第81話 桜舞い散るこの街で(2)


 その後もふたりはのんびり散歩を続け、小田急の駅の方に歩いたところで、視界を一色の淡く美しいこぼれ桜が彩った。


 感嘆の声が、重なる。


「わぁ……綺麗」


「すごいな。丁度今日が満開なんだ」


 碧は思わず一本の木に歩み寄り、眩しい日差しに目を細めつつ花を仰ぐ。


 遠き道の果てまで連綿と続く桜は、その枝に満開の花を咲かせ、綿あめのようにふんわりと丸い花房はなぶさが、優しい春風にそよそよと揺れる。


 一陣の風に乗ってはらはらと散っていく限りない花びらを何気なく目で追い、その先で佇む少女を視界に収めて……時が奪われた。


 桜吹雪の中で枝先を見上げるくるみの、なんと美しいこと。


 色素の薄い彼女の醸す繊細で儚げな雰囲気は、さぞ桜と相性がいいとは踏んでいたのだが……ここまで絵になる綺麗な光景が拝めるとは思っていなかった。


 花を透かして差し込む、ぼんやりと霞んだ春の木洩れ日。刻々とかたちを移ろわせ揺らぐ影、静かで穏やかな空気。そして桜の淡いいろ。全てがあわさってまるで絵画のようだ。


 桜を〈空に知られぬ雪〉と言うらしいが、それはきっと彼女の密かなもう一つのあだ名かもしれない。


 くるみの亜麻色の髪が風に柔らかくなびき、ふわりと踊るように逆巻さかまく。そこに降り積もるように、空の隙間からいくつかの淡い花弁が舞い落ちた。


「どうしたの?」


「……いや。桜の花が懐かしいなって」


 さすがの海外暮らしの碧も見惚れていたなんて素直には話せず、言い淀んで返す。

 如何にも楚々とした美少女のくるみであるが、妖精姫スノーホワイトなんてあだ名な一方どうやら雪だけじゃなく桜も同じくらい似合う、というのは新たな発見だ。


「海外ってあまり桜咲いてるイメージなかったけど、そうでもないの?」


「ドイツは結構咲いてるよ。『ベルリンの壁』の跡地に沢山」


「そうなんだ。日本だけじゃないのね。……やっぱり知らないことだらけだなぁ」


 ざぁ——と一陣の風が吹き遊び、視界を埋めるような花びらが枝を離れていく。舞い散る桜を吹雪に見立てるのは言い得て妙だ、昔の人の表現力は敬服に値する。


「こんなに見頃なら行きにお団子でも買ってくればよかったなあ。花より団子ってよく言うし」


 一通り愛でたところで冗談めかしつつ振り向くと、何故か桜じゃなくこちらを見ていたらしいくるみと、ぱちりと目が合った。


 透き通ったヘーゼルの瞳がたゆたう水鏡のように自分の姿を映す。動揺しているように見えたので尋ねるように首を傾げると、くるみは頬をほのかに上気させて居た堪れなさそうにぷいっと目を逸らした。


 最近のくるみはやたら、照れ屋さんなことが多い。事あるごとにいじらしい表情や一斤染を見せてくるので、碧としてはかなり気持ちに負荷がかかってよろしくない。


その淡いはにかみや紅潮に何度どきっとさせられたことか、数えれば枚挙にいとまがない。


 初めはあんなに隙がなくて人形然としていたのにな、と思うと感慨深くもあった。


「なんか、不思議だな」


「何が?」


「くるみさんとこうして並んで桜を見ているなんて、半年前からしたら考えられないことだからさ」


「それはきっと、碧くんがあの雪の日に上着を貸してくれたからでしょうね」


「そのお礼にくるみさんが料理しにきてくれたからだよ」


「碧くんが鯛焼きを奢ってくれたから」


「くるみさんがお弁当の差し入れをくれたから」


 終わらない応酬が何だかおかしくなって、二人して見つめ合ってくすりと笑う。


「……始まりの日から今日までずっと地続きなのね。何かが一つでも欠けていたら、きっと今も他人同士で、桜を見ることはなかったでしょうから」


「人間が誰かに優しくするのは、そういう奇跡のためかもしれないな」


「碧くんが見知らぬ人にも優しいのはそれが理由?」


「僕が見て見ぬ振りしたせいで本来ありえたはずの繋がりが消えたら勿体ないでしょ。誰かと仲よくなれたかもしれない、そんな可能性の芽を潰したくはないから」


「碧くんは本当に、誰よりも人間が大好きなのね」


「あれ、知らなかった?」


 ふありと舞い落ちてきた桜の花びらを広げた両手で大切そうに受け止めてから、くるみが返す。


「世界が碧くんみたいな人で溢れていたらいいのにね」


「……僕が?」


「優しさは連鎖する。誰かに優しくしてもらったら、次の日の自分もちょっとだけ優しくなれて誰かに親切にしたくなるでしょう? そうして優しくし合って、明日の世界が今日より少しでも優しい世界になるの」


