第87話 合鍵(1)


 大きな池のほとりに連なる遊歩道を、歩いていた。


 温度のない雪が、桜の花びらのかたちになって道端に降り積もっている。草花が大地に煙るほのかな匂いがする。街の光は木々に阻まれ届かない。


 凪いだみなもには、りんと澄みとおった春の夜空が映り込み、けれど彗星はまだ姿を現してはいなかった。


「——……」


 会話はなくて、視線も合わなくて。四月始まりの冷えた宵の風だけが二人の静寂の間をすり抜けていくけれど、それでよかった。


 時折くるみは碧の手をほんのり握る。向こうからもきゅっと握り返される。それだけで、十分に通じ合える気がするから。


 けれど今はまだ、この気持ちだけはどうしても——伝わってほしくない。



 ——落ちつけ、落ちつけ……



 彼に心境と気持ちを打ち明けてから、どうようもなく高い熱に浮かされていた。

 春はまだ寒いからと貸してくれた二度目のマウンテンパーカーが、袖も丈もぶかぶかなのと同じように。不思議なことにまともに視線すら合わせられないのだ。


 いつも一緒にいたはずなのに、何度も掌を重ねてきたのに。今は碧が隣にいることがぜんぜん現実味を帯びていなくて、ましてや手を繋いでいることはもっと信じ難くて。


 上着に残る彼の体温が心を忙しなくさせて。心拍がいつもより早足で。息の仕方すら分からなくなりそうで。絡めた指がどうしようもなく、震えていた。



 ——いつも通りでいたいのに、どうしても出来ない……



 さっき自分を優しく包み込んでくれた腕にちらりと、目がいってしまう。あんなに涙を見せてしまったことが段々と恥ずかしく思えて、けれど彼が相手なら何だっていいと思えて、そんな自分にまた戸惑って。


「ここの丘登ったとこで座ろうと思う。くるみさんは僕のそれだけで寒くない? 平気?」


「……うん、平気。ありがとう」


「そっか。ブランケットも一応あるからね。足下暗いから気をつけて」


 受け取った気遣いの言葉が、冬の夜に洩らした真っ白なため息のように、じんわり優しく染みていく。


 いつもは大雑把なのに、こちらを扱う時だけ慎重になる手が。

 話しかけてくる時の声の優しいトーンが。彼を見上げる時の角度が。

 あまつさえ、あなたのおかげで塗り変わった自分の世界さえも。


 全部ぜんぶ全部、貰ったものがどうしようもないほど愛おしくて。


 名状し難いほどに尊く、温かい感情が底から込み上がってくる。溢れる想いが後押しするように——気づけば、衝動で一歩踏み出していた。


「……!」


 ぐいっと手を引き、足を止めさせるや否や……ぎゅっと堅く目を瞑り、そのまま彼の後ろに抱き締めるようにお腹に腕を回して、ぽすんと額を預けてみる。


 案の定、すぐさま動転した声が上から降ってきた。


「っく、くるみさん?」


「……ちょっとだけ……甘えたくなっちゃって」


 もちろんまだ緊張してるけれど、それ以上に何も考えられなかった。


 何も考えずに、頼って委ねて甘えてしまいたい。


 自分の声が想像よりずっと力なくて、重く聞こえちゃったかな、なんて言った後に心配になるし、直に伝わる体温といい匂いが考える力を奪ってきてる気もする。


 羞恥の熱でぼんやりしながら、くるみは必死に言葉を紡いだ。


「……もしかしたら今って、夢なんじゃないかなって、思ったの」


「それは困るな。折角こうして夜空を見に来れたのに」


「それくらい、私にとっては幸せなの。自分史上一番……誰かとの距離が近づいたから。しかも一番大切な人と。それがまるで、夢みたいだなって」


 数秒ほど間が空いてから、妙に取り繕って動揺を隠したような声が聞こえる。


「……僕は大したことしてないけど。なんなら多分今から見える景色の方が、よほど現実離れしてると思うよ。だって星が降るんだし」


「そこは……そうだねって言っておけばいいのに」


 何だか恥ずかしくなって額をぐりぐり押しつけると、今度は打って変わって屈託のない笑い声がはじけた。


 それを聞いてまた、きゅーっと耳まで熱くなる。


 自分の中から聞こえる、未だかつてない甘い高鳴りは誰が起こしたものだろう?


