第83話 くるみの世界(2)


 くるみに電話を発信し、しかし応答はないまま、気づけば昼過ぎになっていた。


 呼び出し音が空虚になり続けるのも、もう何度目だろう。


 くるみが失意の底にいるのには、きっと今日行けなくなっただけじゃない理由がある。そんな気がした。


 のんびり食事をとる気にもなれず、昨日買い置きしたサンドイッチとポテトサラダをほんの少しだけ頂いたところでもう一度かけ直し——やっと電話がつながった。


 また不在着信になるだろうと思っていたので、碧は右手に持っていた箸を半ばほっぽり出すように、受話器にかじりついた。


「もしもし! くるみさん、今どこに——」


 言いかけて、しかし言葉は途切れた。


 受話器の向こうから、小さな啜り泣きが聞こえた……気がしたからだ。


「……碧、くん」


 掠れてくぐもって、今にも消えそうな、か細くか弱い声。耳に届くや否や、碧は我を忘れて立ち上がった。


「今すぐそっちに行くから。動かないで、場所だけ教えて」


 きっと自分の言葉は切羽詰まって響いていただろう。


 碧は食べかけのサンドイッチを半ば放り出し、Tシャツの上に上着を羽織ると、廊下を駆け抜け、スニーカーに足を突っ込む。鍵をかける時間も惜しく、傘を二本持ってそのまま通路を駆け抜けエレベーターのボタンを押したところでもう一度端末画面を見ると、しかし通話は切れていた。


「っ何で——」


 もう一度かけ直し、はやる気持ちを抑えて一回に降りエントランスの扉を開けたのだが、すぐ着信音がけたたましく響いてるのが聞こえ、その音が走り出しかけた碧の足を、半ば無理やり止める。


 理由は明白だった。




 扉を出た先にくるみが、いた。

 しゃがみ込んで雨に打たれて、うつむいているくるみがいた。




「ッ——」


 鋭く息を吐くのと、すぐさま傘を開いてエントランスの横にある茂みの隣にいる彼女に駆け寄るのは、ほぼ同時だった。ぱらぱらと雨をさえぎる音の粒にも、ぴちゃぱちゃと雨を跳ね返す足音にもくるみは振り向きすらしない。


 まるであの雪の日、初めて歩道橋で出会った時に戻ってしまったかのような——嫌な感覚が、烟る雨でも流れずに立ちこめるようだった。


「何……してるんですかこんなところで」


 名前を呼ぶとようやく、ぼんやりと佇んでいたくるみが、こちらにすっと顔を向ける。


 その潮解く頬に光る筋は涙だろうか、あるいはただの雨水だろうか。


 まるで風雨を前に散ってしまった四月の桜のように、いや、春を前に涙雨なみだあめにとかされてしまった雪のように……脆く儚く頼りない姿だった。


「こんな格好でごめんなさい。慌てて家を出たから、傘……忘れちゃって」


 か細い声に、碧は小さく首を振る。


「家の事情ができたの。今日の天体観測、行けなくなっちゃった」


「そんなのはいいんだ。……いいんだよ」


 広げた傘を差し出し、冷たい雨を遮った。優しく響くように祈った碧の言葉に、しかしくるみは今にも泣き出しそうな表情でうつむく。


「もうすぐ家に帰らなくちゃ行けない。けれどその前に、碧くんに会って……謝らなくちゃいけなかった。今日行けなくなったことも、絶対大丈夫って言ったのに約束破っちゃったことも」


 ——こんな時だって心配するのは僕のことなんだな。


 きっと彼女は行く宛がなかったのだ。


 どこまでも甘え下手で、わがまますら言うことのままならないくるみは。


 たとえどんなに通い慣れた碧の家でも「ただいま」を言って転がり込むことは出来ずにいた。


 だからこうして二の足を踏むようにエントランスで燻っていたんだ。


 傘を持ったままその隣にしゃがみ込み、小さくて真っ白な手を取る。華奢で頼りなくて、冷え切った指だった。


うちか」


 力なく連れられる彼女の手を引いてはマンションに戻り、碧はくるみをカウチソファに座らせた。濡れた荷物を乾かすためにエアコンの下に並べて、洗い立てのバスタオルを手渡し、温かなブランケットをかけてやってから熱くしたホットミルクを手渡す。


