第86話 「一緒にいるよ」(2)


 涙ぐんだ瞳で、見つめ合っていた。


 くるみはずっと秘めていた気持ちを伝えられたおかげか、安堵の表情。一方自分は、どんな表情をしているか分からない。多分情けない泣きべそだろうけど、そんなのはどうでもよかった。


 くるみによるやりたいことリストの第一弾はもう、決まっている。


 碧の世界を一緒に見ていたい——その願いを早速叶えるとしたら……


「連れていくよ。僕の世界に」


 改めて手を差し伸べる。


 空はまだ少し明るいが陽はすでに傾き、刻限はじりじりと迫り来ている。ゴールデンアワーの月明かりと街灯に照らされる桜も乙なものだが、今はそれよりも大切な予定があるので時間が惜しい。


「彗星、見に行こう。今からでも間に合うから。善は急げだ」


 碧の申し出に、くるみは濡れた瞳を申し訳なさそうに瞬かせる。


「けれど……私お見合い騒動があったから、何も準備してなかった」


「気にしなくていいから。どちらにせよもうばっくれたんだ、今はまだ帰れないでしょ」


 幸いにも……というか当たり前だが彼女のスマホは電源を切っているようで、今すぐに連れ戻される心配はなさそうだ。


 今日の門限は破ることになるが、女の子を連れ出す礼儀として父親の方の二十時半には間に合わせるつもりだ。事前に書き置き代わりのメッセージは残したようだし、危なくないように碧が傍にいる。今日中に戻れば大事には至らないだろう。


 しかしくるみの方をもう一度見ると、碧の言葉が原因か、くるみは後ろめたそうに表情を空虚に曇らせていた。逃げたことに良心の呵責が渦を巻いているらしい。思えば初めて会った日も似たような表情をしていたな、と思う。


「……くるみさんはさ、何にでも真面目に向き合いすぎ」


 わしゃわしゃと亜麻色の絹糸をわざと大雑把に撫でる。


「別に嫌なことからは逃げていいんだよ。何でもかんでも向き合ってたら大事なものが擦りへっていくでしょ」


 あの日の再現のように、けれどあの日とは確実に何かが違った夕闇の下で、車がライトを光らせては次々と橋下を通り過ぎていく。


「僕たちは人間なんだから、全部が全部、正しくあろうとする必要なんてないんだ。〈絶対に正しい答え〉なんてものは初めから存在しない。自分が選んで辿った道を、十年後とかになって後から振り返ったときにはじめて正解にすればいいんだよ」


 優しさを込めて撫で続けていると、不意にその手が止められた。


 くるみは碧の右手を愛おしげに両掌で包み込んで降ろすと、泣き疲れたような微笑みを浮かべて、静かに視線を落とす。


「……物事の正しさを計る物差しが、あればいいのにね」


「うん。けど今すぐじゃなくてもいいんだ。これで良かったなって思える日がいつか来たら、その時に正解にすればいい。僕だって日本に戻って来たことが正しいことだったかなんて分からなかったけれど、少なくとも今は来てよかったと思ってる」


 伏せた繊細な睫毛が、震える。


「……あの日も今日もだけど、歩道橋に来ることを選んだことも、正解にしていいの?」


「僕はその答えを持っていないよ。決めるのはくるみさんだから」


 けど、とちょっと照れながら続ける。


「そしたら僕と君はここで出会えなかった。だからもし迷っているなら、正解でいいと……僕は思う」


 すると再び、くるみの透き通った双眸そうぼうに涙が浮かび上がった。


「あ——どうしてまた泣くの。せっかくの美人が勿体ない」


「それ私のこと?」


 涙をぽろぽろ零しながら見上げてくる。


「あはは、自覚ない振りしないでよ。こんなに可愛くて目が離せない人ほかにいないって。ほら笑って」


「……碧くんには、私がそういうふうに映ってるの?」


「完璧主義で強がりなくせに寂しがりやで不器用で、しっかり者で世話を焼いてくるけど、本当は自分が一番誰かに甘えたい女の子……それが僕の知るくるみさんだ」


 近寄りがたいほどに完璧な、神々しい妖精姫スノーホワイトでもない。


 硝子箱ガラスケースに飾られたお人形のように静謐な妖精姫スノーホワイトでもない。


 いや、それらをひっくるめてというのが正しい表現かもしれないが、一番はどこまでも年相応の女の子らしい表情を見せる彼女を、碧は愛したのだ。


「本当に」


 泣き笑いをしながら一度言葉を切る。


「碧くんは……おかしな人」


 今は向かい合って笑えている。それだけで十分な気がした。


 くるみを連れて歩道橋を降りた碧は、目的地へ続く長い長い桜並木を歩き始める。


 ふと見上げたカーブミラーに、雪のなか佇む幼いくるみに、拾い上げた傘を差し伸べる自分の姿が、見えた気がした。


「……ねえ、碧くん」


 隣の少女が温かく柔らかく解れた、繊細で美しい笑みを浮かべた。


「あの日と同じ、雪が降ってるね」



 ——空に知られぬ雪がふわふわひらりと舞い散る夕暮れの下で。

 どちらからともなく絡めた小指は、今度はいつまでも結ばれたままだった。

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