第39話 「あなたさえ」(1)
二人で交わす言葉はアイスクリームに似ている。
本当に伝えたいと温かな想いと祈りを込めた言葉ほど、送り手の熱に浮かされたように届く前にとろけてしまう。甘くてもほろ苦くても、相手が受け取らなければ意味はない。
初めての出会いに残した無自覚な「また」が、細やかな糸になって縁を結ぶように。
ただ優しくしたいだけの「隣にいさせて」が、告白と捉え違えられてしまうように。
「助けたい」という言葉に託した想いが、しかし真っ直ぐ伝わってくれないように。
本当の望みを頑なに言葉にしないことで、相手が何も汲み取ることができないように。
選んだ言葉がいつだって正しく届いてくれるなんて限らない。拗れて、捩れて、歪曲して。やるせなさともどかしさだけを残して。
けれどもし——もし二人の、互いを
もっと上手くできるかもしれない。
もっと通じ合えるかもしれない。
だから本音を伝えたいという気持ちがある今。
きっとこれはすれ違いの物語なんかじゃなくて。
——正真正銘の、歩み寄りの物語だ。
*
間もなく来たる冬休み。
碧の予定は、年末年始丸ごとドイツの父親のところに行くことになっていた。
夏も渡航したし航空券も馬鹿にならない値段なのでやめておこうかと思ったのだが、向こうにいる友人であるルカとも約束済みだし、二ヶ月も前からすでに往復の席の予約もしてしまっていたので、冬休み開始早々に日本を立つことを決めたのだ。
いつもの約束を終えた帰り道、くるみを家の方角に送る道すがらにそのことを話すと、くるみは淡々と頷いた。
「私も父の実家が京都だから、年末年始はそっちに行くと思う。じゃあ、来年に会えるのは冬休みの終わり頃ね」
「へー。京都か。どおりで……」
「どおりで刺々しくていじわるだとか言うつもりなんでしょ」
じとっと睨め上げてくる棘を不思議に思い、すとんと本音。
「いや、どおりで美人だなって」
「ふぇ」
虚を衝かれたらしいくるみから実に間抜けな声が洩れるが、碧は気にせず続ける。
「京美人って言いますよね。くるみさんって清楚だし目は大きいし肌とかすごく白いし、言われてみれば納得——ってなにこれ」
「も、もういい!」
止めさせるようにぺちぺち肩を叩いてきた。
「僕はもっと言っても構わないけど」
「碧くんがよくても私が構うの!!」
こほんと咳払いしてから赤くなったくるみが目を細める。
「……い、言っておくけど。父の実家が京都にあるだけで、私は東京生まれの東京育ちだからね?」
「けど毎年京都に行けるとか、僕からしたら旅行みたいで羨ましいな。二週間もくるみさんの料理が食べれないのはつらいけど……」
「ドイツにもおいしいものは沢山あるでしょう? シュニッツェルとか」
「あるはあるけど、正直日本ほど味に拘りのない国と言いますか……」
東京はどこを歩いても和洋中とりどりのごはん屋さんが軒を連ねているが、ドイツはそうでもない。全員がそうとは言わないが国民柄あまり美食に拘りがないのかもしれない。食堂に入っても、ヴルストとビールがメニューの半分を占めるくらいだ。
「けどだからこそくるみさんの料理に感銘を受けて、こういう関係になったんだけどね」
「それって初めから私のごはん目当てだったってこと?」
「いやっそういうわけじゃないけど、今までそういうのに縁がなかったから。……くるみさんの卵焼きのおかげで、僕の世界が広がったんだよ」
「私は……別に、何もしてないのに」
「そんなことない。今まで貯めたお小遣いでいろんなところに行ってきたけど、日本に来て一番良かったのは……誰かが
返事がなかったので隣の少女を見やると、くすりとはにかんだように、小さく淡い笑みを浮かべていた。
「じゃあ……日本を立つ前はあなたの好物をつくってあげなくちゃね」
「好物かぁ。卵焼き以外だとこの間のくるみさんお手製ビーフシチューかなあ。あれは本当においしかった。思い出しただけで幸せになれる」