 この前まで心はあんなにも曖昧で、あやふやで。


 最初は自分の気持ちすら分からずに戸惑っては、迷子になるばかりだったのに。


 冬の頃はじんと悴むように冷たい透明な空気で冷静になれたのに、今は春の到来のせいで、頬が熱くてしかたがない。


 桜は指を悴ませないから、緊張で震えたことの口実にもなってくれない。もう降らない雪に、この熱を奪ってくださいなんて祈る事も出来ない。

 けれどそれが嬉しくて堪らないのは……なぜ?



 ——そう。始まりはあの日だった。



 曇天の空から、雪が舞い落ちる夜。


 唐突に出会った誰かのことを、帰ってから何度も何度も思い出してしまうのは、初めてのことだった。邪心も同情心もなくただの〈親切心〉だけで助けてくれた彼に、もう一度だけでいいからまた会ってお礼が言いたい。最初はただそれだけのつもりだったのに、気づけば名前のない関係が始まって、ふたりの世界が交じり合っていた。


 それからもっと彼を知りたいと思うのに時間はかからなくて。そんな気持ちでぐぐっと背伸びをし続けて、写真に切り取られた碧の広い世界を覗いては、知らないことの多さに気づかされてばかり。


 でも、今は違う。初めはあんなに遠い世界の人のように思っていたのに、今は一番近くにいる。同じ高さで隣にいて、ふれあって、同じ場所に向かっている。


 それなら、って思った。



 ——いま瞳のカーテンを開けば、あなたと同じ世界を見ることができる?



 もたれた体を起こして、彼の隣へ。とざした視界を開いたくるみを、初めにいざなったのは、夜の光。


 あおあおを塗り重ねたような、深く深く澄み渡った南の夜空。そこに砕いた水晶の破片をばらまいたような煌めきが、人のちっぽけな一生など知らないと言いたげに、数万年前の悠然とした光を降り注がせる。


 横たわる海蛇座うみへびざの上に乗っかったアンバランスな春の大三角が、アルクトゥルスやスピカのまたたきが、泣いた女の子の落とした金平糖こんぺいとうのように転がっている。


 そして星々を跨ぐように天を切り裂き、オーロラの光を振りまく、箒星ほうきぼし


 今まで見た何よりも美しい光景のはずなのに、一番に目を奪ってきたのは——



「ほら。星って本当に降るんだよ」



 空を見上げる、降り注ぐ透き通った明かりになぞられた、綺麗な面差し。


 いつだってくるみの隣にいてくれた。初めは読めなかったけど、本当は優しくて頼りになって、困った時は必ず手を差し伸べてくれた。大切に思ってくれている気持ちを言葉と行動で伝えてくれた。くるみのためだけに、やりたいことを一緒に叶えるって言ってくれた。



〈恋っていうのは、相手をもっと知りたい、仲良くなりたいってなって、きっと憧れと紙一重なもの——〉



 親友の恋の定義に導かれれば、自ずとこの感情の正体は探り当てられるのだろう。

 けれど、自分で見定めて正解を選ぶってことを、くるみはもう決意した。


 愛おしい心地のまま、すっと深く息を吸い込む。

 世界からりんと音が消えていく。

 洩らした優しいため息が、名残惜しげに夜の底に置き去りにされていく。



 ——ね、この間までの私。

 ずっと知らなかった感情の名前、きっと今なら分かるよ。



 小さな箱庭にあなたが不意に現れて、見える景色さえも、優しいパステルカラーに塗り替わっていく。私に降り注ぐどんな眼差しも言葉も表情も、いつだって光より眩いものだったって、雪が解けてから気づいた。


 だからこの感情の名前は……



 ——恋にする。



 そう思えた、冬の終わりと春の始まりの境界線。


 惹かれてしまう。果てしなく、どこまでも。

 大好きなあなたに頬を寄せ、時間が止まればいいのにと、彗星に願った。

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