第23話 契約の始まり(2)

 ソファの上でぼんやりと考え続け、やがていい香りに腹の虫が鳴いた頃。


「ほら、いつまでぼーっとしてるの」


 彼女の呼び声に我に返る。気づけば、食卓には立派な一汁三菜が並んでいた。


「うわ美味しそう……」


 がばっとソファから跳ね起きて、ほんわりとした湯気に爛々と目を光らす。


 牛蒡ごぼうと小松菜の味噌汁、今が旬のメバルのあんかけ、きんぴら蓮根に里芋の煮転がし。お茶碗に盛られているのは、牡蠣がたっぷりと炊き込まれたご飯。散らされた青葱が彩りよく、あたたかな湯気が出汁の香りを連れて碧の鼻腔をなでた。


「初日だったから、ちょっと豪華にしてみたの。どうぞ召し上がれ」


 ダイニングテーブルに向かい合い、契約初日のいただきますをする。


 熱々でこそ真価を発揮するあんかけは、控えめに言って最高だった。揚げ焼きにされカリッと仕上がった魚の皮も、とろりと舌に絡む甘酢餡も、絶対に学校では——いや、どこの店だって、ここまで美味しいものは味わえないだろう。


 牡蠣の炊き込みご飯に至っては、本当にお金が取れる出来栄えだった。わざわざ土鍋で炊いたらしく、磯の香りのするぷっくりとした大粒の牡蠣に、やさしい昆布出汁と香ばしい醤油風味のごはん。独特の風味の食材だが、旨みだけがぎゅっと詰まったそれはまろやかで、ぱりぱりのお焦げが香ばしく、何杯でもおかわりができそうだった。


 女子高生が選ぶメニューとしてはいささか渋めではあるが、きっとなるべく旬の食材を選ぶように意識しているのだろう。


 全体的にやや控えめな塩、そしてそれを補うように出汁や旨みで絶妙な調和を引き出しており、いかに彼女の料理の腕が同年代の中でも汀優みぎわまさりかを、改めて知らしめられた気がした。


 夢中になって舌鼓を打ち、一息ついてからこぼす。


「やっぱり天才です。見込んだ僕の目に狂いはなかった」


「あの、契約の話持ちかけたのは私の方なんだけれど。……美味しいってこと?」


「おいっしい。何杯だっておかわりできそう」


 熟年の技と言ったら花の女子高生には失礼かもしれないが、事実それほどまでに高められた匠の技だ。


「お口にあったようでよかった。今日は材料が買ってきたものだけだったしメニューは決め打ちだったから、食材のストックがふえてきたら冷蔵庫と相談しながら、もう少し幅も広がると思う」


 先ほどの憂いの影はすっかり消えていた。ふわっとヘーゼルの瞳を優しげに細めて浮かべるほのかな笑みが、思わず見惚れてしまいそうなほどに可愛らしく、下手したら喉を詰まらせてしまいそうだ。


 やはり出したものを褒められると料理する人としては嬉しいのだろう。


「くるみさんもすごいんだけど、それを教えた家政婦さんも相当すごいですよね……」


「上枝さんは、もともと本家……じゃなくて、京都にある老舗で働いていた方なの」


「うわ、すご……」


 そんな人に習ったのならどおりで、彼女が料理上手なわけだ。


「やっぱり結婚した後のことまで考えてるだけあるな……」


 それを聞いたくるみの箸がぴたりと止まった。


「……け、結婚って。私がいつそんなこと言った?」


「あれ? 言いましたよね? あ……いや、今の言い方はだいぶ僕の想像が入ってたな」


「……まさか、またよからぬこと考えてたんじゃないでしょうね」


 じっとりと半目で刺してくるくるみには、碧の考えがお見通しだったらしい。


 もちろん彼女をそんな目で見ているわけではないのだが、あまりにも様になったエプロン姿がどっかの新妻然としすぎて、嫌でも連想してしまったみたいだ。


 くるみの瞳が、いが栗くらい鋭くなる。


「やっぱり考えてる、すごーくよからぬこと。例えば、あまりにも様になったエプロン姿がどっかの新妻然としすぎてる、とか」


「ないないない! そんなこと」


「つん。どーだか」


 拗ねたように可愛らしく鼻を鳴らしてから、くるみは静かに瞑目する。


「……でも結局、私には縁のない話なの。だから今こうして思い出に刻みつけている。十年後、今日を思い出して糧にできるように」


 含みのある言い方が気になったが、それは現時点で好きな人がいない、という意味だろうか。


 けれど高校生で好きになった人といつか結婚するかどうかで言ったらまあほとんどはしないだろうし、くるみほど心優しく世話焼きな美人であれば、良い出会いなんていくらでも転がっていると思う。


