第25話 ひみつのサイン(1)

 とある放課後、湊斗の実家のカフェバー〈AdrableアドラブルCafeカフェ〉に遊びに行った碧は、注文を済ませた後、カウンター席でぼんやりと頬杖をついていた。


 視線の先にいるのは、湊斗だ。アメリカンネイビーを思わせる体格の良さに渋い面で、パリッとした白シャツに黒い前掛けが異様なほどによく似合う。まだ高校生だけど、多分そのままカクテルシェイカーでも振らせたら、それだけで様になるんだと思う。


 隠れ家のようにシックで小さな店内を外の世界と切りはなすのは、雨の日の路地裏みたいにメロウで洒落たピアノジャズ。珈琲に交じってバタースコッチの甘い香りが、くゆり満ち満ちていく。


 高校生には贅沢すぎるくらい文句なしに満点の、すばらしい午後のひと時だ。


 湊斗は慣れた手つきで珈琲コーヒー豆を挽きながら、他に客がいないことをいいことにカウンターから大きな上体を乗り出させて、わざとらしく低い声で言った。


「碧くん、俺バースデー近いからアルマンド卸してほしいなぁ?」


 台無しだった。


「あのね、そんな台詞どこで覚えてきたの?」


「昔ドラマ見てたらそういうシーンがあってさ、妙に覚えてたんだよね。たしか六歳くらいのときだったと思う」


「英才教育だね。幼稚園でそういうごっこ遊びしてる湊斗を見守る先生の苦労が目に浮かぶよ……」


 ——連絡帳で説教されたことあるか、湊斗の親御さんに今度聞いてみよう。


「そんな、俺はしがないただの男子高校生だよ。むしろビールの国育ちの碧も将来有望だと思うけどなあ。将来ざるになりそう」


「しがないただの男子高校生はそもそもざるって言葉を知らないと思う」


 湊斗のお父さんも生い立ちを話したら似たようなことを言われたっけ、と碧は思わず笑った。二年前の誕生日のことを思い返しながら、発売日に買ってもらったゲームを見せびらかす小学生のように、ちょっぴり誇らしげに言う。


「お酒、飲んだことあるけど苦いだけだよ。多分二十歳になっても飲めないと思う」


「は!? 未成年飲酒?! 高校で一番話すやつがある日突然退学とか洒落にならんぞ」


「ドイツだと条件つきで十四歳で飲めるんだよ、法律上は。誕生日に一回だけだけどね」


 湊斗は年上の大学生を眺めるように碧を見た。


「はー。オトナだなぁ。けどそうだよな、俺は当然飲んだことはないけど酒なんて匂いだけで酔いそうで無理だもんな。一生烏龍茶だけでいいと思ってる」


「そこは珈琲コーヒーっていうところじゃないの?」


「俺は店を継ぐ気はないから烏龍茶で十分なんだよ」


 やりとりが自然と途切れたので、サイフォンのこぽこぽという心地よい音に耳を澄ませながら店内に目をやる。

 カウンター五席、ソファテーブル三席。平日の昼下がりだからか店内は閑散としており、客は自分だけ。


 並んだペンダントライトが照らすオレンジの灯りや、白いクロスと土色の煉瓦を基調とした空間。整然と吊り下げられたワイングラスが光を受けてきらきら宝石みたいに輝く様は、毎回まるで違う世界に足を踏み入れてしまったような気持ちになる。


 湊斗は、夜になると混むと言っていた。カウンター向こうの棚にずらりと並ぶ煌々とした酒瓶が、空に黒い帷が降りきった時間にスポットライトを浴びるのだろうか。雨の日にかけるレコードのようにしっとりとしている今のこの空気が、数時間後、シャンパンのなかに飛び込んだような蜜色で輝く様を、碧は想像する。


