第91話 恋へ(3)
一秒でも早く彼の家に行きたくて。
急ぎ足を通り越して、走り足で道をぱたぱた駆けていく。
——いつもより三分くらい早くつけそうかな?
息を切らして、そんな稚拙な計算を片づけながら。
戸惑いつつも受け入れたこの感情のことも、ましてや恋のがんばり方なんてなおさら分からない。でも向き合うって決意したから、前に進むしかない。
あの日夢見た大きな空に向かって走る権利がこの感情に名前をつけることだとしたら、スタートラインはもうとっくに通り過ぎているのだから。
水彩画のように柔らかな、グラデーションの空。
そこに浮かんだ少し気の早いお月様が、西東京の街を見守る。寝ぐらに帰る鳥たちが、夕空を黒い点となって羽ばたいていく。
一陣の柔らかな春風が吹き
「……碧くんの、家の鍵」
まだ少し調子外れの息を整えて、くるみは碧の玄関の前で伏目がちになりながら掌の中身を見つめていた。
壁の灯りと反対から差し込むオレンジの夕陽を受けて、手の中で鈍く光を跳ね返すのは、目の前にある扉を開ける権利たる合鍵だった。
碧がくるみに全てを委ねてくれた信頼の証。
ここにいてもいいという居場所の証。
それがやっと役目を果たすべく、大切に仕舞っていた鞄から日の目を見た。
けれどいざ扉を前にすると——まるで違うものの象徴にも見えて。
「いまさらだけど合鍵を預けるなんて……これってなんだか……」
言いかけたところで、はっと我に返って思考を追い払うようにぶんぶんと
たとえ独り言でもこの先は口に出せるはずがない。言ったらきっと戻れないところまで行ってしまいそうな気がしたから。羞恥で瞳を潤わせて、己のあまりに気が早すぎる発想を責めるように口許を手できゅうっと抑える。どきどきと心拍が煩かった。
「……はしたない」
本人の言うとおり他意なんか一切ないのだろう。
優しい碧のことだから、くるみの境遇や決意や生き方を引っ
大きく深呼吸をしてから、高鳴る心拍を抑えて口許をきゅっと引き結び——意を決したように、えいっと鍵を差し込む。
早鐘のように打ち鳴る鼓動でめくるめくなかそっと玄関に上がり、上擦った声で「おじゃまします」とつい、いつもの挨拶をしてしまう。
先日自分から〈わがまま〉を言ったはずなのに、なんてちぐはぐな。
すると施錠を解く音で気づいたのか、廊下の向こうからひょこっと碧が現れた。
「おかえり、くるみさん」
挨拶と共に彼がこちらに歩み寄ると、くるみの肩から荷物ひとつぶんの重さがなくなる。
当たり前みたいにくるみの鞄を受け取った碧は、それから何かの訪れを待つように、急かさないように、じっとこちらの様子を優しい眼差しで見守った。
黒曜石のような静かな瞳が待つ言葉は、ただひとつしかない。
帰ってきた人が、待っていた人に渡す言葉。
「……ただい、ま?」
拙いもののもう一度ちゃんと言い直したとたん、すとんと何かが鳩尾に落ちた。
「うん。おかえり」
「……ただいま。碧くん、ただいま」
なんだか嬉しさで泣きそうになりながら、けれど涙は零すことなく笑ってみせる。碧もまたどこまでも屈託なく笑ってくれたから、それでいいと思えた。
二人でひとしきり笑った後は一緒にリビングに行って、彼の淹れてくれたコーヒーのカップを傾けながら互いの近況を話し合った。
「くるみさんさ、海外行ってみたくない?」
そんな突飛な提案をされたのは、ひと通り報告が済んで、なんとなくの時間が辺りの空白を埋めた頃。
ぱち、と目を瞬かせていると碧は「ちょっと説明不足だったか」と言ってから、ソファの隣で改めて話してくれた。
「一度どうしても連れて行きたいと思ってたんだ。僕もくるみさんには教えるだけじゃなくて、いろんなもの見せたいし。一番手っ取り早いのは海外だろうなって」
思いもよらない提案に、再びぱちりと瞬きをする。
「ほら、今まで出来なかったぶん。今からさ、くるみさんのまだ知らないことを、一緒に埋めていけばいいと思ったから。というか僕がそうしたい」
海外に行くなんて、実のところ考えたことはなかった。
