第24話 移ろい彩られる世界

 おかしな人だ、というのがくるみが抱いた碧への第一印象だった。


 ブルーアワーの夜空にかざしたビー玉のごとく透明な瞳に、涼しげな面差し。


 遠回しに近づかないように告げたはずなのに、なぜかその日彼は歩道橋から離れようとはしなかった。


 影のような姿が、舞い落ちる真っ白な雪を、映えさせていた。


 東京には珍しい、雪の日だった。


                *


 契約初日の夜、碧がくるみを家まで送ってくれることになった。


 あまり他人の時間を奪うことに無自覚でいたくなくて初めは断ったのだが、夜道は危ないからと碧も断固として退かず、結局くるみは折れる羽目になった。


 とぎすまされた刃の切先のように冷たい空気が、鼻につんと染みてくる。


 街灯に照らされ、道に長く落ちるのは、ふたりぼっちの影法師。家族以外の誰かとふたりきりで外を歩くというのは今までほとんどなかったから、歩く早さが分からない。


 分厚い雲の向こうでひんやりと輝くオリオン座のことを思いながら、くるみは碧に話しかけた。


「徒歩通学って、この学校だと珍しいわよね。かくいう私も徒歩なんだけれど」


「学校から近いからぎりぎりまで寝れて最高なんですよね」


「まったく、あなたって人は。朝はきちんと余裕を持って起きなさい」


 しどけない発言にため息を吐いてみせると、彼は安堵したように笑った。


 そのまま、二人はなれない足並みでぎこちなく歩き始める。が、数十秒とたたぬうちに、親しみ深くなめらかなそれへと移ろっていく。それは彼が歩調を合わせてくれているからだとすぐに分かった。


 思えば美術資料を運んだ時だって、彼の歩き方は同年代の男の子たちのそれとは違い忙しなさがなく、悠然としていて穏やか。


 周りをちゃんと見ている人なのかもしれない。


「最近日が暮れるの早いですね」


 と、隣で碧が言った。白く染まった息が、ふわ——と後方へながれていく。


「冬至もこれからだし、まだまだ真冬は続くからね」


 くるみからも、ぐるりと巻かれたマフラーの間を縫って白い息が消えていく。


 ふと、頬にふわりと冷ややかなものが触れた。それはすぐにしゅんと温度を失くしたが、くるみの視界いっぱいには同じものが曇天の空から降り出す様が映っていた。


 ちらちらとひるがえりながら、あるいははらはらと当て所なく舞い落ちてくるそれを見て、あ、と言葉に満たない小さな声が洩れていた。


「雪……」


 今年三度目の雪。

 昔は窓辺からしか見ることができなかった雪。

 この間はひどく凍てつくような心地で見上げた雪。

 けど、今は——


「きらきらして綺麗……」


 ついと天を仰いで、真っ白な結晶がふわふわと自由に降り注ぐ空に見惚れていると、碧が尋ねてきた。


「傘持ってますか?」


「うん。折りたたみは一年中毎日持ち歩いている。あなたは?」


「送ってくだけだし降ると思わなかったから僕は持ってきてなかったけど、なくていいです。どうせ雪だし、パーカーかぶれば十分。言うなれば Wir sind ja nicht aus Zucker……ですね」


 そう魔法の呪文を唱えてから大きなフードを目深にかぶる。初めて会った時にくるみに貸したあの上着だ。ドイツ語は分からないけれど、その様相がなんだか小学生のように楽しげで、くるみは鞄から傘を取り出そうとするのをやめた。


 不思議そうにこちらを見てくる碧に言う。


「傘があると、せっかくの雪景色が見えないから。私も差さないで歩く」


 子供っぽい理由だと思われただろうか。


 けど隣の少年はふっと白く息を吐いて穏やかに笑ってくれて、くるみはなぜだか気持ちがじんわりと温かくなった。


 隣を歩く碧と初めて出会った日もまた、雪の降る夜だった。ずいぶんと古い昔のように思えるが、あの日からまだ半月しか経っていない。


 半月で重ねた時間の間に知った、彼のこと。


 まず、冗談と言葉の選び方がとっても下手。


 なのに時々、こっちがびっくりするくらいまっすぐに言葉を伝えてくる。


 ひょうひょうとしていて、何を考えているのかもよく分からない、読めない人。


 かと思いきや嘘を吐くとすぐに心のうちが分かりやすくなるので、隠し事ができない誠実な人なんだなとは思う。その嘘自体も、誰かを傷つけないための優しい嘘ばかりだ。


 まとう空気がどこか古風で落ち着いている。それでいて、のんびりやさんで穏やか。人と争うのが苦手らしい。


 海外暮らしだからかたまに妙に近くて、けど色目を使ってないことは分かるから、下手に拒む気持ちにもなれない。


 今だって、言ってしまえば第一印象は〈今まで出会ったことのない人〉。


 でも、彼の見てきた世界を知りたいって思えた。


 あの歩道橋の上で、他の人とは違う『私』に、戸惑わずに話しかけてくれたから。


 ——きっと彼も無自覚なのだろうけれど、『妖精姫スノーホワイト』じゃなく『楪くるみ』に対して、『また』って言ってくれたから。


 碧は見上げた先でいっぱいに広がる碧空みたいにひたすら自由で、奔放で……人の引いた境界線を軽々ととびこえて、姫君なんてあだ名される鎧じゃない、くるみというひとりの人間を見つけてくれた。


