第3章 シュガーリリィの恋

第89話 恋へ(1)

 真新しい制服と履き慣れないローファーが、学校手前のいつもの通学路を行列をなして慎ましやかに進んでいく姿を、碧はおろしたてのような気持ちで追っていた。


 ワイヤレスイヤホンから流れるフォーレ作曲の『Siciliano』に耳を傾けて、くたびれたスニーカーを鳴らすと、ふと桜並木が散らした花びらがふと髪の毛に引っかかる。つまんで掌に乗せたそれは、春風に乗って柏ヶ丘高校の門をくぐっていく。


 新入生たる後輩の群れ、パステルブルーに染まった空、さらりと肩を通りすぎていく爽やかな風。それが運んでくる沈丁花じんちょうげの甘い香り。


 春は言いようもなく、新しい物語の始まりに相応しい。



 ——くるみと互いの気持ちを伝え合ったあの日から、数日が経った。


 あれからまだ、一度も会えていない。


 会う理由がなかったからでも、会いたくない理由があったからでもなく、ただ互いに春休みの残りが予定で埋まっていたからだ。


 碧は次に飛行機に乗るお金を稼ぐために春休みの期間限定バイトで、くるみは家の用事。それでもメッセージで時たま連絡は取り合っていたし、彗星を見た後に玄関先まで見送った時の別れ際、くるみが見せたしっかりと一本の芯が通ったような表情を思い出せば、この人はきっと大丈夫だと思えた。


 それよりも大きく移ろいを見せたのは、碧の心境だ。


 烏滸がましい言い方かもしれないが、もうそろそろ自分を封印するのもいいかな……と思い始めていたのだ。


 碧は昔から人間が大好きだ。


 そのひとごとに考えが違って、全く同じ人間が世界にふたりと居ないと思うと面白い。こう言ったら湊斗には一度引かれたことがあるが、自分の悪口を言ってる人を見かけるとちょっと嬉しくなる。


 日本に知り合いはほぼいない一方で、スマホの連絡先にはドイツ暮らし時代の友人がそこそこ多く登録されてる。三カ国語のほかに広東語やスペイン語を勉強したのだって、その言葉を話す友人と話したいからというのがきっかけだった。


 だがこの学校では、碧が帰国子女であることを知る者は五指に収まる。


 入学早々に悪目立ちしたことと日本に長居しないことを前提に、外国暮らしだと名乗りそびれたのを今さら撤回する労力を踏まえては、人と関わることを半ば放棄したから。


 というよりは、自分の評判に関心が一切ないため、好きに言わせとけという気持ちで放っておいた結果こうなってしまった、という表現の方が正確かもしれないが。


 だが、約束通りくるみと今度一緒にいるならば、自分の印象を真逆にひっくり返さなければならない。


 相手は、誰もが憧れる完璧美少女だ。自分が良くても大多数の人間は、品行方正な才女が悪いうわさの立つ男と一緒にいることを許さないだろうから。


 ——そう思わせないだけの、誰にも何も言わせないだけの実力が欲しい。


 いつか日本を離れても、今だけは一緒にいたいし、少しでも好きになってもらいたい。あの眩しい姿を前に、僕なんかがと思わないと言えば嘘になるが、そこで退き下がれば一生この想いが成就する日は来ない。


 ——受けて立てよ艱難かんなん、だ。


 静かに決意を抱き今後を取り止めもなく考えていたところで、


「よっ。碧っちおひさ〜」


 誰かにぽこんと肩が小突かれる。


 振り向くと、鞄のほかにテニスのラケットバッグを背負った好青年がにっこりと笑ってこちらを見ていた。周りはかちこちと緊張した一年生ばかりなので、いい意味で気の抜けた佇まいや、真面目さと遊びのバランスがよい洒脱な出立ちはなんだかやたらと浮いて見える。


「颯太じゃん。久しぶり」


「たったの二週間ぶりだけど、碧っちは髪が伸びたねー。あれ、そっちって通学何線だっけ? 京王線?」


「徒歩だよ徒歩。そのおかげで最近家が溜まり場になってる」


「へえ、うちの学校で徒歩通学って珍しいじゃん。俺も遊びに行っていい?」


「手土産はカスタードシュークリームでおねがいいたします」


「あはは、しっかり指定してくんね。碧っち春休みはなにしてたの?」


「まあバイトかな。他にすることもないし」


 碧は去年から、時間を持て余しそうな土日なんかは、よく国際学会のバイトに行っていた。家にはあまりいたくないが、かといって日本では多くの友人をつくりたくなかった碧にとって、その日限りのアルバイトというのは都合が良かった。


