第26話 ひみつのサイン(2)
空気が、澄んだサックスブルーに満たされていた。
透明な水に、群青の水彩絵の具をひとたらししたような、そんな色の時間だ。
碧はデイパックを背負って、くるみの姿を探しながら家路をゆっくりと歩いていた。
ちょうど五時になったらしく、道に立ち並ぶ街灯がいっせいに明かりを点した。空気に滲んでぼんやりと白い明かりの輪っかを広げ、道案内をするかのごとく、碧の行く先を照らす。
くるみへの連絡は、まだ未読のままだ。
「どうしたものかな」
呟いてから、角を曲がる。学校からの帰路である僅か十分程度の道のりの終わりがけ……つまり家のほど近くに、小さな公園があった。
地図の隙間を四角く切り抜いたような、よくある公園だ。
日曜日のぽかぽかした午後なんかは老夫婦が散歩をしていたり、あるいは子供がしゃぼん玉をとばしたり鬼ごっこをしたりとわあきゃあと騒いで遊んでおり微笑ましいのだが、冬の夕暮れとなるとさすがに人の姿は見えず、ねぐらへ帰る
空っ風が吹き
こんな気の利いたシーンで、すべり台にでも腰かけながら隣に気の置けない友人の一人でもいればさぞ素晴らしい青春の一ページになるのだろうが、あいにくそんなところで郷愁に浸る予定も暇な友人もなく。
碧はいつも通り、その公園の前を通り過ぎるつもりだった——が、気づけば足を止めていた。
ふと目を向けた公園のベンチの上で、見知った鞄を見つけたからだ。
「……あれってくるみさんのじゃ」
いつも彼女が持ち歩くトートバッグが、戻らぬ主に行き場をなくしてぽつりとそこにある。間違いなく、持ち主はくるみだ。だが、辺りを見渡しても彼女の姿は見当たらない。
このまま荷物を放置するわけにもいかないので、人のいない公園に立ち入ってベンチに近づく、とその時。どこからともなく、涼やかななかに甘さのあるクリアな声が響いた。
「待ってください! それ、私の荷物——」
「く、くるみさん?」
まぎれもない彼女の声に、もう一度その姿を探すものの、やはりどこを見ても見つからない。すると今度はある一方向からはっきりと、くるみの声が聞こえた。
「あ……碧くん!」
すぐ目の前に伸びる大きなけやきの木を見上げると、そこには果たして、幹から伸びた大きな枝にちょこんと座る亜麻色の髪の少女がいた。
あまりにも予期していなかった光景に一瞬、トワイライトに弄されて、童話の世界から抜け出した本物の妖精でも見つけてしまったかと思った。が、目をこすってみるとやはり目の前にいるのはくるみだ。
先に家で着替えたらしく、上品なレーストップスの上に、ダークグリーンを基調とした小花柄のサロペットワンピースという出立ち。冬風にスカートの裾と長い髪をなびかせており、まるで一幅の絵画のような光景である。
くるみは目の前に唐突に現れた碧に、驚き半分気まずさ半分といった風情で、桜色の可憐な唇を開いた。
「ど、どうしたの。こんなところで」
「こんなところって……」
碧も驚きのあまり、ここ僕の通学路で帰り道なんですけど、という突っ込みは喉につっかえて出てこない。
「……くるみさんこそ何してるんですか」
「べ、別になんでもない。ちょっと高いところから景色を楽しんでいただけよ、うん」
明らかな嘘に、碧もほとほと呆れるしかなかった。
木の幹にしがみついているし、地面からはなれたメリージェーンのパンプスは心なしか震えているし、潤んだヘーゼルの瞳はさっきからずっと下を見ないようにすいすいと泳いでいるし、どこからどう見ても高いところから降りれなくなった人にしか見えない。
前々からリスだのシマエナガだのに散々たとえてきたが、今回はまさかの木から降りられない子猫。さすがの碧も、これにはじとっと目を眇めてしまう。
「景色ですか。へえ……」
「そ……そうよ」
「もうすぐごはんの時間なんですが。いつまでそこにいる気なんですか」
「分かってる。……その、約束の時間までにはちゃんとあなたの家に行くから……」
「降りれるんですか?」
その言葉に、くるみは恐る恐る下を向く。が、地面を見て怖くなったのか、幹にきゅっとしがみつきながら震える声で言う。
「お、降りれる。このくらい……」
どう聞いても強がりだった。
なんて不器用なんだろう。たった一言、助けてと言えればいいのに。
今まで見てきて分かったとおり、完璧な優等生の誇り高い彼女にとっては、それがどんな試験よりも難しいらしい。
そしてこれこそが、碧がくるみと出会った当初から覚えていた、放っておけなさの正体だとにわかに悟った。
人に頼らない。全てを自分の手で賄おうとしている。決して誰にも甘えない。
完璧で、完璧すぎるあまり……危うさを覗かせる少女。
——本当、難儀な性格したお姫様だ。
初めて出会った時に勝手に男を追い払ったのと違い、この状況は彼女が肯んぜない限り、碧の方から助けることはできない。なので、ここはちょっと誘導が必要なようだ。
木の上を見上げて、わざととぼけた調子で言う。
「あ、分かった。もしかして、木登りして遊んでるんですか? 楽しそうですね」
くるみは一瞬唖然としてから、むぅっとした声を上から落としてくる。
「……そんなわけないでしょう?」
「じゃあここから通行人を観察するために高いところに? 探偵ごっこですか?」
「碧くん、私のこと怒らせたいの? 私怒るととっても怖いんだけれど」
それ自分で言っちゃったらあんま怖くないと思うな、と言いかけて口を噤んだ。
「あはは嫌だな、くるみさんがあまりに楽しそうに遊んでるから冗談言っただけですよ」
「楽しそう? この状況で冗談って……あなたばかなの?」
「それ、冗談も言えない状況ってことですよね、要するに」
会話という名の盤上の駒を進めると、くるみは切り返せず、それきり黙り込んだ。ぐうの音も出ないといった苦々しさで、涙目になったヘーゼルの瞳をぎりっと細める。
助けてやるつもりであって決していじわるする気はなかったのだが、何となく可哀想になってしまった。碧はため息をひとつ吐いてから、自分の荷物を彼女のスクールバッグの隣に下ろすと、木の下に戻って両手を掲げた。
「ほら」
「……何?」
「冗談言えないんでしょ。僕が受け止めるから降りてください」
彼女が腰掛ける太い枝は、そこまで高いわけじゃない。地面に降りるのは厳しくとも、受け止める人が下にいるのであれば飛び降りる時の怖さも和らぐはずだ。
木の根本は土になっているし、秋に落ちた葉っぱが
……駄目だったらしばらく看病してもらいます。
しかしくるみは降りる瞬間を想像してしまったのか、宙ぶらりんの靴をきゅっと固く寄せて、焦りながら反駁する。
「そ、そんなの、無茶に決まってるでしょう! あなたが受け止められなかったら……」
「大丈夫! 鍛えてますから」
もちろん彼女を安心させるための方便だし、碧の体格が少々男らしさに欠けることはくるみも承知しているだろうが、夕暮れの中で彼女の瞳の色が少し変わった。
どうやら、少しは碧を頼る気になってくれたらしい。このままでいたって埒が開かないことくらい、彼女が一番よく知っているはずだ。
碧も衝撃にそなえ、両足に力を込める。くるみは怯えを打ち消し敢然たる面持ちでぐぐっと身じろぎしてから、紗幕のようなロングスカートと亜麻色の髪を翻し、思い切り枝から飛び降りた。
群青の空気の中、二つのシルエットが重なり——。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます