第93話 真心とシュークリーム(2)


「……で、何かあったの?」


 夕食後にくるみに訊ねると、棚の前でエプロンの腰紐を解いていた彼女は分かりやすく肩を揺らした。


 今日はなにか地に足がついてない様子だなとは思っていたが、どうやら図星らしい。


 くるみは目を魚のようにすいすい泳がせながら、脱いだそれをいそいそと畳んでバスケットに仕舞うすがら、こちらは見ずにぎこちなく返す。


「実はね、碧くんに渡したいものがあって」


「なに? 花言葉図鑑?」


 頬をつんつん突かれた。


「……冗談にするならあげません」


「ごめんなさい」


 くだらない掛け合いに呆れたのだろうか。返事はせずそそくさとキッチンに引っ込んだ。かと思えば、数分後、今度はまるで初めてのお遊戯会をする子供のようにそろーりそろーりと妙にしゃちこばった動きで、何かが乗った皿を運んでくる。


 それがなんだか可笑しくてくすりと笑えば、昔より脆いつららの視線が飛んできた。


 何を出されるんだとどきどきしていたが、どうやら食後のデザートらしい。


 バニラの香りがする白い箱と皿がセットで目の前に置かれると、今度はその完成度にこちらが目を瞠る番だった。


「シュークリームだ。千萩に焼くお菓子の練習? くるみさんが焼いたの?」


「うん。千萩ちゃんの好みがまだ分からないからとりあえず、どんな物でも自信を持って出せるようにしたくて。普通のじゃつまらないと思ったからカスタードの一番上にお砂糖をまぶして、ほろ苦くキャラメリゼ……炙ってブリュレにしてあるのよ」


「待ってすごすぎるんだけど。とんでもない手間掛かってない? それ」


 パティスリーでもなかなか見ないような調理手順に思わず賞賛が口を衝いて出ると、熱を帯びたように甘いはにかみを含んだ上目遣いをこちらに向けられ、危うく渡されたスプーンを取り落としそうになる。


「真心込めて、つくったの」


「だからずっと授業参観の日の子供みたいだったんだ?」


 ちなみにベルリンの学校にそんな行事はないので、あくまで想像である。


「う……。だって突然お菓子なんて……押しつけっぽくないかなって」


 そう言ってしおしおとハスキーのぬいぐるみに口許を埋める様子は、好意を寄せる相手という補正を抜きにしても健気でいじらしく、抱きしめたくなるほどに可愛らしい。


 それにしても、彼女ほどの腕前であれば押しつけどころか札束を出してでも競り落としたい人がいるだろうに、何故そこまで自信なさげなのかはよく分からない。僕はくるみさんがくれるものは何でも嬉しいのにな、と思ったが今言ったら照れさせてしまいそうだったのでひとまず口には出さず、無難な返しをする。


「っぽくないよ、嬉しい。がんばってくれたんだよね。じゃあありがたく頂こうかな」


「は、はい。どうぞ」


 固唾かたずを呑んで見守ってくるので若干口に運びづらいが、そんなことなどすぐ忘れてしまうくらい、くるみ手製のシュークリームは絶品だった。


 焦がしカラメルになったざらめがぱりぱりと小気味よく砕け、大人のほろ苦さと舌をとろけさせるような甘さが同時に、くすぐるように味蕾に染み込んでくる。


 さっくり焼き上がった生地といい、卵本来の味を生かしたとろりと濃厚でなめらかなクリームといい、味わう時間はまさに至福のひととき。碧はもう、蜜壺に落ちた蜂だった。次から次へ箱に勝手に手が伸びた結果、気づけば自分の分は秒でなくなっていた。


