第27話 ひみつのサイン(3)

「うぐっ……」


 確かに、碧はくるみを受け止めた。

 受け止めた、のだが。


「きゃあっ!」


 可愛らしい悲鳴が聞こえる最中、鈍い衝撃が襲う。近くの木々に止まっていた小鳥たちが、驚いて一斉に羽ばたいていった。


 やはり、子供でもない相手を涼しい顔して受け止めるのは無理があったらしい。重力をともなって落下してきた彼女に巻き込まれる形で、碧は思い切り後ろにすっ転んで尻餅をついた。


 幸いなのは、そこが目算通り柔らかな土の上だったことか。


「いってて……」


 あちこち痛いが、打撲というほどでもなさそうだ。くるみの背中に回した腕を解き、なんとか上体を起こしてぎゅっと瞑った目蓋を開ける。と、ふわりと濃密な茉莉花ジャスミンとみずみずしい白桃のような甘い香りが鼻を掠めるのと同時に、碧の体にもたれかかりながら不安げにこちらを見上げるくるみが目に入った。


「だ、大丈夫……?」


 かなり珍しく、へにゃりと眉を下げては目一杯の心配の面持ちをあらわにしたくるみ。だが碧は、色々な意味で大丈夫ではなかった。


 自らにしなだれかかるくるみは、普段はあまり意識していないものの飛び抜けた極上の美少女で、普段であれば一線を引いて離れたところから眺めてきた忘れ鼻が、カトレアのつぼみのように可憐で幼気いたいけな唇が、どこまでも透き通った榛色の瞳が、かつてない近さで目の前にあるのだ。


 美しい亜麻色の絹束がはらはらと散らばり、碧のブレザーの上で街灯に煌めいている。折れてしまわないか心配になってしまうほど彼女の体は細く華奢で、自分が受け止めてよかったと心底思った。その一方で、うれわしげな上目遣いに、自らにかかるひたすら柔らかな重み。


 彼女自体は羽根のように軽いのだが体重をかけられている以上、やはり人ひとりの重さというものをほどよく、それでいてまざまざと感じる。


 いくら互いにそういう感情を持たない間柄とはいえ、ここまでくっついていると取り乱してしまいそうになる。


「僕は、大丈夫……です」


 頬に熱が集っているのを気取られないようにしたくも、目が離せない。きゅっと握りしめられた両の拳が碧の鎖骨あたりにそえられており、女の子の手ってこんなに小さいんだななんて場違いなことを考えていると、くるみが何か言いたそうに碧の瞳を見つめ返した。


「あの、助けてくれて……ありがとう」


 ようやく碧も我に返る。幸い、彼女は碧の動揺に気づいてはいないようだった。心配の面持ちで碧の様子をうかがう彼女の肩を優しく押して、さりげなく離してから立ち上がり、手を差し伸べた。


「怪我ないですか?」


「大丈夫。あなたも本当に平気? 痛むところはない?」


「骨が折れたって言ったら看病してくれる?」


「えっ……嘘、どこか痛む? ごめんなさい私のせいで……」


 くるみは慌てて、碧の全身をぺたぺたと優しくなでるように確認し始めた。その仕草すら今の碧には問題大有りだ。


「ほんとやめてください冗談ですから」


 この後に及んで下手なことを言ったせいか不服そうに目を眇めたが、助けてもらった恩と立場があるからか、いつものようなつららの如き鋭さはなかった。眉尻を下げて、ため息まじりに言う。


「けど、なんでこういう無茶を……」


「くるみさんが怪我するよりましでしょ。それに、無茶はこっちの台詞だと思うけど」


「あ、あなただって人のこと言えないでしょう」


「もとはと言えば、くるみさんが木登りなんかするからじゃないですか?」


 これにはくるみも言い返せないようで、ぐぬ……と居た堪れなさそうに目を逸らした。


 だがもちろん碧も、彼女がただ遊びたいだけで木に登ったなんて考えてはいないので、きちんと理由を聞く所存である。


「で、なんで木なんかに登ったんですか? ほんとに探偵ごっこしたかった訳でもないんでしょ」


 するとくるみは長い睫毛を伏せて影を落としながら、ためらいがちにけやきの木の上を指差す。


「……鳥のひなが木の下に落ちていたから、お家に戻してあげただけ」


 見上げると、彼女が先ほどまで座っていた大枝の一つ上に小さな鳥の巣があり、耳をすませるとそこからはぴぃぴぃとひなの鳴き声が小さくさんざめいていた。


 なるほどな、と納得しつつ、鳥の巣から彼女にもう一度視線を戻す。が、くるみのヘーゼルの瞳はしゅんと伏せられており、視線が合うことはない。迷惑をかけた、とでも思っているのだろう。


「ほんと、どっちがお人好しなんだか。あのですね、困ったことがあればちゃんと周りに助けを求めてください。公園の前だって何人か通ったでしょ? 誰かに声かければもっと早く降りれたはずですよ」