「くるみさんみたいな優しくて器量よしのお料理自慢の人なら引く手数多だし、すぐいい相手が見つかりそうだけどな」


 別に庇うつもりはないが、思ったことは素直に言葉となった。


「なに、急に」


 戸惑う彼女に、碧は続ける。


「だってまめまめしいし、がんばり屋さんだし、やっぱり料理は上手だし」


「……ど、どうしてそんな褒めてくるの」


「本当のこと言っただけなんだけど」


「そうじゃなくて……いつもいつも、なんでそんなにまっすぐなの。な、なんかこっちまで恥ずかしくなってくるじゃない」


 気づけばくるみの白磁の頬は淡い朱に紅潮していた。潤んだ目がそよやかに宙を泳ぎ、羽根のような睫毛がふいっと伏せられる。


 てっきりまたつららのようにりんと冷ややかな視線で軽くあしらわれると思っていたので、まさかそんな反応をされるとは思わず、逆に碧も狼狽えた。


「そう言われても、だって向こうでそう育ったし……」


 欧州では思っていることをストレートにはっきり言葉にするのが当たり前。それが賛辞ならなおさらだ。隠す必要などどこにもない。


 しかしくるみには信じられないらしく、悪戯で壊しちゃった花瓶を隠した子供を叱咤する母親のような瞳でこちらをじっと見てくる。


「……本当に?」


「本当の本当です」


「嘘だったら?」


「くるみさんを追い抜いて学年一位に……って前にもこんな会話した気がする」


「だってあなたの言うことがいつもいつも、私の知ってる常識からあんまりかけ離れてるんですもの」


 こればかりは、くるみの言うとおりだと思う。


 碧だってドイツに移り住んですぐの頃は、日々驚きの連続だった。授業での挙手の形が違ったり、電車に乗るのに改札がなかったり、夜十時でも空が明るかったり……。


「物は試しに、くるみさんも一度海外行ってみれば早いと思うんだけどな。百聞は一見に如かずっていうし。楽しいですよ、知らない街を探検するのは」


 碧が提案すると、くるみは思いもよらなかったという風情できょとんとしていた。


「私にも、行ける……のかな?」


「日本のパスポートは最強なんですよ」


「そういう意味じゃなくて。……その、私ずっと世間知らずだったから」


「出来るよ、やろうと思えば何だって。くるみさん賢いから、難しいドイツ語でも案外呆気なく覚えちゃったりして」


「ほらまた。おべんちゃらばっかり」


 さっきまでのしおらしさが吹き飛んだくるみは、白い掌をこちらの鼻先に向けてぐいっと掲げてきた。


「……もういい、この話は終わり」


 打ち切りの合図らしい。もしかしたら褒めすぎて照れてしまったのかもしれない。その証拠に榛色の瞳はうるりと揺らぎ、耳までがほんのり桜に色づいている。


 あぁ、やっぱ可愛いんだな。


 そういうところを見ると、妖精姫スノーホワイトと呼ばれるくるみも一人の女の子なんだと実感する。学校での西洋人形ビスクドールの彼女とはえらい違いだ。


「じゃあ代わりに今度観る映画の話でもする?」


「映画……また観ても、いいの?」


「駄目な訳ないでしょ。次は何がいい? まだDVDたくさんあるし、それ見尽くしたらNetflixネトフリ登録するからくるみさんが好きに選んでよ」


「えっと……じゃあ、冒険ものとかが観たい。いい……?」


 おずおずとうかがうように訊ねるくるみに頷き返せば、ふわぁと表情が和らぐ。

「……ありがとう。楽しみにしてる」


 何の気なしの提案が彼女にとってはよほど嬉しかったみたいで、碧はなんだか居心地が悪かった。


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