 特に学会は諸外国から教授が集まるから、碧のようにネイティブ並みの英語力のある人はたとえ高校生でも重宝される上に、日給も弾んでくれる。英語もずっと喋らないでいると鈍るし忘れるから、そういう意味でも丁度いいのだ。


 湊斗のバイトの誘いを断るのは申し訳ないけど、これが一番気楽でいい。


 颯太はそんな事情は知らないはずなのだが、尊敬するように目を丸くしてから、人懐っこそうな笑みを見せた。


「へーそっか、まあ一人暮らしなら何かと物入りってイメージあるしね。碧っち何気面白いし、今年も同じクラスになれるといいなあ」


「やっぱその台詞、学校中のみんなに聞かせてやりたいなぁ」


「俺がグラウンドの真ん中から愛を叫んじゃう?」


「その場合、白い目で見られるのは僕だけどね」


「慣れてるっしょ」


「わりと言うよね君も」


 他愛のない会話を交わし合いながら見慣れた校門をくぐり抜け、人が集まっている掲示板を見上げる。


 この学校は二年から文理でコースを分けたクラス替えが行われる。もっと言えば歴史や理科など科目ごとの選択もあるため、同じ教科を選べば大抵は同じクラスとなる。


 自分の名前を発見すると、同じ表に続々と湊斗やつばめの名前も見つかる。夏貴も一緒なのはちょっとどうかと思ったが。


 颯太も同じクラスだったようで、一緒の教室に向かう。


 堂々と教室の後ろから一歩足を踏み込んだところで……



「ねえねえ楪さん! 先週さ、三鷹の公園で誰かと一緒にデートしてたよね?」




 あまりに身に覚えのある話が耳に飛び込んできて、思わず足を止める。


 ——あー、覚悟決めた早々にね……。


 課題の答え合わせをするように目を向けると、凛と気品溢れる佇まいで席に座る亜麻色の髪の少女と、彼女の机に集まる数名の女子。


 名簿を見た時に自分の名前より先に目ざとく一番最初に見つけていたので知ってはいたが、彼女も今年は同じクラスらしい。というか科目選択が一緒なので、もっとずっと前から知ってはいたんだけれど。


 儚げで美しいまさに妖精姫のような笑みを浮かべるくるみを、隣の颯太が意外そうにぼんやり見て、うわごとのように呟く。


「デートって言ったよね。楪さんって彼氏いたんだ」


「僕の知る限りはいないと思うよ。ていうかいない。本人が言ってた」


「ぅえ、碧っち話したことあったの?」


 悪いなと思いつつもはっきりしたことは言えず、曖昧に「まあ」と頷いた。


 話したことがあるどころか、彼女と一緒に三鷹まで行った男こそここにいる自分だというのは、クラスの誰も知らないのだろう。


 鳩尾をくすぐられるような妙な感覚になりながら、後ろの方の席にデイパックを置く。


 クリアファイルにまとめた提出書類をチェックしつつも聞き耳を立ててしまうことくらいは、許してほしい。


「それ私も気になる! どうなの楪さん!」


「土曜日のことですよね。確かにその公園には行きましたけれど……」


 くるみが困ったように返事をすると、囲んでいた女子達がわあっと色めき立つ。さらに外野で耳をそば立てていた男子たちも、男っ気も浮き立った話も何一つなかったくるみの文春砲ということで、気が気じゃない様子で彼女らの会話に集中していた。


 当事者としても、だいぶ気が気じゃないんだけど。


「楪さんは目立つからすぐ分かったの。でも暗かったからお相手はよく分からなくて。もしかしてその人って……」


「いえ。そういうのではなくてただ、私のお慕いする方ってだけです」


「お慕い……え? それってどういう……」


「そのまま文字通り。言葉の通り、です」


 普段より明らかにトーンの高い声に、教室中が俄かにざわめく。清楚にはにかんでみせたくるみの様相に、訊ねた女子同士まで照れが伝染ったように呆気に取られ、めいめい視線をぶつけ合った。


