第28話 オレンジの憧憬(1)

〈今日の買い出しだけど、碧くんは食べたいものある? メインはもう決まってるからサラダとスープを一緒に選びましょうか〉


 十二月も半ばとなった、あくる日の自習の時間。震えるスマホを拾い上げるとそんなまめまめしいメッセージが届いていた。


 もちろん母親なぞではなく相手はくるみである。


 この間彼女を助けてからというもの、ちょっとだけ親密になった気がする。少なくとも晩ごはんのメニューを進んで訊いてくれるくらいには心を許してくれたらしい。


「そうだ碧。そういえばなんだけどさ、つばめがお前に会いたがってたぞ」


 何をリクエストしようかな、というわくわくとした思案は、湊斗の唐突な話にすっぱりと打ち消された。


「は? なんで僕に?」


「なんか面白そうだから友達になりたいって言ってた。俺に連絡先のID教えろってうるさかったけど本人に聞けって言っといたから、そのうち碧に襲いかかるかも」


「襲うって何? 人間じゃないの? 森のくまさん?」


「言い得て妙だな。あるいはどっちかというと、ティーカップグリズリーの方が近い」


「それただ可愛いだけじゃ……ないですよね、はい」


「可愛いだけならグリズリーなんて表現しない。まあ、話せばわかるよ話せば……」


 何かを思い出したのか、どこかぐったりとした様子があまりにも真に迫っていて、碧は近い将来から目を逸らすように、テキストの続きの問題文に目を通しはじめた。


                *


 七時間目の授業が終わってから、碧は図書室を訪れていた。

 今日は買い出しのため、くるみとは外で待ち合わせをしている。彼女は委員会の手伝いを頼まれたそうで、終わるまで待つ必要があった。もう美術室に行くことはなくなったので、代わりにここで本を読んで退屈を凌ごうという算段だ。


 ぱらぱら、と参考書のページをめくる音。

 かりかり、と解答を書き込むペンの音。

 ぴっ、と貸し出しの本のバーコードを司書が読み取る音。


 最低限放たれるそれらすらなるべく小さくなるよう気を遣われていて、あたりはささやかな静寂と息遣いに包まれている。


 今まではなんとなく敬遠していたが、いざ行ってみると大学入試を前に最後の追い込みをする三年の受験生がほとんどで、呑気にお喋りにかまけている奴なんか一人もいなかった。すぐ隣に自習室もあるのだが、そちらはいつもほとんどの席が埋まっており、みんな分厚い赤本を開いては真剣そのもので過去問と睨み合っている。


 碧も棚から抜き取った小説を手に一応席を取ったはいいものの、さすがにこのなかでのんびり読書タイムという訳にもいかない。借りたい本だけ借りてさっさと退散するべきかと考えていると、目の前の机上に文字が書かれたルーズリーフがすっとすべり込んできた。


 怪訝な手紙に心当たりはないし、別に中身まで読むつもりはなかった。なのに文字をしっかり捉えてしまったのは、看過できないワードがそこに転がっていたからだろう。


〈きみ、くるみんにラブレター渡そうとしてた人?〉


 ぎょっとしながら顔を上げると、そこにいたのはあの日の小柄な少女だった。確かつばめ……という名前だったか。いつの間にか正面の席に座っていたらしい。


 くるみの、つんと澄ましつつも優しげな垂れ気味の瞳とは真逆の、いたずらを覚えたての子猫みたいな瞳が爛々と碧を捉えている。


 だぼっとした萌え袖で頬杖をつきながら、肩にかかるつややかな髪をエアコンの暖房の風にそよそよと揺らし、悪戯っぽく口許くちもとを持ち上げてこちらを見ている——ところ申し訳ないのだが、やはり小柄さと童顔のせいで学校見学に来た中学生にしか見えない。


 これがあのモデルのtsubameだなんて、世の中はいい意味でどうかしている。


〈だからそれは違います〉


 と、添えられていたシャーペンでさらさらと書き足して突き返す。するとつばめは古典的な秘密の手紙が早々に面倒になったのか、スマホのメモ帳を開いて打ち込んだ文字を見せてきた。


