第7話 再会とはじめて(1)
そのまたねが、まさか休日、近場の本屋で果たされるとは思わなかった。
「え……君」
ほのかな驚きに満たされた、銀の鈴を打ち鳴らすような可憐な声。
声の主を察しながら振り向くとやはり、冴え冴えとした儚げな美貌の才女様が淡い栗毛を揺らしながら歩みを止めている。
紅茶色のラッフルフリルニットの上にアイボリーのロングコートを羽織り、下は柔らかなティアードスカート。彼女の姿を見るたびに、誰がはじめに言い出したかは知らないが妖精というあだ名はまさにそのとおりだなと惚れ惚れしてしまう。
つまるところ書店の文庫本コーナーの前で、碧とくるみは偶然の再会を果たしていた。
「くるみさんだ。そっちも買い物ですか?」
のんびり問いかける碧に、くるみは相変わらず涼やかかつ淡白な口調で答える。
「まあ、ちょっと小説とかを。あなたの方は……若者の活字離れみたいなラインナップね」
若干呆れたような視線で、手許の少女漫画を見られた。
〈本屋さんで弥生花伝サクラの最新巻買っておいて!〉
といったドイツ語のメッセージが妹から届いたのが買い物のきっかけだ。今も海の向こうにいる四つ下の妹——千萩は、物心つく前にベルリンに移住をしたので、日本語は話せるもののあまり得意じゃないのである。
「あなたも若者でしょ。僕ちゃんと小説も買ってます。愛読書は『若きウェルテルの悩み』です。別に格好つけで言ってるわけじゃなくて本当にちゃんと読んでます」
原書で、なんてのは鼻持ちならないので言わなかった。
「ちゃんと文字読んでるならいい子。じゃあ私、まだ買うものがあるからこれで」
「——あ、待ってください」
引き留めたのは、ごはんのお礼を直接言えていないことを思い出したからだ。
「この間のごはん、すごく美味しかったです。ありがとう」
対価は支払うからやっぱり
くるみは意外そうに目をぱちくりさせ、ちょっぴり驚いたように答える。
「あ……うん。どういたしまして。後片付けとか、洗い物はちゃんとできた? きちんと清潔な布巾で拭き上げて食器棚にしまえた?」
「僕のことまるで子供かなんかだと思ってるみたいですね」
「あら、違うの?」
「違いますよどう見ても。けど、まさか料理まで完璧だなんて思わなかった。さすが
「え? 何よそれ」
「知りませんか? なんでもくるみさんのこと最近そう呼ぶ人が多いんだって」
思い切り眉をしかめられた。そのあだ名はさぞ嫌なんだろう。
「じゃあ……くるみ
「それも同じくらい嫌ですっ」
学校の多くの生徒が彼女にかける呼び名を声に出すと、やはりほんとうに嫌だったようだ。
「別にみんな悪い意味で言ってないと思うけどな。むしろ褒め言葉というか。綺麗な人を妖精みたいって表現するのは昔からよくあることだし」
いまだ理解できてなさそうに首を傾げるので、ひとつたとえを出してやる。
「たとえばほら、『ローマの休日』で有名なイギリスの大女優。知らない?」
「タイトルは聞いたことあるけれど……あまり映画はみたことなくて」
古い映画の名前を出すも、くるみはぴんと来ていないようだった。
「私が嫌なのはお姫様ってところ。まるで血筋と才能で恵まれているみたいじゃない。まるで生まれながら蝶よ花よと育てられて、苦労を知らないみたいに聞こえるの」
「あーなるほど?」
「……確かに、囚われの姫って意味で言えば、遠からず当たっているかもだけど」
碧がその真意を探れずにいると、くるみは何でもないからと言うように咳払いをした。
「とにかく、私のことは今後そう言うあだ名で呼ばないでよね」
「分かりました。童話縛りでいうと、パーカーかぶせたかんじから赤ずきんちゃんって印象の方が僕的には大きいし」
「どっちも禁止です! もしそう呼ぶような悪い子ならもうお料理してあげません」
「裏を返せばまた料理してくれるみたいな言い方だけどそれでいいのかな」
いい子だの悪い子だの、同い年なのになぜか年上のお姉さんのような諭し方をしてくる彼女に碧は苦笑しながら尋ねた。
「ところで呼び止めちゃいましたけど、くるみさんは何を買おうとしてたんですか?」
するとくるみはなぜか、彼女にしか見えない空に浮く魚を目で追うみたいに視線をすいっと滑らせた。
「な……なんでもいいでしょう。文庫本にその他いろいろ……うん、それくらいよ。じゃあ、私はまだお買い物するからこれで」
