第38話 真冬に咲く金木犀(3)

 空になったらしく彼女のカップでからんと氷が鳴ったので、さてと切り替えるように、碧はくるみに意見を委ねる。時間のおかげでざわつくような空気がなりを潜めたのは僥倖だった。


「で、これだっていうもの見つかった?」


 彼女も彼女でいつもの調子を取り戻したらしく、おとがいに指をあてて答えてくれた。


「やっぱり茶葉かな……あとは最後に見たバスソルトとか。女の子は誰から貰うにしても消え物は喜ぶから、それさえ選んでおけば間違いないはずだし」


「間違いがないだけじゃ駄目なんですよね。正解を選ばなくちゃいけないんだ」


 たとえばそうだな、と碧はくるみを注意深く見つめながらおもむろに続ける。


「お花系のアイテムとか、女の子が好きだと思うんですよね。……くるみさんはどう?」


「いいとは思うけれど……私は別に、そういうの……」


 彼女のぎこちない回答を聞いて碧は確信をした。

 やっぱりこういう迂遠なやり方を取って正解だった、と。


 トレーの紙くずをまとめながら碧は席を立った。


「買うもの、決まりました」


「え……そんな急に?」


「これ捨ててくるから、もう少し休憩したらさっきのお店に戻りましょう」


 果たして宣言通り、コーヒーショップを出たあと、碧はくるみを連れてもといたフロアに戻りセレクトショップの商品棚の間を縫っていく。


 碧が手に取ったものを見て、くるみが曰く言い難い表情を浮かべた。


「……どうしてそれを」


「くるみさんが欲しそうにしてたから」


 碧が手に取ったのは、小さなボタニカルキャンドルだった。


 真っ白な蝋のなかには小さく儚げな金木犀の花びらが舞うように散りばめられており、甘く懐かしい芳香が、今年見た秋の雨上がりの公園を強く思い出させた。


 ドイツでは金木犀はぜんぜん見かけないので、碧にとっては日本特有の風物詩という印象だ。どこかノスタルジックな小さい花たちが蝋燭のなかに咲き誇っているのは男の碧の目から見ても可愛らしく、見ているだけでほっこりする。


「えっと、あの、だからどうして……」


 まだ分かっていないくるみがあたふたと混乱しているのをよそに、キャッシャーに持っていき会計を済ませ、綺麗に包装紙で包んで貰う。それから碧は店を出て、噴水のある広場に出たところで……後ろをとことこついてきたくるみに手渡した。


 紙袋を押しつけられたくるみは不意を突かれ、目を白黒させている。


「ちょっと早いかもしれないけど、僕からのクリスマスプレゼント。日頃のお礼とか込み込みで。受け取ってください」


 ぽかんという表現がぴったりなほどにくるみは、普段の怜悧さもどこかへ飛んでいっているようだった。虚を衝かれてこちらを見上げ、どうして、と小さく問いを落とす。


 ぬいぐるみで喜ぶ姿のとおりくるみは可愛いものが好きだ。だがそれを甘いもの同様あまり表に出そうとしない。今回のは友達に選ぶという体だから余計自分の好みを隠そうとしていたのだろう。


 さっき、棚に並んだ金木犀のキャンドルを一瞬だけじっと見つめて……碧が声かけるとすぐに、逸らしていたから。


「もしかしてずっと初めから、私宛ての贈り物を選ぶために……?」


「そうだよ。途中で気づかれる可能性もあったけど、そうならなくてよかった」


「じゃあ……どうして隠していたの?」


「だってそういう体にしないと絶対遠慮する人がいるじゃないですか、ここに」


「じゃあじゃあっ! さっき言ってたことももしかして……」


 よく出来た宿題の答え合わせを求めるように、くるみがこちらを潤む瞳で見上げてくる。どうやら不発弾の存在に気づいたらしい。いや、気づかれた時点でもう不発などではなく立派なただの爆弾なのだが……。


 やがて碧が頷くまでもなく、くるみのなかでピースは繋がったようだ。


 理解する様を体現するように、少しずつ少しずつ、時間をかけてくるみは頬を赤く締め上げていく。紅潮という言葉はどうやら潮が満ちていくように紅くなるからなんだな、と碧は日本語にまた一歩詳しくなった。