「……それだけは、嫌」


 真夜中の森のように静かに、けれど確かにはっきりとくるみは断じた。


「甘えるだなんて、そんな子供っぽいことしません。それをするくらいなら、一人でなんとかして降りる」


 芯が通っていると言えば聞こえはいいが、今の状況のそれは要するにただの頑固だ。


「僕が相手でも、頼るのは嫌?」


「…………」


 くるみは黙するが、碧はめげずに問いかけ続ける。


「僕はもう何度かくるみさんのこと助けちゃってますけど大丈夫なんですか?」


「あなたは……知らない人じゃないし、契約相手だから、その……」


「じゃあ僕になら助けを呼べるってことですよね」


 尻すぼみに消えた言葉をむりやりにそう解釈し、碧はひとつくるみに指示を下した。


「くるみさん、左手をきゅっと軽く握って」


「え? 何よ急に」


「いいから」


 困惑しながらも、言われたとおりにするくるみ。碧は続けて指示をする。


「で、それを左の頬にそえて」


 出来上がったのは、片手を右の頬に困ったようにあてがうという愛くるしい仕草をしたくるみだった。素材が美人なだけあって、やや幼なげな身構えでも、いっそ嫌になるほどに似合ってしまっている。


「……これが、何なの?」


 不可解な眼差しを向けてくるくるみに、碧は得意げに言い放った。


「声を上げるのが恥ずかしいならほら、こうしたら助けての合図ってことにしておきましょうか。困ったちゃんポーズ」


 するとくるみは、頬に寄せた右手を雷光の如くすばやく下ろしまなじりを吊り上げ、真っ白な頬をさっと紅潮させた。


「ば、ばかにしてるっ!」


「うーん、確かにこれはちょっと人前でやるには恥ずかしいか。じゃあこっそり右耳に髪をかけるのを合図にする? そしたら僕が助けに行くから」


「碧くん、ふざけているの?」


「僕は至って大真面目ですよ」


 しばらくは怒りと羞恥にぷるぷると震えていたが、言葉どおり穏やかながら真剣さながらの碧に、くるみも険が削がれたようだった。


「……なによそれ。第一、あなたが近くにいなければ意味がないじゃない」


「確かにそれもそうかもですね」


 呑気に笑う碧に、しかしくるみは棘を刺してくることはなく、気持ちを宥めすかしてからこぼした。


「……合図なんか、あってもしません、絶対」


 いつもより温度の下がった瞳。どこまでも孤高を貫こうとする危うい姫君に、碧は閉口し、小さく息を洩らす。


 碧は彼女の完璧さと表裏一体の危うさを、見て見ぬ振りすることができなかった。それが独りよがりな綺麗事だとか、烏滸がましい身勝手だって笑われてもいい。


 彼女が本当に、誰かに頼りたいと思っているのであれば——自分がその手を、取ってやりたい。


 自分が、守ってやりたい。


 何故なら碧こそが、自分こそが、日本で誰にも頼ることの出来ない孤独ななかにいるときに——お礼の晩ごはんと卵焼きで助けてくれたのが、他でもないくるみだったから。


 まだ向こうでやりたいことがあったのに、親に言われるがまま帰国した日本。人生の寄り道としか表せられないここでの孤独な日々になんの脈絡もなく現れた、彼女。


 あの優しい味と気遣いが、その時の碧には眩しいくらいだった。


 昔から親が家より仕事優先ゆえに、放任主義で育てられた。寄るべなかった。そんな碧に、暮らすことの温かさを思い出させてくれた。知らない世界を教えてくれた。


 言ってしまえば、それはただの上手でおいしい卵焼きにすぎないのかもしれない。けど母と離れて暮らし今までの人生で食事に重きを置くことのなかった碧にとってその温もりは、今まで見てきた世界がひっくり返るくらいの衝撃を伴って、突き刺さった。


 ——こんな温かさが自分にあれば、どれほどよかっただろうか。

 そうすればこんなふうには、ならなかったのに。


 だからそれ以来、碧はくるみの姿を自然と探していた。

 あれがなかったらきっと今も碧の世界は広がることもなく、カレンダーを破り捨てるような怠惰な毎日だっただろう。


 自分を知らずのうちに助けてくれたくるみを、碧もまた助けてやりたい。

 手を差し伸べたい。けれど差し伸べられない。

 残酷な理想論ともどかしい不条理との板挟み。

 碧の言葉はくるみのまとう堅い矜持のうちがわには届かない。


 それでも、彼女が、頑丈な言葉の鎧の裏で実は誰かに頼りたいと思っているなら、羽根を休めるための止まり木や柱にくらいならなってあげたいと思えた。


 振り切るように、鋭く息を吐く。それからまるで何もなかったかのように、ベンチの上で仲良くもたれあうふたりぶんの荷物をまとめて担ぎ上げた。


「ほら。帰りますよ」


 碧が先に公園の出口に歩み始めてしまうので、くるみもその後ろを静かについていく。


 バックパックを背負ったブレザーの後ろ姿を追いながら、誰に問うでもなく、小さくぽつりと呟いた。


「どうして……そんなに優しいの」


 紡がれた言葉は、碧の耳に届くことなく、藍色の夕空に吸い込まれていく。

 くるみの耳も頬も、ほんのり朱を帯びていることに、碧が気づくことはなかった。

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