第43話 Kiss And Fly(2)


 マンションに戻ると、碧が大きなキャリーケースを引いて自室から出てきた。


 くるみはリビングを振り返って思う。


 ——この家にもいろんな物がふえてきたな。


 初めは、何もない空っぽの空き瓶みたいな家だった。空き部屋は埃が積もったダンボールが並んでいるし、玄関の靴箱はがらがら。人の気配も、暮らしの跡もなかった。


 けれど今はもう、そうじゃない。碧がきちんと家で過ごすようになって、くるみが晩ごはんを一緒するようになって、この家はちょっとずつ居心地がよくなっていった。


 キッチンの隅っこには組み木でできたスツール。煮込みなどの料理の合間に休めるようにと碧が置いてくれたものだ。


 戸棚には、藤を編んだバスケット。くるみの私物を入れていいことになっている。日替わりのエプロンや料理本に勉強のための問題集、好きな文庫本やお気に入りのひざ掛けに、身だしなみのためのシュシュや鏡が仕舞われている。


 ロッキングチェアにはお気に入りのウサギのぬいぐるみ。家に置いてていいよと言ってくれたからそこが定位置になった。碧の目を盗んではよく抱きしめている。


 洗いかごには二人分の食器。くるみのマグカップとカトラリーセットがご主人の次の来訪を待つように、午後の日差しのなかで静かに光っている。


 空き瓶に好きなものを詰めていくみたいに、自分の世界を好きなものであふれさせていくみたいに。ふと振り返ればこの部屋には、そこかしこにふたりの足跡が残っている。


 ——ここにいていいんだって……そう思える。


 始まりの雪の日はもう、振り返れない。


 ずいぶんと遠くへ来てしまった、と思う。


「あ、頼まれてた本も持って行かなきゃだった」


 ふと隣を見ると、当日までに使った身の回りの品をキャリーに詰めている碧がいる。


 いつの間にか一緒にいることが当たり前になっている温かい人。自分と違っていろんなものを見てきた、同い年の男の子。


 教科書や辞書に載っていることならくるみの方が博識だけど、自分の目で見なくちゃいけないものは彼の方がずっとずっと詳しい。


 けれどくるみの気持ちだけは、きっと彼でも知らないのだと思う。


 くるみが碧と出会って、どれほど知らないことの多さに気づいたか。


 知らないことを少しずつ探して見つけていくのが、彼に教えてもらうのが、どれほど楽しかったか。


 碧と一緒にいる時間に、言葉にはせずとも、どんなにはしゃいでしまったか。


 ——きっと、知らないのでしょうね。


 温かな気持ちを呑み込んで、くるみは碧に出発前の確認をする。


「飛行機のチケットとパスポートはちゃんと持った? 私が再三確認したから、ちゃんと鞄に入っているはずだけれど」


「さっき入ってるのチェックしたからそれは大丈夫」


「確認した時に出しちゃったなんてのは洒落にならないからやめておいてね」


「一回やらかしたことあるんですよねそれ……。スマホの充電器だったからまだ事件にならずに済んだけど。それ以来は気をつけてるよ」


「碧くんって食いしん坊さんな上にうっかりやさんなのね」


「食いしん坊は余計」


 軽口の応酬の末、しっかりと最後の確認を済ませてから、玄関を出て鍵をかける。


 二人で家を出て戸締りをすると、まるで一緒に旅行に行くみたいで、なんだかそわそわ落ち着かない。


「じゃあ、行こっか」


 のんびりとした調子で言う彼の声が、余計にそうさせた。


 エレベーターを待っているあいだに廊下から覗ける外に目をすべらせると、白んだ

青空に浮かぶ雲と雲の間を飛行機がちかちか点滅しながら、定規で引いたみたいにまっすぐな飛行機雲を描いている。


 いつか自分も飛行機に乗って外国に行く日が来るのだろうか。


 あるとすればきっとそれはある日突然なんかじゃなくて、遠い遠い旅路の果てに待っているものなのだろうけど——その時、隣の席に座っているのが大切な人だといいな、と思った。


「……碧くん」


「なんですか?」


「ううん、何でもない。今日は冷え込むし、空港に着いたら何か温かいもの買う?」


「賛成。国際線の二階に確か美味しいパニーニの店があったはず。半分こしよっか」


「……うん!」


 エントランスを出ると、冬本番の身を切るような寒さがひゅるると吹き遊び、ふたりのマフラーの裾をたなびかせる。彼の差し伸べてくれた手をくるみはためらいがちに優しく握った。彼の大きな手で包み込まれれば、悴みすらも飛んでいくような気持ちになれた。


