第116話 そして夏が来る(3)
てなわけで、気が動転した夏貴からなぜかゲームセンターでの勝負を仕掛けられ、碧はそれに応じていたのだった。
ちなみにお約束の賭け事ありで、今のところ碧の全勝である。
多分、彼はこれまでの拗れみたいなのを清算したかったんだろう。だがそうするには互いにひとつずつ大事な言葉のピースが欠けている気がする。
深い溝を埋める、何かが。
「…………」
「おい聞いてんのか自由人。そろそろ練習終わりにして次の勝負行くぞって言ってんだよ」
「いや諦め悪。まだやんの?」
「勝ったら相手の命令なんでもひとつ聞くんだろ。勝ちを譲るわけにいくかよ」
「僕わりとこういうの得意だから、多分負けないと思うけど。それに勝っても夏貴に命令したいことなんか何もないし。てかもう勝ってるし」
「いちいち鼻につくなお前——っておいなにすんだよ! うわっ放せ!!」
これまでのは練習扱いでちゃっかりなかったことにしてのけた夏貴がさっさと次のゲームへ行こうとするので、パーカーのフードをがしっと掴んだ。
そのままずるずると引きずり、退店。さっきの裏路地へ戻ったところでぽいっと放す。
「てってめえ何す——」
「夏貴さあ」
一拍おいてから訊ねる。
「もしかして、ずっと責任をかんじてたのか?」
狐目の、瞳孔がかっと開いた気がした。
こういうのはやはり相互理解が必要で、それには相手の心に踏み込む対話が大前提だ。
黒雲の立ちこめた北の空が、ごろごろと
あの日のように、次の季節を連れてくる、雨だ。
彼は答えず、鋭くうつむいたままこちらに寄り、碧のシャツの襟をぐっと掴んだ。
表情は見えない。碧は抵抗せずに、されるがままの格好で告げる。
「もしそうなら、夏貴が気にすることじゃない。あんたに声を掛けてようが掛けてなかろうが、どのみち僕は学校で浮いてた」
「……そういうんじゃねえよ。俺はお前に、そういう
「うん、知ってる」
あっけらかんと言う。
「さっきの勝負、多分あれで勝って言うつもりだったんだろ。『学校でちゃんとお前はお前らしくいろ』って」
命令されて仕方なく、という
目の前にある堅い拳を見て、少し考えてから碧は言う。
「……僕は十一月七日生まれの蠍座。東京生まれドイツ育ち、占いは見ないけど朝のニュースのはいい結果だけ信じる。来世はくじらになりたいと思ってる。おにぎりの具は鮭がいい。他にも聞けばなんだって答える。だからさ、そっちも自分のこと、話してみなよ」
「命令したいこと、何もないんじゃなかったのかよ」
「そういうんじゃないだろこれは。ただの歩み寄りの自己紹介だ」
ぽつりぽつりと雨が降り出す。
やがて空から落ちた雫はざあざあ降りになり、二人を世界から切り離す。
雨音を縫うように、ぽつりと彼が言葉を落とした。
「……人間って、誰しも自分を好きになりたいもんだろ。俺もそうだった。俺は……根拠もなく、大人になれば何者かになれると信じていた」
脈絡のない切り出し方に一瞬訝しく思ったが、とりあえず話の続きに耳を傾ける。
「それが間違いだということに気づいたのは中学生の時だった。受験だの部活だの……日々の競争のなかで自分の平凡さを嫌になるほど突きつけられて、何者にもなれないつまらない大人になるんだと悟った。……そんな時にお前みたいな奴が出てきてみろよ。そんなの……どうしたって自分と、比べちまうだろ」
シャツを掴む力がぐっと強くなる。
碧は彼の、囚われた魂の叫びのような独白を、ただ黙って聞いていた。
「なのに現実は違くて。クラスの輪から外れたお前を見て、思った。ずっと嫌だったんだ。自分の恩人が、不名誉な思い込みをされているのに、絡まった糸を解こうとせず、自分が悪く言われることを何のためらいもなく受け入れていることに」
「……悪かった」
「でもどうするのか決めるのはお前であって俺じゃない。俺が何か横槍いれる筋合いなんて、本当はどこを探したって転がってはいないのに。むしろ身勝手な幻想を押しつけたのは俺の方だ。こいつに、そういう一匹狼を気取った立ち振る舞いは似合わないはずだなんて、決めつけて勝手に失望したのは俺なんだ」
節が白くなるまで握っていた拳が、ぱっと離される。
空を仰いだ夏貴は、後悔しているようにも、自責しているようにも見えた。
「あの時に遅刻するのが俺だったら立場は逆だったかもしれない。そうならずに済んだのはお前が助けたからで、なのに俺はその恩人相手にずっと頑なで……何もかもがやるせなくて口惜しくて仕方なくて……傷のついた名誉を放っておくお前にも、子供みてえに意地を通そうとする自分にも、腹が立って仕方なかった」
本音をぶちまけたような大雨に乗じたように、夏貴の言葉はぽつりぽつりと洩れていく。
なぜだか、苦しくなった。
