第84話 くるみの世界(3)


 時計の針だけがいたずらに時を刻む。


 碧は追うこともできず、家のソファで抜け殻のように途方に暮れていた。


 何度もリフレインするのは、さっきの一幕。


 名門同士の見合いとなれば赤の他人かつ一高校生ある碧が干渉できる限度を遥かに超えている。子供の喧嘩やいさかいから守るのとは訳が違う。


 そもそも血縁でも婚約者でもないのだ、どう考えたって親の目からすればただの同級生にすぎない碧は、彼女を拐って連れ去れる立場にはない。大人の世界に対し、少年と大人の狭間にいる碧が出来ることはないのだろう。


 ただ、


 だから何か一つでもいいから……自分を奮い立たせる一抹の勇気と、一欠片の手がかりが欲しい。


 彼女にあんな表情をさせるものの正体を。居なくなった彼女を探す鍵を。


 そう、決意しながら立ち上がった時。ことりと机から何かが落ちる。


 不思議に思いながら拾い上げると、


「これは……」


 桜の木の下で、くるみが彗星の約束を愛おしげに記していたスケジュール帳だった。


 さっき降られた雨の雫でページが歪んでしまっているが、もともと大切に扱われていたようで、黒革の表紙は年季が入りつつ綺麗なものだ。


 もしかしたら見合いの場所くらいは書いてあるかもしれない。


 勝手に見てはいけない、と自らの常識が訴えかけているも、気づけば碧は震える手で縋るようにそれを手に取っていた。


 栞紐を頼りに開かれたのは、しかしカレンダーなどではなかった。丁寧で繊細な文字が綺麗な列を淡々となして文章を綴っている。紙は色褪せ、古びたインクはやや掠れており、流れた時の多さを物語っているようだ。よもやと思ったがこれは——


「日記……?」


 予定だけじゃなく思いも綴っている、という言葉をいまさらながらに思い出した。

 それもここ最近のだけでなく、下手すれば何年も前から積み重ねられたものらしい。


 一行目に刻まれたのは、半年前のあの日。碧とくるみが初めて出会った日。

 東京では十数年ぶりに観測された、奇跡みたいな十一月の初雪の日のことだった。




〈十一月十八日

 京都で正餐会せいさんかいをした後、お見合い相手を紹介されました。

 お相手と離れで二人きりにされそうになったから、泊まりの荷物を置き去りにして、一人で新幹線に飛び乗りました。

 東京で雪が降ってくれてよかった。地図も羅針盤コンパス道標みちしるべも失くした迷子の私に、道に迷う口実をくれたような気がしたから。

 歩道橋で考え事をしていたら、同じ学校の男の子と出会いました。に動じず話しかけてくるなんて、ちょっとびっくり。告白みたいな台詞を言われて思わずすげなくしちゃったけど、あっさり帰ったからもしかしたら違うかもしれません。

 コートを返した時に、確かめてみようと思います〉




 にわかには信じられずとも、ここにあるのが真実だとどうしようもなく理解してしまった碧は、はっと鋭く息を吐いてそれきり黙りこくった。


 何せ、あの日彼女の言った〈探し物〉が何を指しているのか、数ヶ月越しに真実に至ったのだから。


 人生の道のみならず誰かに勝手に結婚相手まで決められて——人生の方角や意義みたいなものを、きっと見失っていたのだ。


 あの時こんな事情を抱えて……こんな心情でいたなんて。


 もう後戻りは出来なかった。我を忘れたまま、ページを次々とめくる。




〈十一月二十六日

 一人暮らしをしているあの男の子に、お礼としてお弁当を持っていくことにしました。

 料理しているのをお母様に見つかったら怒られちゃうだろうから、こっそり用意することにします。

 昔、上枝さんに教わっていっぱい練習した卵焼き。私は料理が得意だから上手に焼ける自信はあるし、前にお礼で焼いた時は喜んでもらえたけど、誰かに振る舞うことなんてあの人が初めてだったから、やっぱり少し緊張します。