中学の頃は名門の女子学院なだけあって、海外留学したことのある生徒はちらほらいた。けれど両親はことのほか
でも、今まで写真でしか見れなかった未知の世界——そこに彼が連れてってくれると言っているのだ。話が呑み込むにつれて、今まで覚えたことのないふわふわとした高揚が湧き上がり、気づけば碧の袖を引っぱっていた。
「海外、行きたい!」
「そっか。思ったより乗り気でよかった。何か今日、ちょっと緊張してるみたいだったし」
心情が全部ばれていたみたいで、恥ずかしさからくるみはソファの上で縮こまる。
「そしたらやることリスト考えなきゃね」
「やること……パスポート?」
「それもだし、次に旅行のための貯金。あとはくるみさんのご両親の説得」
「私の親けっこう鬼門だと思うけど大丈夫かな……?」
「まあそれは追々何とかすればいいよ、任せて。くるみさんは海外どこ行きたい?」
どうやら行き先はくるみが考えていいらしい。
少し考えた末に、真っ先に思い浮かんだのは、かつて写真で見せてくれたベルリンの風景だった。
「……ドイツ。私ドイツがいい。碧くんがいつも楽しそうに話してくれたから、一度行ってみたいなって思ってたの」
「まあ僕の実家を宿代わりにすれば、滞在費は浮くしなぁ」
「ご実家……私も訪問して大丈夫なの?」
「くるみさんが嫌じゃないならもちろん。花が好きって知ってから、ベルリンの壁にある桜並木、くるみさんに見せたいってずっと思ってたから」
「い、嫌じゃない! ……その、嬉しいです」
何だか気恥ずかしくてクッションに口許を埋めると、碧は可笑しそうに笑って、スマホを操作し写真を見せてきた。
「これ僕の家族。妹の誕生日のお祝いした時のかな。三年前のだから、これより大きくなってる。母さんは日本だから写ってないけどね」
画面には蝋燭の刺さったチョコレートケーキを前にはにかんだ笑みを浮かべる小学校高学年くらいの女の子と、その隣に中学生の碧、そして彼のお父様。
女の子の方は柔らかそうな深いブラウンのショートヘアで、碧とは目許が多少似ているかもしれない。間違いなく男の子は放っておかないだろう可憐さを持っている。
「わあ、妹さん可愛い。それに碧くんも、その……碧くんってかんじね」
「何だそれ。まあどうせぱっとしないけどさ」
「そういうんじゃないけど……やっぱり、何でもない」
本当は『可愛い』と言おうとしたけれど、男の子はそう言われるのを嫌がるかもしれないなと思ったから、既のところで言葉を引っ込めた。それでも今よりも幼い写真の中の少年は、どこか女の子めいた綺麗さがあって……つい何度も見てしまう。
ふと今の碧を、盗み見するように横目で眺める。
こんなに綺麗なのにクラスメイトから注目されないのは、ひとえに第一印象のせいだろう。あどけなさと男らしさを同居させたような面差し。涼しげな目許に強い意志で結ばれたような口許、思いのほか長い睫毛……。
意識したとたん、ぼっと頬が熱くなった。
——やっぱり格好いい。
「年末年始帰った時にくるみさんのことをちょろっと話したら、お世話になってるならぜひ一度挨拶したいって父さん言ってたし。こないだもすごく美味しいキルシュトルテ焼いてくれたって話をしたら、ずるい私もーって妹がごねてたし」
「本当?」
「うん。だから大歓迎だと思うよ。妹は移住したの二歳の時だから、あまり日本語得意じゃないけどね」
「ならまた腕によりをかけて、今度は妹さんにも喜んでもらえる美味しいケーキを焼かなくちゃね。そしたらいっぱいいっぱい練習しなきゃ」
まず好みをチェックするところからかな、と小さく気合を入れてみせると、碧が碧が前のめり気味に申し出た。
「ついでに僕も楽しみにしていいですか、それ」
「ふふ……もちろん碧くんのぶんも用意するから。甘いの好きでしょう?」
「甘いの自体は別にそこまで。ただ君の手料理が好きっていうのかな」
虚空を見上げながら、まるで『帰り雨降ってたよ』とでも報告するようなライトさで、さらっと言い放つ碧。好き——そんな意表を突いたワードにくるみは動きを止め、手からすべり落ちたクッションが床に転がった。