自分は確かに彼のことを突っかかってきて面倒だなと思っていたし、くるみに好意を持っているのであれば、差し詰めライバルのようなものだと勝手に思っていた。
けど、こんな表情を見たかったわけじゃない。
決して傷つけたかったわけじゃない。
「言いたかったことはそれで全て?」
「ああそうだ。……雨が降ってくれて助かった」
その言葉はいつになく弱々しかった。
「そっか」
「助けられた立場にありながら勝手に憧れて期待して失望して。憂いて怒って右往左往して……馬鹿みてえだろ。最低な野郎だなって笑えよ」
「それってさ」
碧は静かに問いかける。
「つまり僕が
「……けどそれは俺の身勝手の押しつけだ」
「そうとも限らない。それが格好いいかはともかく、学校で身の上を明かさずにいるのも、もう終わりにしようとは思ってたんだ。……つまり僕は僕の意志で、自分らしく在るようにするだけだから。そこから先、勝手に憧れるのも勝手に失望するのも、好きにすればいい」
——お前のせいじゃない。自分がしたいだけ。
そう答えるのが今自分にできる最大の挽回であり、償いであり清算であり、拗れた関係を正す唯一の方法だろう。
他にもやり方はあるのかもしれないが、不器用な自分にはそれくらいしか思いつかない。
「……何で」
「ここで感情任せに怒って嫌な別れ方するよりは、僕は親睦を深めたい派だ」
「そこでその台詞出てくるって、お前本当に高校生なのか? 人生二周目かよ」
「オトナですねってもっと素直に誉められないもんかな。まあ僕は自分の主義に従ってるだけで、立派なことしてるつもりはないんだけどさ」
「難儀で厄介な生き方してんな」
「よく言われる」
しかし、まさか本当に愛情の裏返しだとは思わなかった。
夏貴はどこか鋭さの抜けた眼差しを、ゆっくりこちらに向ける。
「さっきの『終わりにしようと思った』って……本当はそれ、あの人の為だよな」
沈黙を肯定と捉えたのか、夏貴は言葉を重ねてきた。
「……お前、あの人とつき合うのやめておけよ」
「僕たち別にそういう関係じゃないんだけど」
「つもりがなくても見えんだよそういう関係に。むしろあの距離でつき合ってないっておかしいだろ」
一瞬考えて、ああそういえば……と生温い視線を向けると、反抗するように睨み返された。
「勘違いすんな。俺はあいつが好きで言ってるんじゃない」
「あれ、そうなの?」
「俺じゃなくて……」
ぼそっとそう言いかけ、はっとしてから悔いるように首を振り、言い直す。
「誰も彼もが高嶺の花を好きになると思ったら大間違いだろ。これはただのお節介な忠告だ。あの人は住む世界が違いすぎる。あの人が一緒にいることで嫉妬の集中砲火くらって、お前の評判をさらに下げることになるんじゃないかって気が気じゃねえの」
「好きなの、くるみさんじゃなくて僕の方かよ……」
「誰もお前のこと好きなんて言ってねえよ!! 都合のいい解釈すんな!」
必死な叫びはスルーして、想念に耽る。
では湊斗のカフェバーで喧嘩売ってきたのも、嫉妬の矢印は
——……ちょっとこれは笑えないぞ。
「お前、学校で余計なこと言ったらはっ倒すからな」
「そうだね。折角の儚い友情を壊したくないから黙ってるよ」
「友達じゃねぇよ!」
「……でもさ、夏貴が何言っても多分僕は聞く耳持たないよ。くるみさんと話すのも関わるのも、くるみさんが嫌って言わない限り止めるつもりはない」
「はっ。今まだ後ろ指差されてないのは、一応学校じゃ上手く立ち回ってるからだろ。お前の言う
「ならそれでいいよ。僕はくるみさんがいない天国なんか要らない」
あくまで平坦な口調で即答する碧に、夏貴は何かを言いかけて、言葉を呑み込む。
「確かに僕らは住む世界が違うだろうし、釣り合いとれるようにも見えないかもしれない。けど僕は、たとえ今だけでも、くるみさんの隣にいることを選んだんだ」
「……お前、俺のまえでよくそんな小っ恥ずかしいことを……」
「僕は別に恥ずかしくないけど」
俺が恥ずいんだよ、と突っ込み、夏貴は疲れたように項垂れた。
「やっぱ湊斗に同情するわ、お前もっとあいつのこと労わってやれよ」
「いやあいつは邪険にされると喜ぶから」
「言ってろ」
きっと本人も、気づいていないのだろう。
夢以外に盲目だとか、抱えた荷物の重量制限だとか。そういうのに足を取られる碧に、とびきり上等なドロップキックをかましてくれたということを。
——ようやく分かったよ。
彼が帰った後、しばらく軒でぼーっとしていると、夕立はしんと止む。
あちこり空を映す水溜まりが夕雲を吸い取り、焼けた茜に染まっている。
都会のビルや電柱が真っ黒なシルエットになって、あでやかな空を切り取っていた。
ようやく夏が来た——そう、思った。
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