〈実は知ってた。私見ちゃったんだよね。君がうちの教室の黒板綺麗にしてるの〉


 碧が鞄からスマホを取り出すよりも早く、再び文字を打ち込む。


〈珍しくいい人だなって思ったの! 名前教えてよ〉


 なんの用事かと思ったら、そんなことか。


 近いうちに襲いかかるかも、という湊斗の予言を思い出す。


 別に悪い人とも思えないので、机の上で行き場を失ったルーズリーフを再び手繰り寄せ、名前を書いた。


 つばめはそれを見てほうほうとわざとらしく頷くと、今後はスマホではなく、碧の名前の文字の横にすらすらとシャーペンを走らせる。


 差し出されたそれは、連絡先のIDと思しきものだった。


 どういうつもりか、と訊くより先につばめがスマホを掲げた。


〈今度さ、湊斗と三人でおしゃべりしよーよ!〉


 正直なんのためにとは思ったが、ここで断るのも湊斗に面目が立たないだろう。


 頷く代わりにIDを登録すると、即座につばめから連絡が送られてきた。


〈よろしくね! 黒板消しの妖精さん〉


〈それはNGワードです〉


〈じゃあよろしくね! Mr.ラブレター〉


〈それもNGワードです〉


〈いやだ、まともに会話できないよ! この人botだ!!〉


〈頼むからまともに会話させてくださいってこっちから頭下げなきゃ駄目ですか?〉


 人の話を聞かずに迫真の面持ちでスマホと睨みっこするつばめに、碧は辟易しながら嘆息する。湊斗の言っていたグリズリーという意味の十分の一くらいは理解できた気がした。対話でこんなしっちゃかめっちゃかされたらたまったものではない。


〈湊斗が言ってたんだ。俺の友人は外国語ぺらっぺらだって。あとブラックコーヒー飲めないってのも。高校生にもなってかわいいね! 今度英語の勉強教えてよね!〉


 なんで知ってるの!? と思わず声に出して抗議してしまいそうになり口を噤んでから、スマホに文字を打ち込む。向こうに会話の主導権を握らせてはいけない。


〈で、僕になんの用事で?〉


〈うーん。ただ色々お話ししたいなと思って。本当にただそれだけだよ?〉


 にこにこと笑うつばめを見て、十中八九嘘だろうな、と碧は勘づいた。


 今まで文字どおり言葉の通じない人といくらでも対話を試みてきた碧からすれば、人の下手な嘘を見抜くなど造作もないことだ。自分が嘘をつくのはどうしても苦手だが、それとこれとは全く別の話である。


 少し考えてから、迂遠な言い回しで返答をする。


〈もしかして、湊斗に関することを、あいつと一番仲良い僕に相談したいから?〉


 少女が、ぱちくりと目を瞬かせた。それからなぜかしおらしく睫毛を伏せる。元気いっぱいなティーカップグリズリーも牙を抜かれればただのテディベアになるらしく、それを見て碧は、なるほどな、と察した。


 湊斗が碧のことをよく知っているということは逆もまた然り。つまりこの人は、幼なじみという立場でも知りえない彼の情報を欲しいらしい。


 乙女心を傷つけるわけにもいかず、碧は協力の意を示した。


〈まあ……いいですよ。幼なじみなら僕よりも仲良いだろうし、僕にできることなんか雀の涙くらいしかなさそうですけど〉


 そして送信を押したとたん、


「いいの!? ありがとう!!」


 ガタリ、と椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がりながらつばめが前のめりになって大声をあげるので、図書室中の三年生が怒りを宿した眼差しを一斉にぎろりと少女に向ける。このおばか、と慌てて視線でたしなめると、つばめはてへへとぺこぺこお辞儀しながら椅子に座り直した。


〈やっぱり見込んだとおり君はいい人だね。私も君に好きな人ができたら協力するよ。あ、くるみん相手はちょっと厳しいかもしれないけどねー。席が隣で日直も一緒なのに、私だって仲良くなるのに半年以上かかったんだもん〉


〈だから違うって言ってるでしょそれ以上言うなら湊斗に全部ばらしちゃいますよ〉


〈嫌だそれだけはやめて!〉


 豆柴のゆるキャラが土下座するスタンプを送られてきたので、碧は芝犬に「待て」をするスタンプを送ると、つばめは風船のように頬をふくらませた。


 妹からの気まぐれでプレゼントされたこのスタンプ、不本意ながら今後はしょっちゅう使うことになりそうだ。

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