、クラスメイト——颯太となにやら談笑しているくるみがいる。
「秋矢くんはさ」
「うん?」
「楪さんの好きな人って誰だと思う……ってあれ、大丈夫!?」
「げほっごほ……いや大丈夫だけど。やぶから棒に何の話?」
突然切り出された禁句に缶のミルクティーを咽せつつ涙目で返すと、凪咲は胡乱な瞳を僅かに見せた。
「だってクラス替え初日に言ってたじゃない。彼は私のお慕いしている人ですって」
「それがなんでそういう話になるの」
「? なんでって」
春休み明けの始業式のことだ。
確かその後から、クラスの皆がこぞって〈
けれどその発言と何の関係があるのか分からない。静かに説明を求めていると、凪咲はよく解けた宿題を提出する小学生みたいに、さらりと答えた。
「だから『お慕いする』って、その人が好きってことじゃん。違う?」
「え」
——そうなの!?
「お嬢様らしい古風でおくゆかしい表現だよねー。だからずっとスノーホワイト様の好きな人についてみんな探ってたんだよ。……本人は頑なに教えてくれなかったけど! 秋矢くん近頃ときどき楪さんと話してるけど、何も聞いてない?」
それどころじゃない。
ポーカーフェイスを努めながら「僕も聞いたことないけど」と、碧もまた知らぬ存ぜぬをとおした碧は、その片手間、すぐさまスマホで言葉の意味を調べる。
やがて、Google大先生はこう仰った。
〈尊敬の念、あるいは——恋心〉
雷が落ちたような衝撃が走った。
目を見開き、スマホを取り落としそうなのを慌てて取り繕う。
だって碧が想像していたのは前者であり、後者の意味があるなんてことは知らなかった。今ほど自分の国語力が乏しいことを恨んだことは、どんなに昔を振り返ってもない。
だけど碧は喜ぶわけでもなく、都合のいい妄想としてそれを切り捨てる。
「……いやないでしょ」
「だよねえ。まあ私はクラスのなかなら
それは碧のよく知る友人の苗字、かつ今現在くるみと共に視界に収まっている人物だ。
「颯太? なんで?」
「だってかっこいいじゃん! テニスの王子様だし、うちのクラスで一番楪さんに近づけそう……っていうか可能性ありそうなのは木次くんしかいないでしょ」
「へー」
自分から出た相槌が見事に棒読みなことに苦笑しそうになる。
くるみと並んでも貶されない立場、ということに羨ましい以上の情を抱いたが、そうだ自分は今その〈立場〉をかえようとしているんだということを思い出した。
ひいては、彼女には事前に話しておくべきだろう。
もちろん好きな人の話……ではなく。夏貴と交わした約束、今後の学校での振る舞い、そしてクラスでの自分の秘密を終わらせることを——。
くるみもまた自分たちに交友があることを公にしたがっていたから、そうするならまずは本人に許可を取らねばならない。
いつ伝えるべきか、と頬杖をついてぼーっと眺めていると、くるみがこちらに気づいたらしくぱっと振り返った。
そして次の瞬間、雪が解けるみたいにふわあっと甘い笑みを浮かべると、級友との会話をさらりと終わらせて、こちらにぱたぱたと歩み寄ってきた。
そんな甘く幸せの滲んだ表情を学校で見せるのは、やめてほしい。
——ほら、教室のみんながこっち見てる。
「秋矢くん」
案の定、あの
「……くるみ、さん」
「はい」
聞かれたくない話はいつもどおりメッセージで交わせばいいのだろうが、何より親密さの乗ったゆるい表情をほかの人に見せたくなくて、碧はドアの方を指差した。
「ちょっと大事な話があるから外で話さない?」
「え……話?」
「こっち来て」
「きゃっ……あの、碧くん?」
夏休み前にしても妙に好奇の滲んだ、心を揺さぶるようなざわつきが残る教室から、碧はくるみの手を掴んで出て行った。
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