「ふふ……前々日から赤ワインに香味野菜と漬け込んで、じっくりことこと煮込んだからね。でも長く家を空ける前は、時間かかるものは用意できないしあまり材料も買い込めないから、次のビーフシチューは碧くんが帰国したら。それとあの、できれば……なんだけれど」
おずおずと碧の様子を見つつうかがうようにあることを申し出た。
「よかったら私もお見送り、行ってもいい? 空港って行ったことないからどういうところなのか見てみたくて」
即座にいいよと言おうとして、十二月のカレンダーが脳裏を掠め、すんでのところで口を噤んだ。
返答に迷い、碧は目を泳がせる。
「それはいいんだけど、その……」
「——あの、ぜんぜん嫌なら大丈夫だから」
煮え切らない返事だったからか、くるみはやや慌てたように悄然と瞳を伏せたので、碧もまた焦って首を振る。
彼女の申し出は嬉しいのだが、即答できない理由があるのだ。
「もともと一人で行く予定だったし僕はいいんだけど。ただ……その出発の日、クリスマス・イブなんだけれど、くるみさんは……大丈夫?」
くるみが沈黙し、ぴたりと歩みを止めた。
さすがに碧も気まずかったし、その表情をうかがうのも怖かった。ドイツではクリスマスは家族と過ごすのが定番だが恋人同士で過ごす人ももちろんいるので、聖夜に男女で共にいるということに対して意識してしまうのは否めない。
日本では恋人の日という印象がより顕著なので、少なからず向こうも同じだろう。
「その……僕はぜんぜん気にしないし、くるみさんがよければ一緒に空港に行こう、か」
つっかえながらでそれだけ言うと、くるみも何やらいろいろ思案していたようで。亜麻色の髪から覗く耳がほんのり紅色なのは碧の気のせいじゃないだろう。
やがて、意を決したように頷いた。
「私も予定は特にいれていないし、お見送り……行く。行きます」
「分かった。ちなみにくるみさん学校でいろんな人にクリスマスデートに誘われてた気がするけれど……そこは大丈夫なの?」
学校一人気のくるみは当然交際の申し出が絶えないことは知っているつもりだったのだが——余計なことを言ってしまったな、と思ってしまったのは今のが図星だったらしく彼女が戸惑いをあらわにぎこちなく口許を結んだからだ。
「うん。ちゃんと全部断ってはいるの。たまに……その、しつこい人がいるくらい」
「それはまた……穏やかじゃない話ですね」
彼女の口ぶりからして、何度無理だと言っても聞く耳を持たない人がいるということか。お淑やかで一見すると控えめなくるみ相手なら、押せばなんとかなるとでも思っているのかもしれない。うちに秘めた凛々しさやしなやかな強さすら知らないのに告白など、なんともけったいな話である。
「何か力になれることはある?」
「これは私の問題だし、あなたに迷惑をかけるつもりはないわ」
「そっか」
ただ何度も目の当たりにしてきたとおり、彼女は碧に頼ろうと言葉にしない。
今も、また。追い払ってほしいとも、守ってほしいとも言わない。
その気高さと表裏一体の脆さと危うさに、せいぜい友人でしかない碧がどこまで踏み込んでよいのか。
これが出会ってすぐの頃ならきっとなにも聞かなかったふりをしていた。それこそが他者への線引きであり礼儀であり優しさだから。
けれど今は違う。叶うなら彼女の力になりたいと思っている。——くるみが本当に、願うのであれば。
が、くるみは先ほど浮かべた困惑を隠し、健気にそっと笑みを湛えた。
「とにかく私なら大丈夫。空港、どんなところか楽しみにしているわね」
まるで人の一生など我々の瞬きにすぎないとでも言いたげに夜空に悠然と輝く星々が、くるみの華奢な姿を幻のように浮かび上がらせる。
本当に何事もないといいな、と祈りながら碧は頷いた。
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