第41話 「あなたさえ」(3)
碧は、くるみを庇うようにして前に出る。
声をかけた瞬間、彼女は驚いて惚けたようにこちらを見た。
まるで白昼夢でも見ているような、そんな表情。
くるみは、碧はもう帰宅していると思っているはずなのだ。まあそうなるよなと思いながら、くるみを掴んでいる男の手を碧が振り払う。
「彼女の手、離してくれる?」
と同時に手首をそのまま捻りあげれば、男子生徒は驚きからぽかんと呆気に取られ、されるがままに腕を引かれた。
あんまりやりすぎるのもよくないのでこれくらいに留めたが、気持ちとしてはまだまだ憤りが収まらずにいる。彼女を傷つけることだけは、たとえ相手が誰であろうと許したくはない。
一瞬生まれたその隙に、奴の手から逃れたくるみがすばやく身を翻して碧の後ろに隠れ、ブレザーの裾をきゅっと握る。華奢な体から震えが伝わってきて、よほど怖かったことが分かり、気づかないうちに右手に力が入ってしまったらしい。相手の目許が険しくなったので、碧は僅かに力を緩める。
その隙を見て男子生徒がばっと掴まれた手を振り解き、たじろぎつつ叫んだ。
「なっ何する——」
「今ここで言い合いになるのは最悪手だと思うけど」
あくまで穏やかな碧の言葉に、相手は険を削がれたように尻込む。どうやら自分のしてしまったことを振り返り、後悔しているようだ。
くるみも怯えを宥めすかしたようで、碧の後ろから一歩前に出て毅然と断じた。
「私のお返事はさっき申し上げたとおりです。誰と交友を持つか、そして誰と仲良くなりたいかは私が自分で決めます。なのでこれ以上お話しすることはありません」
いつもと同様に温和に、けれども誰がどう見てもにべもなく断ち切ったくるみにもうどうしようもなくなってしまったことを悟ったようで、男子生徒は苦しまぎれに矛先を碧に向ける。
「っ……! ていうかお前、あの嫌われ者の秋矢碧じゃ——」
しかし吐いた恨み言に男子生徒が動じずに視線を逸らさないことから、尻切れとんぼに言葉を途切れさせる。狼狽を大きくした男子生徒はじりじりと退くと、結局逃げるように階段を駆け降りていった。
ようやく静けさの戻った踊り場で、碧は安堵のため息を吐く。
「手、怪我ない? 腕は大丈夫?」
くるみの落としたスマホを拾い上げて手渡してから、彼女の弱々しく下げられた左手を、壊れ物を扱うように、自らの両手でそっと包み込む。
驚くほど華奢で雪の結晶のように繊細な指に、己のそれよりもふた回りも小さな掌。
この手でいつも周りからの頼まれごとや厄介ごとを全部引き受けて、料理や裁縫や芸事も努力して身につけて、毎日何時間も勉強をがんばって、くるみ自身を学年一の才女の座まで押し上げて——しかし男に抗うには力が足りない、か弱い女の子の手。
けれど碧は、この指一つから生まれるくるみの愛おしい仕草に、どうしようもなく惹かれている。きゅっと碧の裾を握るそのゆびさきに、めっと碧を叱咤するそのゆびさきに、拗ねた時にぽこぽこと叩いてくるその手に——どうしようもなく、惹かれている。
「手、冷えてるけれど……平気?」
ブランケットのように優しく響くよう祈りながら声をかけ、ひんやりとした手を静かに、けれどもしっかりと包む。
くるみはうつむいたまま返事をしない。垂れた前髪から見えるのは、柔らかな影のように伏せられた長い睫毛のみ。
ただ、淡い栗毛の隙間から覗く耳が紅潮していて、何らかの大きな感情の奔流にいることだけは分かった。
もしかして怒っているのか、と思い、力なく言い訳を並べる。
「ごめんなさい。突然出てきちゃって。くるみさんは一人でなんとかしたい人なのは分かってたし、本当は様子を見にくるつもりなんかなかったんだけど。……この間の話も引っかかったし、人気のない第二校舎に行くのを見かけたから」
するとくるみが、遠くから聞こえる放課後の喧騒にかき消されそうなほど小さい、蝶の羽ばたきのような声を落とす。
「……じゃない」
言葉で聞き返す代わりに、細い手に僅かにきゅっと力を込めると、ようやくくるみがその可憐な面差しを持ち上げた。
空降る雪のように透き通った、しかし確かに何かに温かく彩られた、そんな面持ちをまっすぐ碧に向ける。
淡い、それでいていつものように儚いだけじゃない笑みに、心がざわついた。