「もう春なのに寒いよね、今日。雨が続くなら、また家で映画観るのもいいかもしれないな。僕のおすすめに『マイ・インターン』ってのがあるんだけどさ」


 半分残ったホットミルクが冷めてきた頃。あくまでいつも通り、を意識して話を振ると、くるみは眉を下げて静かにこう切り出した。


「……映画なら、冬に一緒に観た『ローマの休日』のストーリー、憶えてる?」


 何度も観たからもちろん憶えていた。碧の想念にはあの名シーンが鮮やかに再生される。


 記者会見の場で、アン王女とジョー・ブラッドレーが互いの決定的な身分の違いを知るのだ。そして最後には——


「前までずっと一緒だなって思ってたの。私と、同じだなって」


 くるみの言葉で我に返る。初めて出会った時の、彼女の貴く寂しげなドレス姿を思い出し、碧は苦しい息を吐いた。


「くるみさん」


「ごめんなさい。本当はこんなこと言いにきたんじゃないんだけど。五分間だけ……完璧じゃない〈私〉で居させてほしい」


 目の前にある萎れたような面持ちに、もしかして、と一つ思い当たることがあった。


 鎌倉での結婚話を唐突に、思い出した。


「……許嫁いいなずけ、ですか」


 どうして、とくるみは呟く。


「分かるのかな、碧くんは。誰にも打ち明けたこと、ないのに」


「何となくそうかなって」


「当たらずしも遠からずといったところ、かな。正しくはお見合い話だから」


「見合い……」


 どちらにせよ現代日本でよくあるような話じゃない。お嬢様なのは知ってたが、彼女の家柄や門地はもしかして碧の考えている以上に由緒正しく、封建制度が残っているような高貴な出自なのかもしれない。


 場を和ませようとBluetoothで流したホルストの『金星』が、空虚に耳に届く。


 絶句していると、くるみは傷ましげに睫毛を伏せ、訥々とつとつと語り始めた。


「今日はその人と会わなきゃいけないことになったの。分家にあたる遠縁とおえんの人で、仕事の都合で京都からこちらに来て、丁度いいからって。私が楪の……本家の娘だから」


「……現代の話、ですよね」


「正真正銘、私の世界の物語よ」


 どうやら、妖精姫スノーホワイトというあだ名が示唆する通り、概ね碧の想像は正しかったらしい。


 が、その話はあまりにも……現実離れしていて、ドラマの脚本シナリオでも聞いているような心地だった。


「心配事は早めになくして勉強に集中するために、相手は進学の前に決めてしまいなさいって母が。……うちは、代々見合い婚が当たり前の家系だから。受ける予定の大学だって、もう両親に決められているの」


 感情を抑えるどころか、逆らうように穏やかで気丈な声。


 自分事なのに、まるで他人事のように。


 それが今のくるみにできる最大限の強がりだというのが分かってしまうからこそ——碧は目の前の少女を抱き締めないようにすることで精一杯だった。


「そんな予定調和な未来は容易く想像が出来る。理想の筋書き通りにいい大学に行って、偉い仕事をこなして、今はまだ名も知らない人と成り行きで結婚する私の姿が。けれど……それは私が選んだ将来じゃない」


 大人ぶってる振りしてまだまだ子供な自分たちは、どれだけ上手くやれているつもりでも親の庇護なしには生きられない。


 けれどだからと言って——親の言いなりになるのがいつだって正しい訳じゃない。


「自分の意志は伝えたの?」


「……両親も嘘じゃなく、本当に私の幸せを思って決めてくれてるの。両親とも仕事で成功を収めた上でお見合い婚しているから、娘にも同じ道を辿って幸せになってほしいと思っているのだと思う」


 首を横に振り、隠しきれない寂寥を湛えて小さく笑う。


「私は出来ないことが多かったの。幼稚舎から中学までずっと同じ敷地で、通学は十二年間スクールバスだったし、門限も碧くんの知っての通り。毎日の家庭教師や習い事で遊ぶ時間もなかった。子供だけで遠くへ行くのも危ないから絶対に駄目だって。もちろん勉強に関係のないものも禁止」