「……あ……ぅ」
「どうしたの?」
両手で口許を隠して小さく呻き声を上げるくるみに、碧が胡散くさそう……というよりは単純に不思議そうにしながら、ローテーブルの片隅にぶつかって止まったクッションを拾い上げて手渡してくる。
今の『好き』だって前向きな意味合いで解釈しそうになるけれど、海外じゃストレートな言い方が当たり前みたいだから、多分読む裏すら存在しないのだと思う。
何とかそう自分に言い聞かせ、いつもの調子を取り戻すように笑って見せた。
「ううん。碧くんの暮らした第二の故郷を……私も見てみたいから、すごく楽しみ。家の方針でアルバイトは出来ないからお小遣い貯めるのを目標にするね」
「うん、分かった」
「それと……ルカさんや妹さんとも話したいから、ドイツ語もちょっとお勉強してみる。やりたいことリストに書いちゃうから」
「……そっか。ありがとうね」
澄んだ空のような瞳を見上げながらくるみが意気込むと、碧はお礼の後に、まるで子供でもあやすかのように目許を和らげ、手を伸ばしてきた。
大きな掌は包み込むように、ぽふぽふと優しく髪を撫でてくる。
「なら僕が教えるよ。独学じゃ難しいだろうし。興味あるかなって思って、くるみさんがよく使う言葉をドイツ語にしたノート用意してたから、次来た時渡す」
「……ん」
返事ではなく、意志に反して勝手に喉が甘えたような掠れ声を鳴らすのも、仕方がないことなのかもしれない。
大事にされていると同時に若干子供扱いされてる、というのは分かるけれど、それでも時間の許す限りずっと続けてほしい心地よさがある。多分それは、帰国子女で他人に対する距離が近くても、これはくるみにしかしない行為だと理解しているから。何よりも——好きな人の手だから。
大雑把で大きな手に撫でられると、他のことなんて何も考えられなくなる。
夢見心地のまま、思うままに存分に甘えたくなる。
『今からさ、もっともっと仲よくなって、甘えられたらいいね!』
親友の声が、耳の彼方でこだました。
——甘えても……いいのかな。
再来した緊張で、ぎゅっと目を閉じる。
そのまま彼の方に僅かにぽてんと体を傾け、二の腕に頬擦りをした。
「っ……くるみさん?」
主がわずかな動揺を示していることの証左のように、頂に乗っけられていた掌が力なくすべり落ち、くるみの肩で止まる。
「あ……甘えていいって、言ってたから甘えてる、の」
「まあ確かに言ったけど……」
「そういうことだから、そういうことなの」
「……分かった」
声はあくまでいつもの調子に近しいが、少しだけ……違うような気もする。
——あ……今の、もしかして好きって気づかれた?
どんな表情をしているのか見上げて確かめたかったけれど、何となく怖くて出来なくて。
ただ、ふれあった腕から伝わる熱が、震える喉の振動が、この半年で近づいた距離を教えてくれているようで。
「いいよ。甘えても」
優しい肯定。
四月の名もなき一日でも、自分にとっては真っ白な日記に刻んでいくカラフルで新たな一ページなのを、彼はきっと知らないのだと思う。
——碧くんにとって私ってどういう存在なのかな。知り合い? 同級生? それとも……
がんばり方はやっぱりまだ、分からない。
恋なんて初めての自分が今思いつくのは、ドイツ語の勉強とか美味しいケーキを焼く方法を探るとか、甘えてみることとか、ゴールを目指すにはあまりに遠回りで頼りないことくらいで。
でも、こうも思う。
——あなたにとって私がどんな存在だっていい。今だけでも隣にいさせてもらえて一緒に幸せな時を重ねることができれば、それでいい。
——それでいつか少しでも『好き』って思ってもらえたら……それが私の幸せだから。
もう自分は振り返らないって決意したから、代わりに彼を振り返らせるために。
自由に舞って甘えて、真っ直ぐ気持ちに向き合うのだって、きっと悪くないと思った。
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