「……優しさは、連鎖する。か」


 くるみの至言を復唱し、桜の枝の隙間に広がる澄み渡った青空を見上げる。


 もし本当にそうなら、碧が今まで人助けをしてきたことに意味があっただろうか。

 たとえ自分の夢を叶えるための予行演習だとしてもそれは素直に嬉しかったし、くるみに自分の行動が褒められたということも舞い上がってしまいそうで、同時に照れくさくもあった。


 湧いた気恥ずかしさをごまかすために、咄嗟に思い出した世間話を持ち出す。


「そういえば聞きましたか。今度、彗星が降るって」


「彗星……?」


「正確にはもう降ってるけど。湊斗が言ってた、人の眼でも見える大彗星、ちょうど数日後の土曜が一番の見頃らしいよ。天文学部の人たちなんかは望遠鏡を担いで堂平山どうだいらさんまで遠足に行くとか何とか」


「あ、それニュースで見た。数十年に一度のすごく明るい彗星ですってね。クラスのお友達も恋人同士で見に行くって言っていたし、前々から結構話題になっていたもの」


「天体観測ってどこかロマンチックだからね。……三日後に一番明るくなるんだけど、その日の関東は雲一つない晴天だって。どおりで天文学部がはしゃいでいた訳だ」


「そっか……いいわね、天体観測」


 叶わない市井しせいの夢を見る深窓の姫君のように、どことなく羨ましそうに零すくるみに、碧はごほんと咳払いを一回してから切り出してみる。


「その……もしよかったらだけど、一緒に見に行く? 彗星」


「え?」


「見たことないんでしょ? 中々ない絶好の機会だしどうかなって」


 碧は我ながらよい提案だと思ったが、くるみは喜ぶでも困惑するでもなく、呆気に取られたようにヘーゼルの瞳に碧の表情を映し込むだけだ。そこで碧はようやく己の過ちに気づく。


 なんしろついさっき、くるみの友人がデートで天体観測に……という話を聞いたばかりなのだ。


「あ……ごめん。深夜に二人きりはいくら僕らでもよくなかったですよね」


 東京の住宅街は彗星を観測するにはちょっとまばゆすぎる気がするので、おそらく明るい街から離れた野山の天文台に移動が必要となる。真っ暗な野外で夜中に男女二人きりというのはさすがによろしくないことは碧にも分かる。


 それをデートと呼んで差し支えないくらい親密な関係の人同士なら問題ないが、前提がそもそも違う。碧とくるみは恋仲ではないのだ。


 が、くるみは碧の心配事など一切気にしていないかの如く、遠慮がちに瞳を伏せながらも自分の希望を伝えた。


「う……ううん。今のはちょっとびっくりしただけだし、そういうの気にしないから。私も彗星……見てみたい」


「本当? じゃあ早速場所調べないと。確か夜の七時過ぎくらいが……あっ」


 碧はあることに気づいて唐突に言葉を切る。


 隣を見るとくるみも同じ考えに至ったようで、烟る睫毛をしゅんと伏せた。


「そっか。門限……破らなきゃいけないのよね」


 くるみの家は相当厳しい。


 しかしそれが存外厄介で、くるみが自由になれない最大の足枷となっている。


 父親は娘に優しいそうなので高校生として健全と言えることであればあまり目くじらは立てないようなのだが、それに反して母親がかなり厳しいのである。というのが、この半年間で何となく分かってきたことだ。そもそも母が在宅の場合の門限が十八時だなんて、高校生にしてはかなり早い方だろう。