 今から遠い国に旅立つ人が、自分の隣を歩いている。


 それは何だか不思議な気分で、ただお迎えをしに歩いている気がしない。


 白く染まった息が、後ろにながれていく。それを目で追うと、さっきまでふたりでいた七階の通路が目に入った。


 ——さよなら。また二週間後にね。


 昼空に溶け込むマンションを振り向いて、心の中でそっと、別れを告げた。


                *


 父親のいるドイツへ帰りたくないなと思ったのは、これが初めてだった。


 高校入学に合わせて帰国してからというもの、慣れない上に知り合いも一切いない日本があまりに心細くて、夢を辿る道中で寄り道なんかしていたくなくて。早く夏休みにならないかななんて、三ヶ月以上先のカレンダーを今か今かと待ち侘びていた。


 入学式に悪目立ちしたこともあり友人をふやすのには苦労させられたが、幸運なことによく絡む友達は何人か出来た。


 それでもやっぱり九年間を過ごした向こうのことが忘れられなくて。〈高校時代をここで暮らしていく〉という覚悟なんてないまま、地に足をつけず、破り捨てられた日記の一ページみたいに怠惰に日々を無駄遣いしてきた。


 ここでの暮らしに、向き合おうとしていなかった。


 それが、雪の日に現れたくるみによって彩られていった。


 空っぽだった部屋は、温かな暮らしの足跡で満たされていった。


 あの小さなマンションの一室で過ごすなかに見出せる幸せを、彼女に教えてもらった。世界そとばかりじゃなく日本なかにもそこかしこに楽しいことが転がっていることを、くるみに教えてもらった。


 ——初めて、日本に帰ってきてよかったと思えた。


 空港に着いた後はチェックインを済ませ、滑走路をのろのろ動く飛行機やコンベアで運ばれている荷物をきらきらした表情で物珍しそうに見送ったくるみを連れて、いろんなお土産屋さんを見て回った。


 ショップの棚に並んだぬいぐるみを輝く瞳で眺める彼女に、碧もまた相好を崩す。


 空の玄関口となるここは空気が違う。と、来るたびに思う。


 日本であって半分外国のような、そんな空気。他と切り離された時間の流れがあるようにどこか独特な雰囲気で、それはきっと今から旅に立つ人々の浮き足だった足取りや見送る人の寂寥から生まれているんだと思う。


 ここには数えきれないほどの物語がある。だから空港は好きだ。


 イートインで温かいスープとパニーニを半分こして小腹を満たした頃、時間になったので手荷物検査の前までやってきた。


 こういう時に何を言えばいいかの気の利いた答えを持ち合わせておらず、出てきたのはいつもみたいなありきたりな言葉だった。


「向こうで撮った写真たくさん送るよ。じゃあまた来年。よいお年を」


「うん。よいお年を」


 それから右手を挙げる。決して遠くないであろう、いつかの予行練習をするように。


 国際線特有の、各国への搭乗案内や呼び出しのアナウンスが高い天井へ響く。ヒールを鳴らして荷物を引いたキャビンアテンダントたちが慌ただしく行き交っていく。


 名残惜しそうな空白の中で数秒ほど向かい合い、ゲートに向かおうとしたところで、


「待って、碧くん」


 鈴の音のような声で呼び止められる。


 その静謐な空気を壊さないようにそっと振り向くと、くるみは淡く目尻を下げて、十二月の空気みたいに透明に澄み渡った声で言った。


「……ありがとう、私のことを見つけてくれて」


 脈絡のない言葉だが、今ここでその意味を問うなど、野暮なことはしたくなかった。


 だからその代わりに、いつも子供扱いしてくる同い年の彼女にこの場を借りて、ちょっとしたからかいの仕返しをしておく。


 きびすを返してくるみに歩み寄ってから、その柔らかな髪にぽふんと右手を乗せておもむろに近寄り、耳許みみもとで——


「Du bist lieblich」


 そう言ってからゆっくり離れると、不思議そうに小首を傾げるくるみの姿が目に焼きついた。眼差しでその意味を問われたので、笑みを押し殺してこう言う。


「内緒」


 以前に教えたことがある。くるみの記憶力であれば、憶えているだろう。


 きょとんとしているくるみがどうにも可愛くてつい堪えきれず笑うと、くるみは自分がからかわれ遊ばれたことが分かったらしく、そしてその意味するところにも辿りついたらしく——頬を赤くしながら照れ隠しにぽこぽこと叩いてきた。


 雪がとけてしまっても最後まで残っている、この優しい気持ちをそのままキャリーに詰め込んで、遠くまで連れて行きたかった。

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