第88話 合鍵(2)

 門限ぎりぎりになる頃、くるみを初めて家の前まで送った。


 一歩一歩終わりに近づくのが惜しくて、帰れない口実がみちばたに転がっていればいいのにと思いながら、心持ち緩慢に歩いた帰り際に。くるみもまた何も言わず同じ速度で歩いてくれることに気づきながら。


 たとえば、こんな会話をした。



『降るような星空……って表現があるけれど、本当に星が降るなんて、私初めて知った』


『流れ星は見たことないの?』


『本物はまだ一回も。都会は夜空が明るいから。……けれど今日のところは、彗星を流星に見立てての願掛けはしなくていいかな』


『どうして?』


『だって……碧くんが私のやりたいことを、一緒に叶えてくれるみたいだし』



 あるいは、こんな言葉も交わし合った。



『おかしな質問だけど……もし私がまた帰る場所を見失ったら、碧くんはどうする?』


『飛行機にでも乗り込んで、どこか遠くにでも一緒に探しに行こうか』


『あなたの大事な貯金は、そんなことに使うべきじゃないと思うのに』


『いいよ、僕くるみさんのためなら何でも出来るみたいだから。それに僕、お金ってこういう時に使うべきものだと思う。じゃなきゃただの紙切れと同じでしょ』


『……うん』



 くるみの家は大きな邸宅だった。いつも別れる十字路が成城の高級住宅街の真ん中だったから予想はしていたが、想像よりもずっと立派な構えのそれは、碧には白亜の城か何かに見える。


 街灯の明かりが、しんしんと夜の底を照らす。


 イギリスの高級車が止まるガレージ横の門扉の前で、ふたりは向かい合っていた。


「送ってくれてありがとう。帰り気をつけてね」


 彼女は今からご両親の帰宅を待ち、対話をするのだろう。


「Du schaffst das ganz sicher」


 そう励ますと、きちんと意味を理解してくれたらしいくるみは、口許に指を一本立てて柔らかく口許を弛ませた。


「うん。私……がんばるって決めたの。まだ碧くんには秘密だけど、がんばらなきゃ」


「僕には秘密?」


「ふふ、そう。女の子には秘密のひとつやふたつあるものなのです」


 淡く笑ったくるみは、この夜にはあまりに眩すぎた。


 互いにさよならは言わなかった。言ったら今日の終わりとして明確に線引きされそうな気がしたから。多分くるみも同じことを思っているのだろう。そうだといいな……と思う。


 だから代わりに名残惜しげな視線だけで、空気を震わせない言葉を交わし合った。それだけだとやっぱり寂しかったからか、くるみが両手でぷんぷんと手を振ってくれて、碧もそれに右手を小さく掲げて応じた。


 くるみが後ろ姿を見せ、白亜の城へ続く長い小道を歩き始める。


 石畳を叩く足音が、どんどん遠ざかる。


 碧もまた帰路に就こうと踵を返し——しかしどうしてだろう。スニーカーは大地に縫いつけられたように、一歩先へ進んではくれなかった。


「……」


 どれほど涙ぐんでも最後には笑えたから、もう大丈夫……そう思ったはずなのに。


 華奢で、折れそうなくらいにか弱い背中を見送ると、何となくまだ話をしなくちゃいけない気がして。


 振り向いて、小さく「くるみ」と名前を呼んでみたが、距離にかき消されて届かない。


 遠くなる。

 行ってしまう。



 ——……っ



 シャツの裾が、急な動きに取り残され、後ろにはためいた。


 堅く閉ざされた玄関の扉に寄りかかるように掌を突けば、自らの影に収まった女の子から、びくりと跳ねて上擦った吐息が洩れる。


「あお、くん……?」


「こっちは見ないで」


 振り向かせまいと、大雑把に後ろから左腕と体ですっぽり包み込むと、くるみの華奢な体が震えた。それでも碧は止めなかった。力を込めれば折れてしまいそうなほど細いシルエットをそっと抱き寄せるのを、止めることはなかった。


 全ては呼び止めるため。もう一方の手でポケットから探り取って渡すため。


 ——自分の意志を、かたちにしたものを、彼女へと。


「もしさ、また行き場を失っても。そうじゃなくても」


 託すように預けるように、くるみの掌を広げ、そっと乗せる。


「くるみさんの居場所は……ここにあるから」


 明かりを受けて鈍く光ったのは、マンションの合鍵。


 こんな関係だしいつか渡した方がいいかな、とは思っていたのだ。


「……もちろん、それ以上に深い意味も他意もないからさ。ただいつでも帰って来てほしいっていう、それだけ」


 何かの感情が込められた吐息がかすかに腕にかかる。鍵をぎゅっと握ったくるみは、やはり震えていた。


 驚きか困惑か、はたまた見下げ果てたか——こちらが表情を見せない分、向こうが今何を考えているのかも伝わらない。ただ拒んではいないことだけは、彼女が振り解こうとしないことから判断がついた。


「……受け取って、くれますか」


 返事がほしくて尋ねると、これまで行き場がなく大人しかった白い掌が、愛おしむように碧の回した腕に重ねられる。


「その前に、さっき言ったわがまま……もうひとつだけ、いい?」


「何なりとお申しつけを」


 そう頷くと、くるみは春風のようにするりと碧の腕をすり抜けた。


 亜麻色の髪とマウンテンパーカーの裾をふわりと踊らせ、後ろで手を組んで振り向く。


 あどけなくて瑞々しくて希望にあふれ澄み切った、世界中の人を一目惚れさせかねない可憐な笑みを浮かべながら。碧は目を逸らさなかった。——逸らせなかった。


「私もあの家に帰ってきた時に『ただいま』って……言っても、いいかな?」


 一瞬息ができなかった代わりに、一拍おいてぷはっと笑みが零れる。

 なんて些細で慎ましやかで、可愛らしいわがままだろう。


 答えは、言うまでもないだろう。そしてどんなに短い返答だとしても、それを聞けるのは彼女だけだ。


 そっとくるみの肩に口許を寄せると、決まりきった三文字『いいよ』に今の優しくて穏やかな気持ちも一緒くたに乗っけて伝える。明日の彼女が笑っていられるようにと願いながら。



 一陣の風が、舞い散った空知らぬ雪をさらって、どこまでも遠くへ運んでいく。

 ——きっとあの日、妖精姫スノーホワイトが僕の世界の片隅に、ひらひらしたこの感情を降らせ始めたのかも知れない。


 今もまた、ずっと。





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◼︎お知らせ


お読みくださりありがとうございます。第2章完結です!

皆様の応援のおかげでようやく両片想いまでくることができました。


第3章開始までほんのちょっとだけお時間いただきます。

プロットはもうかなり先まで出来ているので、執筆作業を進めたら戻ってきます。

あまりお待たせしないようにしますので、今後とも箱スノをよろしくお願いします!

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