 お弁当、押しつけがましくないかな。受け取ってくれるといいな〉




 『私が家族に料理をつくって、喜ばれるとも思わないし』——いつか図書館で彼女が言った言葉を思い出す。


 今なら分かる。くるみの親が彼女に求めているのは世に誇れる優秀な人になることであり、家政婦に任せている家事や料理では決してない、ということを。




〈十二月八日

 自由な校風で有名なこの高校に、中学の頃から憧れてました。

 みんな大人っぽくてお洒落で……“高校生”っていいなって思ってました。

 碧くんはそんな高校生のなかでもひときわ自由な人。だから貰った外国のコインを見ていると、私を遠くの国まで連れてってくれるようで、勇気が出てくる気がします。本当に叶えたいことを、ずっと前向きに追い続けられる気持ちになってきます。

 けれどやっぱり時々、もしもこのまま何もかわらず、ただ優秀なだけの大人になってしまったらどうしようと思う時があります。時々そんな自分を夢に見てしまうくらいには。

 十年後の私は、今の気持ちを忘れず、おぼえているのでしょうか〉




 苦しくなり、ふっと鋭く息が洩れていた。




〈十二月二十四日

 昔、冬は私にとって、真っ白なだけの季節でした。

 両親は毎日忙しくて、小さい頃からクリスマスの日も関係なく家を空けていて、ひとりでいることが多かったから。

 唯一の思い出は聖夜に、上枝さんが契約時間外に内緒で小さなケーキを焼いてくれたこと。どれほど嬉しかったか、あの時の気持ちはいつまでも忘れません。

 けれど今年、ふたつめの大切な思い出が出来たのです。行ってみたかった空港に初めて行って、雪だるまも転がせました。碧くんが私のためにプレゼントもくれました。

 私も碧くんに貰ったものをいっぱい返していきたいです。上枝さんが私にしてくれたみたいに、碧くんに温かい料理を振る舞って、幸せのお裾分けをしたいです。私も誰かを支えられる優しい人になりたいです〉




 涙が出そうだった。




〈三月三十一日

 碧くんと一緒に見に行った桜の樹の下で、彗星を見る約束をしました。

 街は夜空が明るいし、夜更かしは禁止されていたから見るのは初めて。ちょっとした大冒険みたいです。天体観測はずっとしてみたかったことの一つだから、すごくすごく楽しみ。碧くんといると『いつかやれたら』と思っていたことが、どんどん現実になっていきます。まるで魔法みたいです。

 けれど私が一番叶えたいのは、今の幸せがずっと続くこと。誰かに料理をおいしいって言ってもらえるのがこんなに嬉しいことなんて、少し前の私は知りませんでした。

 もしこれが流星群なら願い事のひとつでもかけられたのに、なんて言ったら彗星の罰が当たるでしょうか。けれど叶えてくれたらいいのに、と幾度も祈ってしまいます。

 どうか将来の私が、かわらず笑っていられますように〉




 日記に連なる整然とした丁寧な文字が震え滲み、歪み始めた。

 ぽた、とノートを叩く細やかな音が聞こえ、自分が泣いている事に初めて気がついた。


 八年ぶりの涙を止める術など知らないし、知りたくもなかった。


「なんでこんなに——」


 日記の中にいたのは、ひたむきに前だけを向いて歩き続ける一人の少女。


「どうしてこんなに真っ直ぐでいられるんだよ」


 これがくるみを取り巻く境遇、本当の想いなのだ。


 自分は彼女のことを、今まで何も分かっていなかったんじゃないかと思う。


 家柄や生まれを言い訳にしないで、等身大の女子高生としての夢を諦めなかった。そんな姿に強烈に焦がれた。眩さでどうにかなりそうだった。


「なんで——」


 もう、声は出なかった。


 残ったのは、今も何処かで嵐の最中にいる彼女をただ守りたい、一緒にいたい——そんな意志ひとつだけ。


 確かに当人にしか分かり得ない辛さを百%理解してあげられることは出来ないのかもしれない。けれど——理解しようとすることは出来るはずだろう、誰にだって。


 衝動に突き動かされるまま、街中を走り回ってでも彼女を探すため、玄関へ急ぐ。

 いや、きっと彼女はあの場所にいるはずだ。


 だから探すんじゃなく、また会いに行くんだ。



 解けそうなスニーカーの靴紐も、涙の滲む視界も気にせず、外へ飛び出した。

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