第42話 Kiss And Fly(1)



 ひんやりと温かく、それでいてりんと涼やかに奏でられる空を見つけた。

 小さな箱庭を一歩とび出して、ふわふわと舞い散る自由を知った。

 そして私の世界が、移ろうきざしを見せた。

 真っ白で透明だった一面の景色が、あなたと出会って彩られていった。


 たとえばそれは、アイスブルーの空の下で頬ばる鯛焼き。

 たとえばそれは、夕焼け色に染まった空気でぴょんと跳ねるローファー。

 たとえばそれは、山吹色に穏やかな火を灯す、金木犀のキャンドル。


 何気ない小さな幸せが、宝物のように大切に思えた。

 今年はそんな、冬でした。


                *


 終業式翌日の冬休み初日であり、クリスマス・イヴであり、出国予定でもある日。


 西東京は前の晩にたくさん雪が降ってくれたので、空港に行く前に『ホーム・アローン』を観てから雪遊びをすることになった。


 正直いつもしているとはいえクリスマスに二人で映画なんてお家デートめいてるというか、妙な空気になるんじゃないかと危ぶんでいたが、そんなことはなく彼女はいつも通り冬みたいに涼しげな表情でやってきた。DVD再生直後の予告で出てきたホラーシーンで、多分自覚はないのだろうが涙目で二の腕に抱きつかれた時は、ちょっと——いや相当可愛いなと思ったけど。毛布に包まりながら二人でソファに並んで映画を見て、お昼は余った食材を使い切るためにくるみが腕を振るって。本当にいつも通りの休日だった。


 だから、くるみがいつもより上機嫌っぽいのは考えないことにした。



「積もったなあ」


 駅近くの広々とした公園を眺め、浮き立った声を洩らす。


 心配なのは空港まで向かう電車の運行状況なのだが、降ったのが前の晩だからか今はなんとか走っているようで一安心した。


 ちなみにくるみは何やらひとりで身だしなみの準備をしたいから先に行ってと言うので、碧の家のサニタリーを貸し出し、一人で駅前の公園にやってきていた。


 今までは気にすることのなかったページェントの煌めきはおそらく今日が一番のピークを迎えており、ふわふわと舞い落ちる雪と数多の光、そして冬特有の澄み渡ったトワイライトの白藍しらあいと淡い鴇色ときいろの移ろいが、絵本のなかみたいな幻想めいた風景を生み出している。


 まだおやつの時間にもなっていないのに日が傾いているあたり、フライトの時間にはおそらく地上はもう真っ暗で、くるみの帰り道がちょっと心配だ。


 ベンチに座り、白い息を洩らしながら枯れ木に巻きつくイルミネーションを見上げていると、さくさくと新雪を踏みしめる足音が聞こえた。


「碧くん」


 どこかから、いつもの鈴のような声で名前を呼ばれて、何の気なしに顔を上げる。


 目の前に立つのは、マフラー姿の雪のような少女。


「先に行っててって言ったの、こういうことだったんだ」


 空港という日常からかけ離れた場所に行くことを意識してか、腰下まで垂らしているまっすぐで柔らかな髪は、編み込みハーフアップにされていた。


 後ろで華やぐ、光沢のあるダークチェリーのリボンが淡い栗毛に映えて、大人可愛いという表現がぴったりな落ち着いた気品を醸し出している。


 雪景色に佇む彼女があまりに現実離れしていたので、碧も惚けてしまったらしい。


「……なんかスノーホワイトって言われるの分かる気がする」


 まじまじ見据えて言い終えた後で、あっこれ怒られるやつだ、と覚悟をしたが、しかしくるみは何故かくすくすと上品に喉を鳴らし笑い出した。


「ちゃんと鏡よ鏡、って訊いたの?」


「僕が悪いお妃の前提なの笑う」


「だってあなた、王子様って柄じゃないでしょう」


 もともと刺々しいことを言う人だが今のは彼女なりの冗談だと分かるあたり、一緒に過ごした時間を思い知らされる。たかが二ヶ月足らずだが、ふとした瞬間にくるみのことを考えてしまうくらいには離れがたくなっている。