「そうじゃない、怒ってなんかないの。私は……嬉しかった。あなたが私を助けてくれたことが、すごく嬉しかった。……ありがとう」
それからもう一度、
「……助けてくれて、ありがとう」
と言った。
心の疼きが、ざわめきが大きくなる。
その正体も分からぬまま。碧は予め用意しておいた言葉をぎこちなく連ねる。
「だって約束したでしょ。サインしたら必ず助けるって」
「碧くんはどうして、私のことを助けようとするの?」
それは、碧がくるみと学校で初めて会話した時に交わしたのと同じ問いかけ。
あの時の碧の回答。それは理由なんかない、たとえ他の知り合いであっても同じことをしていた——だった。あの時はそれでよかったし、揺るがぬ真実ですらあった。
けれど今は違う。
あるのは義理でも返報でもなく、想いによる後押し。
雪の結晶のように小さな、ひとつの想い。
だからこう言い切った。
「——そんなの決まってるでしょ。くるみさんと仲良くなりたいからだよ」
向こう正面切って、大真面目に。
目の前の少女が息を呑むのが、まざまざと伝わってくる。
誰にも頼らない彼女の生き方を美しいと思った。
けどそれと同時に、放っておけない、頼ってほしいとも思った。
それが独りよがりな祈りだって構わない。
「……ふふ」
ささやかで清楚な笑い声が聞こえた気がして、碧は改めてくるみを見る。
初めは驚いた風だったくるみが、今は相好を崩してくすぐったそうに笑っていた。
「……仲良くなっても、いいの?」
「くるみさんがいいなら僕は仲良くなりたいよ」
「そんなこと言われたのも、生まれて初めて。仲良く……うん。——仲良く、なりたい」
自分の中で言葉をゆっくりなぞるように繰り返したくるみに温かい気持ちが湧き上がったが、しかし碧はどうしても訊いておきたい事があり、ためらいながらも問いを落とす。
「今訊くのはずるいかもしれないけど……さっきあの人が言っていたこと、気にしないの? 僕が嫌われ者だって話」
「……昔、何かあったの?」
「別に何かしたってわけじゃないんだけど、入学式の時にちょっとね」
あれは今年の春に起きた些細な出来事だった。
碧の声のトーンが少し下がったことに、くるみが心配そうに見上げてくる。
「僕は大丈夫。ただくるみさんがどう思うかは……」
じーっと上目遣いで睨まれていることに気づき、碧は言葉を切った。くるみは珍しく不服そうに、じとっと文句を零す。
「私がうわさで人を判断している人間と思われていたのなら、すごく心外だわ」
「ごめん、そういうわけじゃないんだ。けどそれを知ってもいいことなんて——」
「けれど少なからず私はあなたの
即座に断言するくるみはあまりに、眩しかった。
「……私も碧くんのこと、少しずつでも知っていきたいのに」
「秋矢碧、高校一年生。六歳のとき親の仕事の都合でドイツに移住して、去年帰ってきた三ヶ国語話者。寄るべない一人暮らしで退屈していたところに、隣のクラスにいる料理が得意な女の子が現れてお世話をしてくれるようになった幸せ者」
「……それはもう全部知ってます」
幸せ者だっていうのは初耳だけど、と少しはにかんだように呟くくるみに、碧は淡く笑った。
「別に隠そうとしたわけじゃない。聞かれなかったから話さなかっただけだよ。大した話でもないし」
「じゃあ、今聞いてもいい? 何があったのかを、あなたが話してもいいと言うなら」
「……入学式の日、僕は遅れて学校に行ったんだ。駅の前を通った時に、同じ制服の新入生っぽい人が外国人に道を尋ねられていて。困ってそうだったから僕が代わりに引き受けたのが原因だった。急いでたし、その生徒がどんな人だったかはもう覚えてないけど」
くるみは黙って続きをうながす。
「その人たちを乗り換えのホームまで連れてって、学校についた時には幸い入学式が始まる前ではあったんだけど、もう教室での自己紹介が終わった後だった。僕は教室に入るなり、名前と将来の夢だけ言って席につけと教師に言われて。だからそのとおり名乗った後に、将来の夢は世界平和だって言ってやったんだ」
あの時のことは今思い出しても笑える。
ただひとつだけ言えることは、碧は冗談でも戯れでもなく心の底から本気でそう言った、ということだ。
