第45話 帰国の日(2)


 ——僕が見ている、この天を貫くようなスカイツリーを。

 彼女は今も、目にしているのだろうか。



 空港から自分の住む街へ向かう電車に揺られる最中、窓の外をぼんやりと眺めながら、碧はふとそんなことを思った。


 冬のわりに麗らかな真昼の日差しが、窓から清らかに差し込んでぽかぽかと暖かい。ドイツの方がやや寒さが厳しいからそう思えるだけなのかもしれないが。


「くるみさんのお料理、早くたべたいなあ……」


 誰に聞かせるでもなく、声にならない独り言を舌の上で転がす。


 彼女の手料理がない冬休みは、碧の人生の中でおそらく最も辛い二週間だった。


 もちろん他が駄目だと言うわけではないのだが、碧にとってはどうしてもくるみ手製の晩ごはんに勝るものはなかった。


 相手の体調や好みや気分にも気遣われ、そのうえ旬の食材や余った野菜などで即興で組み立てられた、暮らしに根ざしたくるみの手料理は体にいいだけじゃなく気持ちまでほっこりするし、明日へ背中を優しく押してくれるかんじがするのだ。彼女に料理を教えたという家政婦はさぞすごい人なのだろう。


 車窓をのんびり流れていくのは、東京の街並み。


 去年の春に日本に来た時は何もかもが懐かしくて、けど帰ってきたというよりは旅行に来たみたいな感覚がずっと抜けなかったけど、今なら『旅』から帰ってきたところなんだと言い切れる。


 冬の東京を染めるグレーの雑踏が、空気の匂いや行き交う人々の耳馴染んだ日本語が、そして旅先でくるみと時折交わしたメッセージが、そう教えてくれているようだった。


 今日はくるみが、碧の乗り換えの駅まで出迎えに来てくれることになっている。


 手間になるくらいなら別に休み明けに会うんだからその時でいいのに、と思ったのだが、他でもない彼女からの気遣いが嬉しくて言い出せなかった。


 碧も最近はくるみと一緒にいる時間が長くなっていたぶん、なんだかんだ彼女が隣にいない暮らしに寂しさを覚えていたので、早く会えるのも心細くなくていい。


 電車を降り、ICカードを押し当てて改札を抜ける。


 まるで競い合っているかのように天に伸びていく高い建物と、駅の方から折り重なるように聞こえる列車のアナウンスに首を竦め、白い息を吐く。


 街にはまだイルミネーションが残っていた。十二月と比べるとだいぶ少なくなったしクリスマスツリーもなくなっていたが、不在だった二週間の間にすっかり様変わりした街に置いてけぼりにされるなんてことはなくて、少しだけ安堵した。


 駅前に起立する時計台を見れば、時間も丁度いい頃合いだ。

 待ち合わせとなるところへ向かうべく、赤信号の道路の前に立つ。

 その時、コートのポケットに潜んだスマホが震えた。


〈碧くん発見〉


 取り出したスマホから視線を持ち上げると横断歩道の向かいで、清楚な白百合のように可憐な少女がひときわ眩く淡い色彩を真冬の陽光に輝かせていた。


 樫の木より明るく、蜂蜜よりは深いヘーゼルの瞳を僅かに細め、ふかふかのケーブル編みマフラーからちょこんと端正なかおをシマエナガみたいに覗かせて、小さな手をお上品に振っている。


 碧がそれよりも大きく手を振りかえすと、さすがにそれに応えるのは人目が憚られたようで、手を止めてスマホに何かを打ち込んだ。


〈碧くんは髪が伸びたね〉

〈くるみさんもちょっとだけ伸びた〉

〈君は背も大きくなった気がする〉

〈逆にくるみさんが小さくなった説は〉

〈そんなわけないでしょう〉

〈嘘だよ。その編み込み、可愛くて似合ってる〉


 行き交う車を挟んだ向こうで、くるみが口許をきゅっと結んで視線を下げたのを見て、碧は相好を崩した。


 二週間ぶりにくるみを見て改めて思う。こうして関わっているのが夢みたいに思える時があるよな、と。


 毎日一緒にいた十二月はすっかり慣れていたものの、冬休み丸ごと離れてみると目はリセットされるようで、彼女特有の美しく醸す空気にいとも容易く目を奪われてしまう。


 芸能人と遜色ないどころか比類なきほどの清楚な可愛らしさではあるが、そういう華美で目立つ世界と縁がないように見えるのは、彼女のまとう繊細で儚げな空気と世俗離れした荘厳さのせいだろう。


 都会に降り立った雪の妖精。そんな表現が彼女には一番似合う。


 信号が青になったようで、ひよこの鳴き声の音声案内と共に、佇んでいた雑踏が動き出す。それに押されるように碧も前に進み、道路の向こう岸で二週間ぶりの契約相手と再会を果たした。


 再会して早々、碧はくるみの手を取った。急なことでびっくりして身じろぎする彼女の小さな掌を広げさせ、そこにはるばるドイツから持ち帰ったとあるものをぽんと置く。


「お土産です」


 くるみは手渡されたそれをきょとんと見つめ、美しい榛色の瞳をぱちりと瞬かせ、


「雪だるま……?」


 見たものそのままを言葉に落とすので、碧は補足する。


「の、チョコレートです」


 それは薬瓶ほどの大きさの雪だるまを模したチョコだった。イラストが描かれた銀紙で包まれており、真っ白な三段重ねにはバケツの帽子やつぶらな瞳やブルーのマフラーや人参の鼻が、お行儀よく並んでいる。


