第92話 真心とシュークリーム(1)
——よーし。碧くんのために、美味しいシュークリームを焼いてみせる!
日曜日の昼下がり。くるみは自宅のキッチンでお気に入りのエプロンを身にまとい、髪をシュシュで結えて腕まくりをした格好で、意気込みつつ調理台に向かい合っていた。
ことの発端は、先日の会話。
ドイツに旅行する時の妹さんのためにとはまた別で、くるみの焼くスイーツを楽しみにしてくれている碧のために、というよりは喜ぶ姿を見たいからだけど、差し入れのシュークリームを焼くことにしたのだ。幸いにも両親は不在で今日はくるみしかいないから、思う存分に調理に集中できる。
思えば、初めて彼に貰ったのもカスタードの鯛焼きだったっけ。
喜んでくれるかな——そんなことを考えるにつき、ふふっと笑みが零れてしまう。
「〜♫」
家に誰もいないのをいいことにメロディを口遊みながら、いつもよりいいものをと思って紀ノ国屋で買い求めた選りすぐりの材料を、慎重な手つきで計量するくるみ。貯金のために節約をすると決めたが、今日だけは別だ。
曲が終わる頃には小麦粉もふるい終え、鍋のミルクも温まり、すっかり準備ができていた。ここから先が腕の見せ所。
その辺の高校生より美味しいものを用意できる自信はあるが、ことお菓子に関しては、実はくるみはそこまで試行回数を重ねているわけではない。
だからいつにもましてYouTubeに上がっている工程動画をじっくり視聴したり、事前にレシピの内容をあたまに叩き込んだりと、慎重にことに挑んでいた。
せっかく彼が「くるみさんのが好き」と言ってくれたのだ。世界一美味しいものをプレゼントしたいというのが乙女心というもの。
「あら、お嬢様? お料理されていたのですか」
小鍋でことことカスタードクリームを練っていると、午後の契約時間になったらしく、現れた上枝から声がかかった。一度火を止めてから、ぺこりと会釈する。
「お疲れ様です上枝さん。ごめんなさい、勝手にキッチンを占領してしまって。夕方には空けますから」
「いえいえ、私がお食事の準備をするのはまだ先ですので大丈夫ですよ。それにしても、バニラのいい香り……お嬢様はどなたかにお手製のお菓子を贈るのですか?」
「は、はい。お友達に……」
嘘を吐いているようで疾しさから言い淀んでしまうが、かといって「好きな人にです」なんて言えるはずない。とたんに様子がおかしくなったくるみに、しかし上枝は何か追及するわけでもなく、鍋を覗き込んで手際を誉めてくれた。
「まあ、美味しそう。以前もキルシュトルテを焼いてらしたけど、やはり見事なものでしたよ。今回のカスタードもつやがあってなめらかで、よく仕上がってますね」
「そう……でしょうか? ふふ、ありがとうございます」
あの料理自慢の上枝が誉めてくれたのだからきっと仕上がりも間違いないはずだ。そう思い嬉しくなったくるみは、つい淡く笑みを零す。
それを見た上枝も、負けじと上品に相好を崩した。
「大切な方に喜んでいただけるのなら、お料理を覚えてよかったでございますね、お嬢様」
「はい。上枝さんのおかげです」
「とんでもないです。お嬢様の努力の成果ですよ」
そんな優しい言葉を聞きながら思い浮かぶのは、四月の空みたいに笑う〈大切な人〉の嬉しそうな姿。もう上枝を前にしても隠すことなく、くるみはカスタードから立ち上がる熱く甘やかな湯気のように頬をほわほわと
——碧くん、喜んでくれるといいな……
*
「おかえりなさい、碧くん」
湊斗の店に寄ってから帰宅すると、先に来ていたらしいくるみがぽすぽすとスリッパを鳴らし、砂糖菓子のような甘い笑みと共にエプロン姿で出迎えてくれた。
「うん……ただいま?」
——え、僕いつのまに結婚してたの?
思わずそんなことを考えてしまったものだから、返事が若干上擦ってしまった。
「?」
「ああいや何でも……ない」
自分のそれよりずっと純真かつ曇りなき瞳で見上げてくる彼女を直視できず、ごまかすように早足で廊下を抜けて寝室に向かう。
始業式以降、くるみに好きな人がいるといううわさが学校で持ちきりになっている。特に男子は、好きな芸能人の結婚報道並みに嘆いている人が多くいた。だから、自分も身の振り方には注意しないとな……と思っていた矢先にこれだ。
恋慕う相手にあれこれ思うところがあるのは仕方がないのかもしれないが、新婚みたいと思うのはくるみにも失礼だろう。
——けど鍵を渡すって、世間からしたらそういう関係なんだよな……。
あの時は彼女に出来ることを全力で考えた結果だったから深いところに考えが至っていなかったが、鍵を預けるという行為が秘める重大な意味を、碧はいまさらになって理解し始めていた。
やはり一番は罪悪感だ。想い人だからといって自分ばかり勝手にそういう風に捉えて妄想するのは、くるみにすごく申し訳ない。
決して難聴系でも鈍い系でもない碧は、くるみからの確かな好意を少なからず自覚はしているが、それが恋愛としての好きなのかどうかまでは判別がつかない。
もちろんそうならいいなと、希望は持ってはいるけれど。
頬にじんわりと熱が忍び寄るのを知覚しながら、シャツに着替えてリビングに行くと、くるみがちょっぴりそわそわした様子でポニーテールを揺らしながら、せっせと料理を再開している。
どうやら今夜はキャセロールの煮込みハンバーグらしい。オーブンを開ける音と共に、ふくよかな湯気が立ち、デミグラスの芳醇な香りがここまで流れてくる。
「いい匂い」
「もうすぐ出来るから、碧くんは手を洗っていらっしゃい」
「はーい。あ、その前に卵と牛乳買ってきたから、これだけしまわせて」
マイバッグを提げて冷蔵庫の方に歩み寄ると、なぜか渋い表情で通せんぼされた。
「……何?」
「あっえーと。それは私がしまうから大丈夫! ほら、碧くんはあっち」
荷物を奪われた挙句、びしっと明後日の方を指差された。
何か隠してるな、ということはさすがに察するが、それを今指摘するほど野暮ではない。
「うん。じゃあ何か手伝えることある?」
「ありがとう、けれど座ってて大丈夫。慣れない新学期で疲れてるでしょ?」
「それくるみさんもじゃん」
「私はどこでも卒なく上手くやっていけるからいいの」
「まるで僕が駄目みたいな言い方をする」
「碧くんは駄目じゃない! みんなが貴方のいいところを知らないだけ」
思ったよりはっきりとした語気で断言され、ぱちりと瞬きした。
「何なら私が
「照れるからやめてください……」
そんな誉め言葉どっから出てきたんだと思いつつ、赤くなりながら何とかそれだけを返すと、くるみがまた
「碧くんは、ハンバーグに乗せる目玉焼きはいつもどおり半熟、よね?」
「……うん」
馴染んだ後ろ姿は、週に何日かお世話になっている身としては見慣れたものであるが、好みを知り尽くした発言を聞くと余計若妻っぽく思え、いますぐ耳の赤さをなんとかする方法を調べたくなった。
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