心持ち急いだようにそう言い切ってから亜麻色の髪をふあっとひるがえす。そのままぱたぱたと去っていくくるみを不思議に思いながらも見送り、碧も会計の列に並ぶ。
なんだか様子が違ったが、別に碧が気にすることでもないだろう。
*
ふと向こうの棚を見ると、そこに先ほど別れたはずのくるみがいた。
「……何してるんだろう」
なにやら欲しい本が棚の高いところにあるらしい。つま先から上をぐぐっと伸ばして何とか取ろうとしているが、あと一歩届かないようで、伸ばした手はふるふると震えてから諦めたように下げる。
店員さん呼べばいいのに、と思いつつ、やはり彼女は他人に頼るのが苦手なのだという考えに行きつく。そのまま放っておくのも嫌なので列を離れ、後ろから棚に手を伸ばしつつ声をかけた。
「取りたい本どれですか」
「ひゃっ……」
驚かせてしまったらしい。小さく可愛らしい悲鳴をあげ、抱えていた購入予定の本が腕から滑り落ちるのを、碧が
ふぅと安堵のため息を吐き、彼女の落とした本をチェックするが、幸いどれも折れたりなどはしていなさそうだ。上の方に文庫本が数冊、それに隠れるように、英数の参考書に山ほどの問題集。これ全部解くとかようやるな、と畏敬の念すら覚えた。
「……ごめんなさいおどかしちゃって」
「っな、なに?」
くるみはまだ薄茶色の瞳を驚きに瞬かせており、碧を見つけて瞠目している。普段はどれほど取り繕っていても、不意打ちを喰らうと年相応の一面が出てしまうようだ。
碧は先ほど彼女がゆびさきを伸ばしかけていた本にあたりをつけ、棚から抜き取った。
「欲しかったのってこれ?」
「あ……ありがとう……ございます」
くるみが取りたそうにしていた本——『毎日の晩ごはん』というタイトルだ——を渡すと彼女はか細い声で小さくお礼を述べ、それから碧の受け止めた本を慌ててさっと奪う。
それらを隠すようにかき抱きながら、珍しく狼狽えた様子でよそよそしく訊いてくる。
「……み、見た?」
ということは、見てほしくなかったのだろう。ならばこう答えるべきだ。
「見てない……です」
しかし、ぎこちなさからすぐに炯々とした眼光に貫かれる。嘘をつくのは昔から苦手だ。大抵はこうしてすぐばれてしまう。
「その反応は……見てる。ぜったい見てる!」
何かを恥じらうように白い頬を
「別に見られて困るものなんかないですよね? どうしてそんな照れるんですか?」
「それは分かってるけど……」
涙に潤んだ瞳を苦々しげにきゅっと細める様子が妙に色香があり可愛らしく、碧は直視していいのか迷った挙句に目を逸らす。
「さっきの話と矛盾するようだけれど……誰かに努力の道程を、知られたくないの」
「……あぁ、それはまぁ」
つい神妙な面持ちで肯いてしまった。
確かに気持ちは分からなくもない。誰だって自分の志望校は人に言いたくないし、部活やスポーツの練習時間をひけらかしたくはないし、試験前は勉強していないと腹の探り合いに必死だ。
くるみほど完璧な才女で通っている人なら、なおさら気を遣うのだろう。
それにしても、あの
けれど、よく考えたら当然のことである。一切苦労をせずしてレベルの高い私立高校の首席を守るなど、どんな天才であってもありえない。自分たち凡人からしたら、自分より優れた人間を「才能ゆえ」と評価しがちだが、彼女とてたゆまぬ努力があるからこそ今の立ち位置にいるのだ。
「とにかく、今見たことは忘れて。絶対に学校の人に言ったりしないでよね?」
「くるみさん、僕に忘れて欲しいことばっかりですね」
「……無理だというなら私が忘れさせてあげましょうか? この分厚い本の角で」
「ちょっと冗談が物騒すぎるんじゃないかな?」
じと目でほんのり頬をふくらませる様子がなんだかおかしくって、碧はささやかに笑うしかなかった。今までは放っておけなさからつい助けてしまっていたが、彼女にとっては余計なお世話ということを忘れていた。
これ以上、干渉しすぎるのはよくないのかもしれない。
「分かった、言いません。でも別に参考書を買うくらい誰だって隠し立てもなくしてると思うけど」
「それは、分かってはいるけど……」
「逆にこそこそしていたら、人に言えない本を買う人に見えます」
冗談を言い合う仲にはまだちょっと早かったらしい。あなたは馬鹿なの? と言いたげにくるみの瞳が氷点下まで冷え切ったので、碧は彼女の袖を引きレジに連れて行った。
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