第82話 くるみの世界(1)


 そして待ちに待った天体観測の日。


 碧を優しく起こしたのは、平日にけたたましく鳴る目覚ましでも、小鳥の爽やかなさえずりでもなく、ひたすらしとしとと降り止まぬ予報外れの雨音だった。


 半分寝ぼけた調子でブランケットを跳ね飛ばして、連綿とベランダを叩く音の粒と雫のリズムに耳を澄ませ、そして今の天気がくつがえしようもない雨だとわかるや否や、


「なんで雨降っちゃうのかな……」


 と、大仰なため息を落とす。


 先日見た思い出深い満開の桜も、きっとこの雨で少し散ってしまうのだろう。カーテンレールには役目を果たせなかったてるてる坊主が力なく垂れていた。


 寝起きで半開きの瞳で恨めしげに窓の外を見やってから、枕もとの充電コードを手繰り寄せ、スマホで天気予報アプリを開く。雨が降るのは午前中のみで、夕方にはすっかり晴れ、夜には雲はどっか遠くに行っているそうだ。どこまで信じるべきか分からないが、そもそも碧には信じる以外の選択肢はない。きちんと予報通りに晴れることが、何よりの碧の願いである。


 そしてもう一つ、信じなければならない案件が碧にはある。


 無論、くるみの母親を説得する話のことだ。一応天体観測ができる大きな公園は調べてあるが彼女の方はどうだろうか。昨日は会えなかったので様子が知りたい。


 が、とりあえず今は碧がどうこうできることではない。今は彼女からの吉報を待つしかできない。


 今は午前十時半、そして約束は日没後。彗星が最も太陽に近づき、綺麗に見れる時間帯だ。期間限定バイトの予定も今日はないし、もうちょっとだけ二度寝するかと横になり、うとうとと心地よい浮き雲のごとき微睡まどろみの狭間を彷徨い始めたところで、


 

 ——リリリリリ。



 どこか控えめにスマホが震え出し、眠りの柔らかな海から引き上げられた。


 碧は半ば寝ぼけたまま応答ボタンに触れて耳に押し当てる。


「Ja,Morgen. Luca? Lange nicht gesehen……って違う。くるみさんか。ごめんちょっと今寝てて——」


『なあに意味わからないこと言いながら都合のいい勘違いしてるのカナ? モーニングコールがつばめちゃんじゃご不満?』


「……あ? つばめさん?」


 電話の向こうから流れてきた声が思わぬものだったので、碧の眠気はびゅんとどっかに吹き飛んだ。たった今の失言から、碧をいじろうとする気配が伝わってきてとっても不穏である。


『そりゃあ電話で起こしてもらうなら好きな女の子からがいいよねえ! ええ、ええそうですとも! 碧がくるみんのことを深く深〜く愛してるのは周知の事実ですとも!』


「好きな女の子って。君ね……」


『なーに事実なんでしょ? いいかげん認めちゃいなよ楽になるぞ! そしてさっきの何語なの!? 碧がマルチリンガルだってのは湊斗から聞いてたけどさ』


「僕去年までずっと海外にいたから三ヶ国語喋れんの。ていうか言わなかったっけ? 湊斗もくるみさんもとっくの昔に知ってたのに」


『えええ嘘!? すごい!! ていうか碧がのらりくらりかわして言うてくれんっちゃけん知りようがなか……ってそうじゃなくて! ちょっと碧に聞きたいんだけどさ』


 つばめの声が忙しい博多弁から一転してどこか真面目なトーンになったので、碧も起き上がりつつ眠気の残滓を振り払って、ベッドに腰掛ける。


『碧もしかしてくるみんとなんかあった?』


「なんかって……何が?」


『じゃあ何も心当たりないわけ? 喧嘩とかもしてない? ……いやこの二人がする訳ないか、想像すらつかない』


「自己完結してるとこ悪いけど、なんの話?」


『うーん……いや、ね。さっき春休みの宿題で分からないところがあって、くるみんに電話してみたらさ、なんかいつもより元気がなくて……』


 嫌な予感を押し殺し、まるで刑の宣告を待つように、つばめの言葉を受け止めるために息を呑む。窓を連綿と叩く雨音がぱらぱらと、やけに不協和音に聞こえた。


『どうしたのって聞いても、何でもないってだけ。ただ碧の名前出したら、様子がちょっとね……だから詳しいことは聞かなかったよ』


 碧から聞いた方がいい、という文言が省略されているのだろう。


 だがそれを耳にした直後から、碧は連想するように、直近のとある光景を想起していた。


 桜並木を散歩した時、意図せずとも偶然見えてしまったくるみのスマホ画面。



〈この間の件 早いうちに話を進めてしまいましょう〉

〈お父さんもお母さんも くるみにはお兄ちゃんと同じ大学を出てほしいから〉



 恐らく母親からだろう。どういうやりとりをした末の返信かは分からないし、何てことないただの日常の会話かもしれない。だが、吹き出しに書かれていたメッセージを忘れることは——どうしてか出来なかった。


 一瞬忘我し、それから大きくかぶりを振る。


「……いや。ありがとうつばめさん。教えてくれて、助かったよ」


『いいえ。鎌倉の時に再認識したけど、くるみんって碧の前だとすごく嬉しそうなんだよね。……それって、学校より碧の前だともっといろんな表情を見せてるってことだと思う。だから、話を聞いてあげられるのはきっと、碧だけだよ』


 私には事情はよく分からないけどさ、とつばめは続ける。


『次にくるみんに会ったら、いつも通り優しくしてあげてほしいな』


『うん』


 ——そうだ。彼女はいつだって堂々と咲き誇っていた。


 細く折れそうに見えてもどんな嵐にも負けない、水晶の花。


 どころか、くるみは自分よりもずっと小柄で華奢な体で、前を向かせてくれた。


 彼女の存在が、孤独な自分の日本ここにいる理由となり、居場所となった。共にいる時間は温かくて優しい気持ちになって、何より尊いものだった。


 くるみがいるから、碧はここで息をしているのを許されている気になったのだ。


 だからもし、受ける必要のない不条理がくるみを苛んでいるとしたら——今度は、碧が彼女を守る番だ。


 友達思いな電話の声は、縋るように言う。


『ねえ碧。くるみんを……よろしくね』

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