「もしかしてキャンドルあんまり嬉しくなかった?」


 今聞くのは意地悪だな、と自覚しつつ訊いてみる。


「ぅ……れしい、です」


「なぜ敬語」


 くるみはショップバッグを抱きしめながら、ほとびた視線を彷徨わせる。


「だって、その、こんなの初めてだったから……なんて言えばいいのか……」


「あまり贈り物しあったりしないの? 僕と同じだ」


「……今までも誕生日にプレゼントしあうほど仲のいい子は居なかったし、家族からの贈り物も、こういうのじゃなかったから。でも——」


 寂寥に瞳を揺らすくるみだが、すぐに上目遣いで碧を見上げ、


「——またあなたに、初めてを貰っちゃった」


 空虚を塗り替えるような、希望の光を宿した淡い笑み。


 何故か苦しくなり、咄嗟に冗談が口を衝いて出た。


「学校で貢物して玉砕してく男子みたいに、受取拒否されなくてよかったなあ」


「もう。……受け取るのはあなたが相手だから、なのに」


 か細く紡がれたのはあまりに健気な言葉。自分だけ特別だ、と暗に示すそのくすぐったい響きに、何故か心が疼き、ざわついた。


 思えば彼女は他人からの好意を受け取らない人間だった。碧からのささやかなプレゼントは受け取るようになったのは、信頼の表れということだろうか。だとすれば痺れるほどに嬉しく……辛くなるほどに満たされる。


 彼女はただの同級生だというのに。


 少女の見せる淡い喜びをぼんやり見詰めていると、くるみは何かに気づいたようにはっとし、何故か警戒するような口調でなんの脈絡のない問いが投げかけられた。


「……金木犀の花言葉がなにか、碧くんは知ってる?」


「逆に知ってるとお思いで?」


 碧が笑いながら返すと、くるみは拗ねたようにつんとそっぽを向いた。


「そういうつれない返し方をする君には、三つ葉の花言葉を贈呈します」


「いやだから、花言葉で会話されても分からないからね?」


「……知らないなら、いいの」


 くるみは警戒の気配を霧散させ、ほっと安堵したように息を吐く。

 花言葉にこだわるなんて女の子らしいところもあるんだな、と思いながらその花がどんなメッセージを持つのか訊こうとしたところで、くるみがショップバッグに愛おしげな眼差しを落としながら、沫雪あわゆきみたいな声で優しく呟いた。


「……ありがとう。碧くん」


 目に焼きつくようなそのはにかみを見て、どきりとする。

 碧は自分でも無自覚のうちに右手を掲げながら——


「喜んでもらえたならよかった。僕、くるみさんが喜ぶの見るのが嬉しいみたいだから」


 そう返した瞬間、くるみが仰け反る勢いで絹糸の髪をふあっと踊らせ、弾かれたようにこちらを見た。

 その瞳はなにかの大きな動揺に彩られていて。

 狼狽したようにショップバッグを抱きしめたままさっと鋭くうつむき、なぜかブーツを鳴らして小走りになってすぐそこの柱の影に隠れてしまう。


 どうしたんだ、と追いかけようとしたところで、


「ちょっとだけ待って」


 熱を孕んだ、切実な声が柱の陰からよろよろと立ち昇ってきた。


「大丈夫?」


「……十秒だけ、待って」


「分かった」


 挙動不審を訝りながらもそう答えつつ、彼女も寄りかかっているだろう柱の反対に碧も倣って体を預けたところで先ほど持ち上げかけた右腕に気づく。


 また危ないところだった、と自嘲の息を吐いて、碧は左手で己の右手を強く抑えた。


 少しでも気を抜けば——あんなに可愛らしい笑みを見せてくれた彼女の、細く綺麗な髪を撫でてしまいそうだったから。


 いくら帰国子女で、日本での距離感が掴めていないと理解されているとはいえ、許されることと許されないことはある。彼女には、嫌われたくない……誰にどう思われようが気にしない碧でもそう思えるようになっていた。


 そうしてしっかり十秒、あるいはもっとたくさん秒針が時を刻んだ頃。碧くん、とか細く呼ぶ声が柱の裏から回ってきた。


「ん?」


「……なんでもない。もう……大丈夫。家も近いし、帰りは一緒に帰るの?」


 柱からぴょこっと可憐な面差しを覗かせたくるみは、まだちょっと動揺とはにかみの残滓を宿したまま上目遣いで見上げてくる。


 なんとなくさっきの話はここまでという空気になったので、碧もどこかむず痒く、けれど愛おしくて優しい気持ちのまま頷いた。

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