 自分とは何もかもが真逆といってもいいほど遠くかけはなれているのに。


 小さな箱庭にいるくるみと、広い世界を知る碧とでは、住む世界が違うのに。


 いや、だからこそ——くるみは彼に憧れた。


 自分の世界を広げてくれた彼と出会って、深く深く憧れた。


 憧れという感情すら初めてで、おそるおそる名前をつけてみたから本当に合っているかどうかも分からないけれど、この気持ちを見つけたのは他の誰でもなく自分だ。


 だから信じたい。息切れしてもいいから、まだ見ぬ景色を見に走って行きたい。


 背中を押してくれたのは、今もポケットの中で鈍く光っている遠い国のコイン。これがあれば、小さな世界にいた自分でもどこまでも行けそうな気がした。


 だからこの時のくるみは多分、ちょっぴり浮かれていたんだろう。


「——車来てる」


 彼から教えてもらうまで、気づかなかった。


 静けさを破って訪れた碧の声にはっとしたとたん、体がぐっと引き寄せられる。


 雪道にライトを反射させながらすぐ横をスクーターが通って行ったのを見て、碧が切羽詰まった声を上げた。



「あぶな」



 ちゃんと歩道寄りを歩いていたのだが、雪で白線が隠れ始めたせいだろう。


 びっくりしつつ、遠ざかるスクーターの音がしんと真っ白な夜の底に吸い込まれていくのを聞いて、密接した彼の体温とふれあいそうなほど近い喉仏に気がついた。とたん、驚きを吹き飛ばすほどの猛烈な恥ずかしさが襲ってくる。


「大丈夫?」


 雪がちらつくなか、お隣にいる碧が気遣うように尋ねてくるので、頬に宿った熱を気取られまいとぷいとそっぽを向く。


 けれど彼は絶対に離さないという強さで、今もこうして肩を寄せている。


 さっきはあれだけからかってきたのに、今は一転して守られている気がした。


「……ごめんなさい、私は大丈夫。ありがとう」


 そう早口で言って頷くと、碧はさりげなく車道の方に回って、また歩き出そうとする。くるみは気づけばそのパーカーの裾をきゅっと引っぱって、呼び止めていた。


「……ねえ、あおくん」


 名前を呼べば、彼は振り返る。


 そのびいどろのように涼やかな、それでいて凪いだ海のように穏やかな黒曜石の眼差しをまっすぐに見て、問う。


「どうして碧くんは、私の突飛な申し出を受け入れてくれたの?」


「……さあ、なんででしょうね」


 自分でもよく分かってないのか、考え込むように空を見上げる。それから自らの頬にかかるはらはらとした雪を跳ね除けるように、おもむろにこちらに鼻先を向けた。


「一つだけ言えることは、世話焼いてくれた恩義とか、自分の美学のためとか、そういうの関係なくて……ただ一緒に鯛焼きを食べた時のくるみさんの表情が、ずっと忘れられなかったから」


 その言葉に。


 とぎすまされた冷たい空気に、ゆびさきが悴んで——けれどほんのちょっとだけ、柔らかな熱をもった気がした。


 ——歩く距離はこんなにも近いけれど、私とあなたの世界は果てしなく遠く、交じり合わないはずだったのに。


 どうしてあなたはそんなに、私に一直線に届く言葉を持っているの?


「もっと見ていたいって思ったから、今日の約束をまた会うための口実にしただけです」


 浮ついた言葉やささやかれる愛の言葉はいつだって突っぱねてきたはずなのに、彼の言葉はあんまりまっすぐなものだから、くるみはそっと瞳を伏せることしかできなかった。


 動揺をなんとか押さえつける。それが彼の心の底からあふれ出た自然な言葉だと分かるからこそ、どうやって受け止めればいいか分からない。


「ふぅん。そう」


 なぜか気持ちがざわついて、照れ隠しにそっぽを向いた。


「えっ……ご、ごめんなさい。怒りました……?」


 いつもは読めない人なのに、今だけは後ろからかかる声から慌てた様相が手に取るように伝わって、それがなんだか可笑しくってくるみは小さく笑った。


 それから鞄からスマホを取り出して、メッセージアプリを開く。目の前にはくるみの行動を不思議そうに見守る碧。画面にそっと触れる指が震えているのは、寒さのせいだけじゃない。


 ふたりでこれから教え合っていくには、連絡をまめに取り合う必要がある。


 けれど、なんて切り出せばいいんだろう。


 「連絡先を交換しましょう」? 「IDを教えてくれませんか」?