 耳にするだけで息の詰まるそれは、碧の自由に育てられた半生とは、まるで真逆の世界の話だ。


 碧の親は、転んでも自分の足で起き上がって進む方法を教えてくれた。対して彼女の親はまるで、初めから一度だって転ばないように一本のルートを道案内してくれているように思える。要するにくるみは、大切なあまりに大人たちに、ということだろう。それが本人の幸せとイコールになるとは必ずしも限らないのに。


 少なくとも碧の両親は、本人の意志や自由を何より重んじてくれた。今抱いている夢だって両親は知った上で応援してくれている。


 だからこそ、きっと本当の意味で気持ちを理解してあげることは出来ないし、綺麗にわだかまりを解いてやることも出来ないのだろう。


「ずっと家でお勉強ばかりしてきたから、春も夏も冬も……巡る四季に思い出自体あまりなかった。私も努力は好きだから前はこれでいいと思ってたけれど、それだけじゃことに最近気づいたの」


「くるみさん」


「お花見に欠かせないっていう桜もちも、夏祭りにあるっていう林檎飴も、どんな味かも分からない。打ち上げ花火を見たことがないし、学校帰りに寄り道をしたこともなかった」


「もう止め——」


 己を卑下する言葉が続きそうなので止めようとしたところで、


「けれど私は……勉強も運動も、努力に裏打ちされただけの実力と自信はあるし、いろんな習い事をさせてもらったから大抵のことは出来るし、料理や家事も上枝さんにこっそり教わって覚えてきたから……きっと大丈夫」


 肯定と思える言葉が続き、碧の発言を引っ込めさせる。


「おかげでつばめちゃんにお菓子の焼き方教えてあげられるし、湊斗さんに勉強だって教えてあげられるし、碧くんのお世話をすることも出来るでしょ?」


「……」


「ほら、ね。私は大丈夫なの。出来ないこともあるけど出来ることもたくさんある。両親にも大切に育ててもらった。だからこれくらい……本当に、何でもないから」


 碧には、何が大丈夫でどこが何でもないのか分からなかった。


 目の前の少女は今もなお、誰かがこの世界に繋ぎ止めていないと風に吹かれて飛んで行ってしまいそうなくらいに、真夏の呼水よびみずのように頼りない存在に見えたから。


 今の話だってあくまで努力という名の根拠があるが故の〈自信〉であり、無条件に自己を〈肯定〉した訳ではない。もし地道な努力や積み重ねた成功といった功績がなくなっても、彼女は果たして今のままでいられるのだろうか。


 このまま誰かに守られたレールを辿り続けることを、彼女は本当に受け入れているのだろうか。


「もうそろそろ行かなくちゃ。話が逸れちゃってごめんなさい。やっぱり今夜は、言葉で天体観測……になりそうかな」


「待って!」


 だから碧は急いで呼び止めるほかない。


 彼女をこのまま帰すわけにはいかなかった。


 まだ聞いていないことがある。くるみは自分に降りかかる事情を事実として話しはしたが、自分の真なる想いや気持ちは何も打ち明けてはくれなかったのだ。


 それに今そのまま見合いに赴かせてしまっては——彼女はもう二度と手の届かないところに旅立ってしまいそうな気がした。


 今の『またね』が、効力を持たない気がした。


「まだ訊きたいことがあるんです」


 彼女をここに留まらせるため、行かないでと乞うように、必死に訴える。


「確かに選択肢のない一本道がずっと続いていたかもしれない。けど……誰かに振る舞う機会もなかなかなかったのに、家政婦さんにお願いしてまで料理を努力して覚えていたのは、くるみさんの意志でしょ。それは……自分なりに叶えたい生き方があったからじゃないんですか?」


 はっとした表情で、ぴたりと止まる。しかしその問いには答えずに、


「ごめんなさい、碧くん」


 右頬に残る涙の筋のようなものを掌でそっと拭い、また春を待つ雪のような表情になりながら……立ち尽くす碧の隣をすり抜けて、家を出ていく。


「っ——」


 伸ばした手は何もない空気を掴み、ぱたんと扉が閉まる音が聞こえた。


 行き場を失った拳をそのまま握りしめ、自分の膝に強く降ろす。


 やるせない、やるせない。


 ——また僕は何もできないのか? のように。


〈人に優しくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人に優しくしなさい——〉


 あたまのなかで、そんな言葉の残響が、何の意味も持たずに続いていた。

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