 ドイツはチョコレート大国なので店には他にもいろんな可愛いチョコがあったのだが、妖精姫スノーホワイトと称される雪のような彼女にはよく似合うと思ったのだ。


 気に入っただろうか、と彼女の表情を見て——都会の喧騒がにわかに遠ざかった。


 くるみはすくい上げるような形にした両手にころんと収まる雪だるまを慈しむように、口許を綻ばせていた。


「可愛い」


「……気に入ってくれたならよかった」


 愛おしげに手の中のそれを見つめてほわっと瞳を細める。二週間ぶりに浴びるくるみの幻視の花は、控えめに言ってこの冬休みの穴が埋められてしまうくらいには癒されるし、声が出そうになるくらいには可愛らしい。雪だるまよりよっぽどだ。


「私が知ってる雪だるまは二段なんだけれど、ドイツは違うのね」


「確かに向こうじゃ三段が定番かも。そういえば鼻も人参だし」


「ふふ……高い鼻を表現しているのかもしれないわね」


 そこで碧は何かざわつきを覚え、ようやく我に返る。街角を見渡すと、すれ違う人々がみな押し並べて彼女に目を惹かれ、見惚れていることに気がついた。


 普段から人の目を奪うのが得意な彼女だが、土産に喜ぶ今のご機嫌なくるみはひたすらに透明でいつもより幼なげで——違った意味で人目を惹いているらしい。


「……」


 彼らに同意すると同時に、なんとなく面白くないとも思った。


 烏滸がましいことに、新しい世界を知る彼女の表情は自分だけが見れる特権のように思っていたから、だろうか。

 その気持ちの正体もわからず、戸惑いを抱えたまま。


 彼女の、沫雪あわゆきのように澄み渡った表情を他の人に見せたくなくて——咄嗟にくるみの手を掴み、大通りを外れた小径こみちに連れ込む。


 人気の少ない建物の裏でようやく足を止めると、くるみは困惑気味で碧を覗き込んだ。


「碧くん、どうしたの……?」


「いや、何でもないです」


 なるべく普段通りの穏やかさを取り繕って返事をする。心の引っかかりは取れなかったが、近くに誰もいないことに安堵のため息を吐いてしまう。白く染まってマフラーの隙間から逃げていく吐息を見送り、ひとつの思い当たる可能性が頭を掠めた。


 ——まさか、彼女を独り占めしたいからか?


 そこから導かれる己の心情を推量した瞬間、言いようもない自嘲の念が津波のように押し寄せそうな気がして、まるで堰き止めるように一歩手前で逡巡を取りやめた。


 くるみは尚も訳が分からなそうに首を傾げている。


 彼女にこんな曰く言い難い気持ちを伝えることなど出来るはずもないので、帰国する前からずっと言おうと思っていたことを代わりに告げた。


「くるみさん。海に、行こうか」


「……海」


「年末年始にハーバーの写真送った時、楽しそうって言ってたでしょ。あれは川だったけど。冬はさすがに寒いからもう少し季節が春に近づいたら連れていくよ」


「覚えててくれたの?」


「全部覚えてるよ、交わした会話は」


 碧が返すと、くるみは淡くはにかんだように瞳を細めた。


「じゃあ私、あれしたい。貝殻拾い」


「くるみさんがしたいことなら何だって付き合いますよ」


「……砂のお城づくりにも、付き合ってくれるの?」


「上に飾る旗を持っていかなきゃな」


「碧くんがくらげに刺されちゃったらどうしよう」


「まあ、長く生きてればそういうこともあるんじゃない」


「それは達観しすぎ」


「湊斗にも同じこと言われたなぁ」


 話しながらもすぐには電車に乗らず、ふたりは当て所なく歩いた。


 まっすぐ寄り道せず帰ってしまうのは、何となく家に一歩踏み入れば冬休みが終わってしまいそうで、あるいはとうとう長旅が終わりここから先は日常だと線引きされてしまうようで、名残惜しく思えたから。


 以前くるみが車に轢かれかけたことを思い出してさりげなく手を差し出すと、隣の少女の肩が小さく揺れ、ためらいがちに重ねられる。


 彼女の方からも小さくて細い指がこちらの手の甲にぎこちなくそっと回されたので、碧はすっぽり覆い隠せる大きさの己の掌で、包み込むように優しく握った。


 くるみはあまり体温が高くないらしくゆびさきは冷えている。そして以前握った時同様、やはり小さくてか弱い手だった。少しでも力を加えれば折れてしまいそうなほどに華奢で、このまま握ってもいいのか心配になってしまう。

 碧の手の体温が移ったのか。はにかんだように瞳を細め、こちらを見上げてくるみが言った。


「……手が温かい人は、心も温かいんですって」


「けどくるみさんの手はすげー冷たい。多分信用ならないよその話」


「いいの。冷たい手の方が、魚捌くときも挽肉を捏ねるときも鮮度が落ちないから、美味しいお料理がつくりやすいの」


「それはまた、すごく即物的な話だなぁ」


 ついでに彼女のもう片方の手に持つ何かの紙袋と鞄も、さりげなくするりと受け取ってから歩き出す。


 何か視線を向けられてる気がしたので隣を見ると、こちらを見上げるくるみの榛色とぱちりと目が合った。無言ですぐに逸らされる代わりに、向こうからきゅっと繋いだ手が握られ、碧はくすりと一笑。彼女の手を傷つけないように注意しながら、こちらからも僅かに力を込めて握り返しておく。

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