 碧がベンチの上に積もった雪をかき集め、くるみの座れる場所を用意した。


 集めた雪を丸めて重ね小さな雪だるまにすると、隣に座ったくるみは「あら可愛い」と静かに相合を崩す。


「くるみさんって、本当よく笑うようになったよね」


「碧くんだって、最近は敬語を使わないことが多いじゃない」


「……それは気のせいでいらっしゃいますよお嬢様」


「わざとらしく戻すのは照れ隠しだと思っておいていい?」


「なんでそこはかとなく嬉しそうなんですか」


 なぜかくるみが優しく目尻を下げるので、碧もばつが悪くなる。


「別に。ただ、君が言葉をごまかすのってあまりないと思うから。ちょっと珍しいなって思っただけ」


「……男の照れ隠しなんか暴いてなにが楽しいんだか」


 碧が呟くと、くるみはどこか浮かれたように、くすりと淡く笑った。


 ただでさえ可憐で美しい少女が、自分と一緒にいて笑みを浮かべる。


 そんな姿があまりに愛くるしいものだから、碧はついぼーっとその端正な白い横顔に見惚れてしまっていた。

 眺めているうちに、鼻梁を描く曲線のなめらかさだとか下睫毛のながさに思わずはっとさせられ、遅まきながら今の距離の近さを自覚する。


 くるみは決して、親しくない人に近寄ろうとはしない。知り合って間もない頃だって、碧が不用意に近づいてかちこちにさせてしまったことはあれど、彼女の方からぐいぐい近寄ってきたことは一度もなかった。


 近づいたこの距離に、きっとまだ名前はない。


 けれど、彼女が笑ってくれればなんだっていいと思えた。


「前も言ったけれど、やっぱり笑っていた方がいいよ、ずっと」


「そう、かしら……」


「今のほうが前よりずっと年相応で可愛いと思う」


 言い終えてからくるみの雪のような白磁の頬にさっと紅が差すのを見て、またやってしまったと後悔する。


「……ごめん、今のは口説いているみたいだったね」


「まあ……いくらおべんちゃらって分かっていても、さすがの私もびっくりする」


「おべんちゃらじゃないんだけど」


 さすがに嘘にはしたくなかったので、冗談のかけらも潜ませない真面目な表情でくるみに向き合うと、くるみのヘーゼルの瞳がきゅうっと細まった。紅潮はどんどん深まり、氷が溶けゆくようにじんわりと、雪が舞い散る速度くらいにゆっくりと色づかせていく。


「碧くんの……ばか」


 最後にいじらしく零された呟きが、碧の胸をぎゅうっと締めつけた。


 目の前にいるのは孤高の崖の上で凛々しく咲き誇る高嶺の花でも、気高くとうと妖精姫スノーホワイトなんかでもなくて。


 楪くるみという名前の、ひとりの女の子。


 ——僕が、この人を見つけた。


 ——あの歩道橋の上で、見つけたんだ。


 不思議な感慨深さと目の前の少女を子供のように愛で可愛がりたい気持ちとで板挟みになっていると、くるみは堪えかねたようにウールのミトンをはめた両手で拳をこしらえてぽこぽこと叩いてきた。


 くすぐったさすら覚えるにわかな猛攻に思わず笑うと、くるみは一斤染いっこんぞめにしたかんばせをぷいと逸らす。


「なに?」


「なんでもない」


「……なんでもあるから叩いてきたのでは?」


「なんでもないったらなんでもないの!」


 学校での理知的な彼女からはおよそ想像できない子供っぽい駄々を一捏ねしてから、くるみはベンチの横にある新雪をひとすくいすると、おにぎりをこしらえるようにきゅっきゅと軽く握ってから、えいっと碧に投げつけてきた。


 肩に当たったそれはぱしゅっと音を立てて呆気なく崩れ落ちる。


「うわーいたいなー」


「ふふっ……いやだ、棒読みじゃない」


「棒読みじゃなくてほんとです。あーもう、いたかったから反撃しなくちゃなあ」


 掌で鈴を転がすようにころころとあどけなく笑うくるみに、碧も応戦する。生垣に近いところの足跡のないところから雪玉を握って優しく投げると、くるみはきゃあと小さく楽しそうに悲鳴をあげ、逃げ出そうとしたその小さな背中にぱしょっと命中した。


 追いかけられる白うさぎのようないとけない姿があんまり可愛くて、碧は息が正しくできなくなるような、たとえようのない苦しさを覚えた。


 ずっとこうしていられたらいいのに。

 時間なんか、止まってしまえばいいのに。


 ——ああ……帰りたくないな。


「人に雪を投げるなんて、碧くんはとっても悪い子」


「そっちが先にやってきたんでしょ」


「妖精はもともといたずら好きって相場が決まっているのよ」


「前は嫌がってたくせに。その呼び方けっこう気に入っていたりする?」


「もう、あなたがからかって何度も呼んでくるからでしょう」


「拗ねるのが面白くてつい。……っいやごめんなさいって、投げる力を強くしないで」

 そうして碧たちはひとしきり、雪を投げ合って遊んだ。


 十年前を取り戻すように、空っぽだったアルバムをひたすら埋めていくように。


 ミトン越しにゆびさきを悴ませる氷雪の冷たさですら、ひどく愛おしいものに思えた。

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