 立ち聞きの碧もまた——幸か不幸か帰国子女ゆえに『慕う』という言葉に込められた真の意味や機敏には気づかなくとも——彼女の愛おしげで繊細な笑みに、ここが学校であることも忘れて、ばかみたいに呆けて見惚れてしまう。多分教室中の男もみんな同じだろう。


 だがそんな碧を現実へ引っぱり戻したのもまた、近隣の男子生徒たちだった。


「なあ今の見た? やばい可愛いわ。やっぱくるみ様まじ天使。一緒のクラスとか、一生分の運使い果たしちゃった気がする」


「それなあ。けど今の話聞いただろ?」


「聞いたけどさ、別にそいつが彼氏って訳でもないんだろ」


「いやさ、けどさっきのって要するに……ってお前、何スマホ向けてんだよ」


 碧の視線が、不届きもののスマホがこっそり構えられる様子を捉える。カメラの視界が映った画面は何も知らぬくるみが上品に談笑する姿を、じりじり追いかけていた。


「記念だって。一枚くらい——あっ」


 シャッターが切られる寸前、短い声が上がった。


 画面が美しい少女の代わりに、ぬっと伸ばされた誰かの掌の影で埋め尽くされたからだ。


「このスマホ、先月出たばかりの最新のやつだよね。ちょっと見せてよ」

 さりげなく盗撮を阻止した碧は、なるほどカメラが三つもあるのか、と呟きながら端末をさらっと奪い、男子生徒の呆気に取られた表情をアップで撮影する。


「ちょ……秋矢!? 何するんだよ」


「あれ、僕のこと知ってるの? 僕は君のこと知らないけど」


「は? 誰だよこいつ」


「秋矢だよ。何考えてるかとか、会話の受け答えとか全部よく分かんねえ奴」


「へえ。話したことないのになんで分かるの?」


「ぐ……」


 碧はただ訊いただけなのだが、言葉を喉に詰まらせる男子生徒に、隣にいた友人が撤退の助け舟を出す。


「悪いのこっちなんだからもうやめとけよ。秋矢だっけ? お前もスマホ返してやれって」


「はい。今度おすすめ教えてよ。じゃ」


 呆気に取られるふたりから踵を返した。


「……なんだあいつ。やっぱさっき言ったの全部当たりだな」


「けどちょっと面白くねえ? 一回ちゃんと話してみたいわ」


「お前正気?」


 口々に呟くのを後ろに聞きながら、碧はご機嫌に小さい笑みを浮かべて席に戻る。

 自分に向けられた他人の意見はどうでもいい。むしろ——別に恩を着せる訳じゃないけど——いい事をしたから、すこぶる気分がよかった。想い人を守れたのならなおさらだ。


 丁度今こちらの存在に気づいたらしいくるみからの連絡に、普段は打たない絵文字をつけて返してしまうのが、その証拠。


〈おはよう碧くん。やっぱり今年は一緒のクラスね〉


〈つばめさんも一緒だよね? 教科書忘れた時借りる相手いなくなったな〉


〈もう ちゃかさないの!

 ところで……碧くんはいつからいた? さっきの私の会話……聞いてない?〉


〈僕は何も知らないけど〉


〈そっか。ならいいの。うん。

 家の用事も終わったから今日こそ碧くんの家に行けるはず〉


〈分かった。じゃあ寄り道せず待ってるね

 鍵預けたから不在でもいいはずだけど 今日だけはね〉


〈……うん〉


 くるみもまた感情表現をするようになったというか、昔より絵文字を多めで返してくる。


 同じ教室にいながらこっそり秘密の連絡を交わす関係というのが、どうにもむず痒い。


 ぼんやり彼女の小さな後ろ姿を眺めていると、くるみとお近づきになりたいらしい女子生徒が、親しげに彼女に話しかける。


「なになに、楪さん誰とLINEしてるの? やっぱりさっき言ってた人?」


「ふふ……はい」


 くるみがすんなり肯定すると、一体何が面白いのか、女子たちからまたきゃーっと黄色い嬌声が上がる。


〈なんでこんなに盛り上がってるの?〉


〈碧くんには秘密です〉


 と首を傾げつつ彼女の方を見ると、一瞬だけ目が合う。ふわりと桜の花のような優しさを秘めた温かな微笑みを投げかけられた——そんな気がした。


 再びざわめく近隣の男子生徒たちを横目に、遅れてやってきた湊斗に見つかり突っ込みを入れられるまで、どこか蜜月めいた内緒のやり取りはしばらく続いた。

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