 高校生からしたら、そういうのはドラマの中でしか知らない。そんな世界を知っている湊斗が一歩先に大人になっているようで、なんだか羨ましい。


 湊斗は慣れた手つきで珈琲コーヒーを注ぎ、音を立てずにことりとカップを差し出した。


「はいよ、キャラメルのブラック」


 シュガーポットに手を伸ばし、碧がコーヒーカップに角砂糖をとぽとぽ落とすと、湊斗はうわっと毛虫を見つけたような声をあげた。


「折角の俺が淹れたブレンドなのに! いいかげんブラックくらい飲めるようになれ。酒がどーこーどころの話じゃないぞ」


「だって僕まだ高校生だし」


「じゃあ大学生になったら飲めるようになるんだろうな?」


「大学生になったら角砂糖一個減らす」


「それだけ!?」


 だって苦いじゃんと碧が眉を寄せると、まだお子ちゃまだなと湊斗はにんまり笑う。


 碧はここの常連客。この店を週二回ほど訪れるのは、高校一年生の春から続く習慣だ。


 客としてコーヒーを注文し、店内にかかる音楽にぼんやりしたり、ただぽこぽこしているサイフォンを眺め、彼と他愛もないお喋りをし、飽きたらカウンターの隅っこで一般文芸の文庫本を開く。バータイムになればさすがに高校生はいられないので、店を出てようやく帰路につく。


 そんな日々も、くるみとの契約のおかげで少しずつかわり始めているのだけれど。


 ブレザーのポケットからスマホを取り出し、通知を確認する。新着のメッセージは届いていない。そのままくるみとのトーク画面を開く。帰るのが十七時すぎになる旨を連絡したのだが、既読がついていない。


 スマホを見れない状況にいるのだろうか。けれど律儀な彼女のことだ、もしそうなるなら事前に連絡をいれてくると思う。となれば、彼女の身に何かが起こっているのかもしれない。……というのは、考えすぎだろうか。


 どうも彼女の妖精姫としての完璧すぎる姿が、最近になって危なっかしく思えてしまい困る。


 それはきっと、無垢で年相応な、彼女本来の姿を見てしまったせいだ。


〈甘えん坊だなんて、まるで私の対義語みたい——〉


 いつかの彼女の言葉が、ぷかりと浮かび上がった。

 誰にも頼らない。ただ己の才覚と努力のみして、まっすぐひたむきに歩み続ける。ひたすら自分の求める自分であろうとするその生き方は眩しく気高く、どこまでも綺麗。


 そんな姿に憧れすら覚えるが、その反面どこかに危うさを感じさせるのだ。


「……くるみさんっていつからああなのかな」


 抱いた些末な疑問は、ほろりとこぼれ落ちた。それを湊斗が拾い上げる。


「くるみさんってゆずりはさんのことだよな。碧があの人のこと話題に出すってすげえ珍しいじゃん。で、ああって何のこと?」


「いや、うん……まあ、ちょっとね。あの人ってなんかほら、近寄りがたくて隙のない完璧な人ってかんじするでしょ。ああいうのっていつから始まったのかなって」


「うーん。そもそもそんなこと考えたこともなかったな、俺は。あの人のことは廊下でたまに見かける程度だけど、勉強も立ち振る舞いも後から努力して身につけたというより生まれながら全てを持っていた、としか思えない隙のなさだし。〈いつから〉なんて一切想像すらさせないほどの高みにいるっていうか」


 湊斗の考え方は、おそらく碧の学校の大多数が抱いている考えと同じだ。けれど碧はくるみがそう思われてしまっていることに、なぜか物悲しさを覚えてしまった。たとえくるみ本人が望んだことであっても。


「……僕くるみさんと何度か話したことあるんだけどさ、ああ見えて——」


「は!? 話したことあんの? 何で黙ってたんだよはよ詳しく教えろよ」


 言いかけた最中に湊斗が食い気味にさえぎってきたので、慌てて耳を塞いだ。


「うわもう声でかい。……これだけは言っておくけど、湊斗の思ってるような人じゃないよ、あの人は」


 さすがに、人前で見せている美しい笑みの代わりに碧にはつららの言葉を刺してくる、なんて言っても信じてもらえないだろうので伏せておく。なんなら契約のことは他言無用の大切な秘密なのだ。ちょっとくすぐったいけど、そういう関係も悪くない。