 くるみは今まで連絡先は聞かれるばかりで、自分から誰かに聞いたことなんかなかったから、こんな人間関係の最初の二歩目すら分からないでいた。


 今まで自分に連絡先を聞いてきた人たちも今の自分と同じくらい緊張していたのだろうか、なんて心ここに在らずで考えてしまう。


 ——どうせ〈スノーホワイト〉なんて呼ばれてるなら、思ってることなんか言葉がなくても、今降っている雪が代わりに伝えてくれればいいのに。


 そんな甘えたな気持ちを振り切って、QRコードの画面を表示させる。再びコートのポケットに潜んだコインに想いを馳せてぎゅっと目を瞑り……心の中で「えいっ」と掛け声を叫びながら、ばっと思い切って碧の方に掲げた。閉じた瞳をおそるおそる開くと、彼は、驚いた様子で目をぱちくりとさせている。


 十二月の夜は寒い。りんと冷たくて透明な外気を吸い込むと、頭の中がすっきりしたような気がした。その冷気が緊張の熱に絆されてしまう前に、意を決して言う。


「碧くん。その……連絡先、交換しませんか」


 目が北国のペンギンのようにすいすいと泳いでしまっている。頬だって熱いのは、多分寒さのせいだけじゃない。


 アイスクリームみたいに甘くて冷たい夜でも、すぐ溶けてしまいそうなくらいに。


 けれど目の前の彼はそんなの気にも止めず、どこまでも穏やかに言った。


「たまには食事のリクエスト、してもいいですか?」


 一瞬惚けてしまったが、すぐに首肯する。通知音とともに「新しい友達」の欄に彼の名前が追加された。


 ——狭くて小さくて閉ざされていたはずの雪の日に。

 白と黒のクレヨンしか持たない私の画用紙に。


 あなたが現れて、やがて彩られ、移ろい染まっていくきざしを見せた。



 そんな私の世界に初めて密かに息づいた、この知らない感情の名前を、教えてほしいと思った。


                *


 スマホの画面には〈楪くるみ〉の美しい四文字。アイコンは金木犀の花の木。


 向こうにはドイツで撮ったブレーメンの音楽隊の銅像と共に〈Shuya〉と表示がされているのだろう。


 正直、彼女の方から申し出てくるとは思わなかったからびっくりした。ここは男の僕から声をかけるべきだよな、と思いつつ今まで女の子に連絡先を聞いたことなんかなかったから、どう切り出したものか考えているうちに、彼女に先を越されてしまった。


 くるみも他人に連絡先を聞くのは慣れていないようで、頬がほんのりまだ早い春に色づいていて、その様子を見るのがどうにもむず痒く、くすぐったかった。


「私、男の子の連絡先を登録するの初めて」


 くるみからしたら他意はないのであろう、そんな淡白に紡がれた言葉に、しかし碧はちょっと声が出そうになってしまった。


「……僕もだから大丈夫。何が大丈夫なのかは知らないけど、親族しかいないから」


「いたら逆に、交友あるんだなってびっくりしているところだった」


 くるみはいつもどおり、実直な意見を述べてくれた。


「私のID、他の人に教えないでよね? すぐに広まって収拾つかなくなりそうから」


「分かってます。国家機密なみに大切に扱いますよ」


「秘密、ですものね」


 口許の前に人差し指を立てる。


 楪くるみという四つの日本語の並びを見て、碧は穏やかに笑った。空を仰ぐと、曇天におおわれた真っ暗な空に映えるように、雪がいつまでもどこまでも降ってくる。


 やがて曲がり角に差し掛かると、くるみは歩みを止めた。


「この辺ですか?」


「うん。ここを曲がればすぐだからあとは大丈夫。送ってくれてありがとう」


 この間まではよくて友人寄りの知り合い、今は契約相手パートナーになった少女が、くるりとこちらに向き直る。


「あの……くるみさん」


 さよならの前に、その名を呼ぶ。


 彼女の知らぬものを教えていくために、最初の約束を差し出す。


「次また雪が降ったら……その、一緒に雪だるまとか……転がしますか」


「……はい」


 淡いはにかみで返されたので、碧もなんとなく照れくさくなって、ちらちらと舞う雪を吹き飛ばすように、悴んだ右手を大きく振って別れを告げた。


 それを見たくるみもいつもの慎ましやかさはどこへやら、碧の真似っこをするようにぎこちなくも大きく手を振り返した。まだ普段の気品や恥じらいの残る、そんなつたなくあどけない仕草を見て、碧は。



 ——ああ、雪そのものみたいに綺麗だな。



 色めく季節の真ん中で、なぜだか強く、そう思った。

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