「いくらぼくがいるとはいえ、ご両親を心配させるわけにはいかないからなぁ。いや、親御さんからしたら僕だってどこの馬の骨とも……」


 話が途切れたのは、きゅっと袖が掴まれたから。


 くるみの小さなゆびさきによって。


 整った相貌は長い睫毛と共に伏せられて悄然として、彼女は何も言っていないのに、まるでその手が碧に「連れて行って」と訴えかけているように思えた。


 きっと彼女にも今の処遇に思うところがあるのだろう。が、所詮は他人の家の事情なのだ。碧はそこに口を挟む権利もなければ立場にもない。


 だからこそ、ままならない。


 そんなくるみにちょっとでも息抜きをしてほしくて彗星の話を出したのだが、これだと却って落胆させてしまうことになりそうだ。


 行きたくても行けない場所の話を振るほど、残酷な話はないだろう。鳥籠の中の金糸雀カナリアに、空がどれだけ広いかを説法するようなものだ。


「まあ、確かに女の子をそんな遅い時間まで連れ出すのはよくないか。難しいなら今度代わりにプラネタリウムでもいいし……」


 なので碧はくるみの華奢な肩に手を置いてそう謝ったのだが、くるみは白いワンピースの裾をきゅっと握り、小さく頷いてから気丈に微笑む。


「……じゃあ言葉で星を見たい」


「?」


「碧くんからどんな夜空と彗星が見えるか、メッセージのやり取りで教えてもらうの。たまにはそんな天体観測があっても、いいと思う」


 言葉で、星を見る。


 それは彼女らしい詩的な言葉だが、素直にうんとは言えなかった。


 おそらく聞き分けのいいつもりでいる本人は気づいていないだろうが、諦めたくないという思いが隠しきれてないのは明白だ。今までは我慢し呑み込むことが多かったのだが、今回の天体観測はよほど捨て切れないらしい。


「やっぱり彗星、見たいんだよね?」


 尋ねると一瞬身構えた末、申し訳なさそうにこくりと頷く。


 それが彼女なりの、せいいっぱいのわがままに思えた。


 だが正直、厳しいとも思った。彼女の母親とは会ったことは一度もないが、これまでの娘への接し方を鑑みるに、かなり厳格な人なのは想像できる。けれどいつも控えめで自分の望みをなかなか言わないくるみからしたらかなり珍しい言動なだけに、碧も無理だとすぐに断じるのは憚られる。


「じゃあ……行くとしたらお母さんの目を盗んで、かな? もし見つかっても、僕ならくるみさんのお母さんとも仲良くなれる気がするしきっと大丈夫かもなあ」


「それは……駄目ったら駄目。碧くんに迷惑はかけたくないから、私がちゃんと説得する」


 思わぬ発言に、碧は舌をひるがえした。


「説得って、夜に外出すること? くるみさんのお母さん厳しそうだけど大丈夫?」


「……うん。絶対大丈夫、きっと許してもらえるはず」


 こう言われては、もう信じるしかできまい。


「……分かった。じゃあ土曜日の夜はうちに集合で、天体観測にちょうどいい場所に行こうか。色々調べておくから、親御さんの説得はくるみさんにお願いできる?」


 ぱぁっと花咲くようにくるみの雰囲気が明るくなるのを、碧は確かに見た。


「——はい、任されました」


 どことなく弾んだ様子で、トートから筆記具を取り出すくるみが微笑ましい。それは以前にも碧の家で熱心に何かを書き込んでいた分厚い手帳だった。開いたページには四月のカレンダーがある。


「ずいぶん分厚い予定帳だけど、いつも持ち歩いているの?」


「日記も兼ねているの。思ったことをすぐ書き留めておけるように」


「筆豆だなぁ」


 黒革の表紙を何となしにじーっと見つめていると、くるみが居心地悪そうに手帳を抱き抱えて一歩後ずさった。


「中身が気になるの?」


「いや……けどさすがに覗くわけにもいかないでしょ」


「碧くんにならいいのに。だって知りたいのでしょう? 私のこと。……どちらにせよ、いつかは話しておきたいこともあるから」


 前者の言葉には不覚にもどきっとしたが、後者はおそらく独り言にしておきたかったであろう響きがあったので、天体観測の話に戻すことにした。


 くるみは早速家族の許可を得るために連絡をしているようで、一瞬スマホの画面が見えてしまったのを、忘れるためにも。


「僕も当日に向けて、色々準備しておかなきゃ。晴天だって話だけど一応、春は天気がかわりやすいから雨が降らないようにてるてる坊主も用意しとかなきゃね。あとはお願い事も」


「彗星は流れ星とは別物だから、お願い事考えたところで無駄だと思うけど」


「あー、そうだっけ。けど同じ星ならどっちにしろ叶えてくれそうじゃないですか?」


 能天気な碧の発言にくるみはやんわり呆れの視線。


「彗星は期間中ずっと空に浮かんでいるから、三回唱えるのは誰だって出来ちゃうわよ。……けれどあながち間違いじゃないかも。彗星の通った軌道に地球が行き合わせるたとき、彗星がばらまいた星のかけらが降ってくるものが流星群だから」


「え、そうなの?」


「そうなの。流れ星はかつて、何千年も前に空を駆けた彗星の一部だったってこと」

 さらっと説明するあたり博識だ。


「その理論で言うと、流れ星より彗星にお願い事したほうが百倍くらいご利益ありそうじゃないですか」


「ふふ……それもそうかもしれないわね」


 くるみは手帳を映した瞳を優しく細めた。


「楽しみだね、天体観測」


 それからホルダーに刺さったペンを手に取ると、きゅぽんと蓋を取り、手の中の予定表にある三日後の土曜日に大きく花丸をつけた。

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