「恐れ知らずだなあ……あんなに近寄りがたいのに。まあお前ってわりと誰にでも話しかけにいくやつだから、相手がスノーホワイト様だろうとお構いなしなだけだろうけど」


「だって、同じ人間じゃん。確かにちょっと日本人離れしてるけど、本当に童話の世界から来た妖精ってわけでも、本物のお姫様ってわけでもないんだからさ」


「まあそうかもしれんが……物怖じしないわけ?」


 こればかりは湊斗が悪いというわけでなく、まあそういう考えの人もいて然るべきだろうなと碧は思っていた。なぜかって、彼女が自ら必要以上に周りの人間を近づけさせないように、境界を踏みこえさせないように振る舞っているからだ。


 碧はしばらく考え込んでから、昔を振り返るように語った。


「うーん。ほら、僕ってドイツで九年も暮らしていたし、向こうで通っていた学校には自分以外にも他の国から来た人が何人もいたんだよ。いろんな人が外国語で話して、いろんな考え方があって……そんな境遇が当たり前だった」

 子供時代を思い返しながら、言葉を紡いでいく。


「だから確かにくるみさんのこと、初めは住む世界が違うとは思ったし、話しかけて取り巻きに目をつけられたらやだなとは思ったけど、かといってそんなくるみさんのありようを敬遠する理由にはしたくないんだよね。その人がどんな人かを知る前に、関わるかどうか判断下すのって勿体ないし」


「こんな聞き方はずるいかもしれないけど、その取り巻きにどう思われても?」


「まあ、なんだかんだ慣れてるし、僕も」


 自分の考えを答えると、湊斗が腕を組んでまじまじと碧を見た。


「……いや、すげえなほんと。俺、碧のそういうところが好きなんだよな」


「男から愛の告白されても嬉しくないんだけど……」


「いやいや照れんなよ。俺らそのおかげで知り合えたみたいなもんだしさ」


「ごめん覚えてない。何だっけそれ」


「まーいいんでないかな? 俺が覚えていればそれでさ。……で、今日は相談に来たんだろ? なんでも話してみたまえよ」


 どこか嬉しそうな湊斗の言葉に、碧は今日の本来の目的をようやく思い出した。


「そうだった。けどごめん、やっぱり大事な用事思い出したから今日はもう帰るよ」


 来ない返事のことを思えば、ここでいつまでものんびりする気にはなれなかったのだ。


 まだ熱さの残るキャラメルコーヒーを飲み干すと、碧は席を立った。


 これが杞憂だったとしても、碧が遅れれば鍵を持たない彼女は真冬の寒空の下で待つことになってしまうので、どちらにせよ早めに帰らねばならない。


「もう? 最近早いな。まだ十七時にもなってないぜ。前はバータイム開始ぎりぎりまでいたじゃん。彼女でもできたか。まさかほたるちゃんじゃないよな?」


「あの人は絶対ないから。そうじゃなくても彼女はいないけど、まあちょっと色々ありまして……」


「その色々に、俺が知ったらひっくり返るような話が含まれてる気配がするな」


 本当、妙なところで勘がいいやつだ。


「とにかく、また次時間ある時に相談させてよ」


 会話を無理やり打ち切ってから、お会計をしようと立ち上がり財布を取り出すと、一手早く湊斗が伝票を奪った。

「もし彼女できたらさ、店に連れてこいよ。親には内緒でデザート振る舞ってやるからさ。甘いの好きな彼女だと俺と話が合って嬉しいんだけどなあ」


「いやそんなんじゃないって……春休みに入ったらみたいな軽いノリで言わないでよ」


「そういう奴があっさり彼女つくって休み明けに手繋いで登校してくるんだよな」


 何を考えているのか分からない湊斗にむりやり小銭を押しつける。

 からんころんと扉のベルを鳴らし、碧ははやる気持ちを抑えながら外へ出た。

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