第2章 Snowmelt’s blossom

第44話 帰国の日(1)


 ——私の見ているこのまんまるなお日様を。

 遠くはなれた国で、いつか彼も目にするのかな。



 広げた分厚い日記に向かい合い、シャープペンシルを片手に窓の外をぼんやりと眺めながら、くるみはふとそんなことを思った。


 冬休みは今日を入れて残り二日だが、いつだって想いを馳せるのは碧のことだった。


 日が沈む時間も、見える星も、今刻んでいる時間すらも違うような遠くの国。

 ドイツよりも日本の方が八時間も進んでいるらしい。途方もない距離と時差の向こうで今、彼はくるみが過ごし終えた昨日にいる。くるみが目覚める頃、碧は眠りに就く。同じ時間に生きていないというのは、何となく切ない気がした。


「碧くん、今何しているのかな」


 そんなことを考えながら今日の出来事を、毎日欠かさず書き連ねている日記のページに綴っているうちに、いつの間にか視界の端っこに西日が差していた。


 空のアイスブルーに杏子あんず色がまざりあい刻々と移ろいながら、まるで十二月の面影のように温かなオレンジの光を、くるみの手許に落としていく。


 この優しい時間が、好きだった。


 彼には言っていないけれど——あの家のキッチンに立って晩ごはんの支度をするスローリィな夕暮れが、何より穏やかな時間なことに気づいていたから。


 机に飾ったキャンドルの金木犀の香りにほっとため息を吐き、机の上にあるスマホの通知が光ったので手に取ると、丁度碧からの連絡だった。


〈明日の午後に日本に到着します〉


 お迎えに行くね、と返事をしてから、そのまま上にスクロールして時を遡る。


 離れていても、碧はくるみの希望を叶えるためにいろいろ考えてくれていた。

 八時間分遠くても、まるでその距離をかんじさせないように。

 彼と送り合ったメッセージで、どれほどいろんなことを知れただろうか。


 たとえば、写真と共にこんな連絡が届いた。


〈到着しました。長時間フライトしたのに時差のせいでこっちはまだイヴの夜です。駅前でクリスマスマーケットを開催してました。右の建物がベルリン大聖堂〉


〈屋台で売ってるのは伝統工芸とか飲み物。試しにホットワイン買ってみたらシナモン風味で美味しかった。ちなみに合法だから怒らないでください〉


〈朝ごはんはシュトーレンでその後は近所の散歩をしてきました。ドイツの食料店はこんなかんじでベルトコンベアでお会計します。向こうにあるショーケースは野菜とかの量り売り。そこにあるkakiってやつは柿。日本語そのまんま〉


 既読の足跡をつけるたび、くるみは送られた写真をこっそり保存する。


 知らない世界を知れる幸せもそうだけれど、長年ドイツで暮らした彼にとっては当たり前のはずの光景を、自分のためだけに探索してなぞって送ってくれたという事実が何より嬉しくて——どうしようもなく温かかった。


 新年のまっさらなフォルダに見知らぬ国の風景がどんどん溜まっていくのが楽しかった。自分の世界が鮮やかに塗り変わっていくのが嬉しかった。


 そして何より、離れていても彼と文字でお話できることが、すごく——


「! そんなの……違う、のに」


 とてもよろしくない事を考えてしまった気がして、頬が熱を抱いたのをごまかすように慌ててかぶりを振る。


 ここ最近になってなぜか、隙あれば彼のことを何度も考えてしまう。あの人のことを考えれば、雪のようにふわふわして真っ白な気持ちが、くるみの世界の片隅に降り積もり続ける。


 広い視野を持つ碧に抱いた感情には「憧れ」という名前をつけた筈なのに。


 けれど。まるでこれは、そう、まるで——


「……だめ。違うこと考えなくちゃ」


 自分に言い聞かせるように椅子に座り直したところで、自室の扉がノックされた。


「失礼します、お嬢様」


「は……はい、どうぞ」


 咄嗟に返事した声が若干上擦っていて、くるみはけふんと咳払いをする。

 聞き馴染んだ声と共に現れたのは、お手伝いさんの上枝かみえだだ。


 この家に仕え始めて十数年。物心つく前から世話になっており、くるみのことを自分の娘のように見守り大切にしてくれていた。いつでも味方でいてくれる彼女は、同じ苗字を持つ親戚よりも信頼を寄せ慕う、数少ない人物である。


 上枝はこちらを見て一瞬目を丸くするや、すぐに恭しく腰を折った。


「旦那様は本日お早いお帰りになるそうですので、夕食のお時間は普段通りとなります。今より準備いたしますので」


「分かりました。わざわざ知らせてくださりありがとうございます、上枝さん」


 丁寧に礼を述べると、上枝はゆるりと首を振った後、言いづらそうに眉を下げる。


「とんでもないです、これも仕事ですから。あの……お嬢様。差し出がましいようですが、頬が少々赤いようです。体調の方を崩されたりなどは?」


「!!」


 慌てて両掌で隠すものの、長年面倒を見てくれている彼女をごまかせるはずもない。


「ゆ、夕陽のせいではないでしょうか……っ」


「そうですね、今日は天気がよろしゅうございましたから。ところで最近、旦那様方の帰りが遅い日にお嬢様も食事を外で済まされることが多いみたいですが……何か内緒にしていることがございますのでしょうか?」


「な……ないです! 何でもないのですっ。あれはただ……」


 突然のことで言い訳も思いつかずしどろもどろになるくるみに、上枝はゆるく微笑む。


「あら、ふふ。そうですか。では旦那様方には何か訊かれましても、私めからはお嬢様は真面目に学業に励んでおられるとお伝えしておきますね。それと……もしお嬢様さえよろしければ、またいつでもお料理をお教えいたしますので」


「か、上枝さん……」


 果たしてどこまで勘づいた上で気を回しているのかが知れず恐ろしいが、それ以上に彼女の細やかな気配りがくるみにはありがたかった。彼女がいなければ、自分が今どういう風に育っていたかさえ、想像がつかない。


 上枝はお辞儀と共に出て行った。くるみは力を抜くと共に、碧が不在の間連れ出すことにしたウサギのぬいぐるみを抱きしめ、ぽてんとベッドに転がった。


 帰国の日は明日だ。時差と移動時間を計算すると、きっと間もなくすれば空港から空の上に飛び立つのだろう。

 細めた瞳に差し込む眩い西陽が、窓の外を横切った翼の影で一瞬さえぎられる。


 蜜柑を凍らせたシャーベットみたいな空に黒い染みとなって消えていくあの自由奔放な鳥がなぜだか、今も遠くにいるだろう碧と重なって見えた。


 年内に叶えてあげられなかった彼の好物をまた用意してあげよう。上枝さんにもまたお料理を教わろう。そんな小さなわくわくする計画を立てながら、くるみは彼の影を探すように、窓の外に広がる大きな空に目を向けた。


 ——碧くん、早く帰ってこないかな。

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