「美味しかった……ごちそうさま」


 碧の健啖家振りを見るにつけ、くるみも心配事が晴れ、ようやくいつもの調子に戻ったらしい。


「もう。ほっぺにクリームついてる」


 世話のかかる弟を嗜めるように、呆れた口調で椅子から腰を浮かせて、ティッシュで口の端を拭ってくる。


 急に距離が近くなり、くるみ特有の甘いミルクの香りがふわっと押し寄せると、甘美な余韻もどこへやら。折角忘れていたことを思い出してはまた耳まで赤くなった。


 それすなわち、新婚みたい云々うんぬん


 くるみは何を考えているのだろうか。自分と同じことを……想像してるのだろうか。


「ね、シュークリームはドイツ語でなんていうの?」


 取り敢えず今は講座を開いてほしいらしい。


「Windbeutel」


「じゃあお皿とフォークは? 綴りはどう書くの?」


「Teller und Gabel……あ、そうだ。これ」


 スマホを手に取ろうとして止めた代わりに、思い出したように立ち上がる。


 春休みに用意していたキャンパスノートを棚から持ってくると、表紙を見たくるみが可笑しそうに鈴の音のような笑い声をあげた。


「ふふっ……それ可愛い。碧くんが描いたのね」


「美術室の幽霊を自称してた男の絵なだけあってまあまあ上手いでしょ」


「うん。さすが、すごい画伯大先生ってかんじ」 


 ドイツ語ノートというタイトルの横には、くるみお気に入りのハスキーの絵。

 画伯大先生という誉めてるんだか貶してるんだか判らない感想を受け流し、碧はノートをぱらぱらと捲った。


「くるみさんのシュークリームをドイツ語で誉めると〈Ihre Windbeutel waren die besten der Welt.danke euch.〉になるよ」


「えっと……?」


「待って、書く」


 罫線の間に綴りを書いていると、くるみは碧のペン先の動きをリアルタイムで見たいらしく、近くに身を寄せてきた。もちっとした清く女の子らしい柔らかさの頬が肩にくっつき、二の腕が時々尋ねるようにふれあう。


 ——え? なんか距離近くない?


 ふありと茉莉花のような白桃のような甘く瑞々しい香りがして、目眩がしそうだ。


「ね。これってどういう意味?」


 普段こちらから近寄った時は気にするくせに今は距離の近さは一切意識していないらしいくるみが、碧が書き終えるや否や、こてんと可愛らしく首を傾げる。さらりと垂れた亜麻色の横髪が手首をくすぐった。


「……くるみさんのシュークリーム世界一美味しかった。ありがとうって意味」


 碧が逃げるように一歩分だけ椅子を引いて翻訳——もといお礼を言うと、しかしくるみは挙動不審については咎める気はないらしく、たっぷり詰まっていたカスタードよりも甘やかな笑みをふわりと浮かべた。


「じゃあ、碧くんに誉められるのが一番嬉しいっていうのは、ドイツ語で何ていうの?」


「それ自分で答えるの恥ずかしいからパスは駄目?」


「……教えてくれないの?」


「しょんぼりしないでよ……分かった、言うから」


 仕方なく独訳を教えるとくるみは丹念にメモを取っており、勉強熱心さへの敬服と居た堪れなさを半分ずっこした感情のまま、ぼそっと零した。


「詳しくはよく分かんないけどさ、お菓子って料理よりも難しいんでしょ? 本当卒ないというか……何でもござれってかんじだよね」


 他人が遊んでいる時間を勉強や練習に費やしてるおかげもあるが、そこに人並外れた探究心も手伝っている気がする。


 だがくるみは真っ向からぶんぶんと首を振って、真っ直ぐに垂れるロングヘアを柔らかく波打たせる。


「確かにお料理もお菓子もいっぱい練習したけれど、今日のそれは碧くんのために拘ってがんばったからというか……あっ別にそんな押しつけがましいこと言いたかった訳じゃなくてっ! えっと、前にあげたケーキ美味しいって言ってくれたから私も嬉し……」


 いつも思考の回転が早く明晰で話も理路整然としているくるみだから、言いたいことがまとまらずにしどろもどろになる姿は珍しい。


 見守っていると、くるみの頬は果実のように熟してくる。やがて耐えきれず、八つ当たりのようにぽふぽふとクッションで視界を塞いできた。


「いいの。今のところは、碧くんは甘えさせてくれさえすれば……それで、いいの」


「っまあ……別にいいけど」


「お許しが出たから、毎日甘える。……明日も甘えるから覚悟してて」


「何その犯行予告」


 額をぐりぐり押しつけてくるのは、甘えると言うより猛攻という表現の方が正しくて、碧は鼓動の高鳴りがおさまらなかった。

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