「けど後で聞いたところによると、僕より前に名乗った他のみんなはかなり真面目な自己紹介だったらしくてさ。将来は国語の教師になるとか、警察になるとか。……本当にただそれだけのことなんだけど、クラスの何人かからは空気の読めないやつって烙印を押されてしまった」
入学直後に下手なこと言って浮いた人間に、自分から進んで絡もうとする人はいなかった。それが日本の流行に疎く、会話に困る相手なら尚更だ。
「まあそれはきっかけにすぎないけど。その後も日本に慣れていないのが仇をなして、なんだかんだ浮いてしまって。帰国子女だって言う機会を逃したから、結局のところ境遇も含めて分かってくれているのは今も、湊斗とくるみさんくらいしかいないんです」
海外は良識に則りさえすれば、好きに自分の意見を言える空気がある。出る杭が打たれることはないし、自由が重んじられ、個性が尊重される。
けれど日本にはまだそれがない。それが大人になる前の未熟な十代なら、とりわけ。
空気を読んで、周りに合わせないといけない。
早めに弁解すれば、なんとでもなったのだろう。でも碧は高校生活が始まってしばらくした後もそれをしようとしなかった。我が道を行くと言えば、聞こえはいいけど。
奔放な性格が災いし、どう思われようが構わないと割り切って、広まるうわさも野放しにした。
だってどうせこの高校に通うのは、たった三年きりなのだ。
自分は狭い日本じゃなく遠くの海外ばかりに目を向けている。
もう関わることのない人たちなのだから、卒業までそのままでいいと思っていた。
ある意味でそういうところは自業自得だし、周りに見透かされていたのかもしれない。
「なんて。言ったでしょ、大した話じゃないって——」
「あなたは嫌われてなんかない」
投げやりな締めくくりを遮り、思っていたより強い語気で言い返されて、改めて碧はくるみを見つめた。
彼女はなぜか、少し怒ったように碧を見据えていた。棘をまとっていた頃よりずっと気が強そうに、けれど心優しさが透ける声ではっきり言う。
「さっき言ったばかりでしょう、誰と交友を持つか、そして誰と仲良くなりたいかは私が自分で決めるって。あなたがふざけてそんな夢を言ったわけじゃないってことくらい、少なくない時間一緒に過ごした私にはわかる。それに……」
「それに?」
気圧されつつ聞き返すと、くるみは怒りの気配を引っ込めてから、
「影踏み勝負を自分から負けに行くお茶目な人が、誰かに嫌われるはずないでしょう?」
そう言って嫣然と美しく一笑する。
自分のためにあえて冗談にしてくれたんだな、というのはすぐ分かった。
「だから誰に何を言われようと、あなたには自分を肯定していて欲しい。それが無理なら、代わりに私があなたのことを認めて、同調するから。たとえば碧くんは紳士だし気遣い上手だし優しいし、私のことも、その、ちゃんと見て褒めてくれる……し、たまにすごく格好いい……し」
慣れない賛辞を述べているうちに羞恥を覚え始めたらしい。なら言わなきゃいいのに、とは思ったけど言葉にはしなかった。
碧は、彼女の心優しさに返せるものなんか持っていない。だからせめて、この小さな掌を労われたら、と思う。自分がそんな立場にないことくらい承知の上だが、さっきの不届き者に乱暴されそうになったことの上書きくらいは、出来るだろう。
なんて気持ちで、改めて彼女の指をそっと自分の手で包み込む。そのまま指を絡ませると、華奢な肩がびくりと動いた。
「……ここ学校なんだけれど」
「知ってる」
「私たちの関係はあくまで秘密なのに」
「けど僕は握りたい」
「……」
「ごめん嘘。見られるわけにいかないしね」
そう言って解こうとする指は、しかしくるみの方からきゅっと確かに握られ、逃すことを許さない。
「今はふたりきりだから、いいの」
「そっか」
「碧くんは優しいから、そういうことにしておいてくれてるのよね」
「僕がしたいだけなんだけどな」
「ばか。……ありがとう」
碧が何か言うよりも先にくるみのちょっと拗ねたような、僅かに甘えるような声が耳朶を掠めた。そしてふたりは、角を曲がるまで、掌を重ね続けた。
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