第8話 再会とはじめて(2)

 会計を待つ間も、ちろちろと他愛もない世間話を交わし、二人で並んで本屋を出た。


 昼間だというのに息が白く染まり、アイスブルーの空に昇る。真冬特有の切るような空気に身震いをすると、ひんやり冷たい風に乗ってふわりと鼻をくすぐる香ばしく甘い匂い。見ると、店前の広場にキッチンカーが来ており、甘味を振る舞っているようだった。


「あ、いいな」


 看板と垂れ幕を見ると、どうやら今日は鯛焼きらしい。

 前回はクレープ、その前はワッフルと、出会える味は毎回異なる。


 碧はこう見えて結構な甘党、というか辛いものもいける両党だ。晩ごはんを買いに行く気乗りがしない時は、ストックのチョコやアイスを食べてやり過ごすこともある。


 迷わず鞄から財布を取り出し、ちらりと隣を見る。くるみも甘い香りにちょっとは心惹かれたみたいで、車内で鯛焼きを焼く店員さんの手元を、まるで魔法にでもかけられたかのようにじっと見ていた。


 キッチンカーに歩み寄り、財布から取り出した四百円と引き換えに熱々の鯛焼きを二袋受け取る。そのうち一つをくるみに差し出した。小豆あずきはこしあんつぶあん派で戦争があるそうなので、それとは無縁かつ誰もが好きであろう甘めのカスタードクリームをチョイスした。


「ほら、くるみさんのぶん」


「え?」


 彼女は気抜けした声で碧の手の中のそれを見つめた。


「食べたそうに見ていたから」


「……人を食いしん坊みたいに言わないで」


「はいはい。食べるなら早く受け取ってくれますか」


 遠慮がちに眺めていたくるみだったが、碧がなかなか手を引っ込めないのでようやく受け取った。この頃、碧のくるみに対する印象は〈世話焼きのわりにだいぶ不器用な人〉に固まりつつある。


「……ありがとう」


「いいえ。ちなみにこれのお礼はいりませんから」


 たった二百円の鯛焼きでも、彼女の律儀さならやりかねないので、あらかじめ釘を刺しておく。


「ちなみにカスタード嫌いじゃないですよね?」


「……まあ。たまに家で炊いたりするくらいには」


「料理上手の発想だなぁ」


 すぐ近くのベンチが空いていたのでそこに座った。くるみも立ったまま所在なさげにしていたので座るように促すと、隙間を開けてベンチの端っこにちょこんと腰掛ける。友達と呼ぶには遠く、全くの他人と呼ぶにはやや近い。そんな距離。


 広場の石畳の上をぽっぽと呑気に歩いている鳩をみると、なんとなく長閑のどかな気持ちになる。抜けるような青空を、ばらばらとヘリコプターが黒い点になってゆっくり進んでいる。気温は低いけれど日差しは温和な、よい冬の休日だ。


「いただきます」


 包み紙をはがしてから、手の中の温かなそれを一口かじると、さくりとした皮がほぐれ、こってりとした甘さと素朴な風味のこしあんが顔を覗かせた。寒々しい風の吹くなか、舌に染み入る甘味に頬が緩む。


「……あー幸せ」


 不意にぼやいてしまったことに気がつく。碧は思ったことをまっすぐ言葉にしてしまう節があるのだが、人前でうっかりしてしまうとどうにも恥ずかしい。


 隣を見ると、ぼんやりと鯛焼きを見つめたまま、くるみはまだ手をつけていなかった。


「食べないんですか。冷めますよ」


「これ、どうやって食べればいいの?」


 紙に包まれた手の中の鯛焼きを物珍しそうに眺めまわし、くるみがおかしなことを尋ねてきた。まさか、鯛焼きを初めて食べるなんてことはないだろう。


「頭から食べるか尻尾から食べる派の話ですか? 案外くるみさんも庶民的な話するんですね」


 くるみはヘーゼルの目を丸くした。


「何それ。頭と尻尾と、どちらかからでも食べていいの?」


「たまにお腹からっていう人もいますけれどね。ちなみに僕は頭から食べます」


 ふぅん、とくるみが手の中のたい焼きをしげしげと眺めて言った。


「じゃあ私は背びれから」


「その心は?」


「誰かと同じより、違うことして冒険してみたいの」


「ずいぶんと可愛らしい冒険ですね」


 カリッと焼けた香ばしい背びれに、くるみが思い切ったように、はむっと小さくかじりつく。しかし中身まで到達しなかったようで、もう一口。今度はきちんとクリームまで頬張れたようだった。碧も冷めないうちにと、行き交う人を眺めながら食べ進めた。


 ふと隣から、心持ち甘さを帯びた声が聞こえる。


「……おいしい」


 それはよかったです、と振り返りざまに言おうとして、しかし言葉は出なかった。


 包み紙に上品に添えられたゆびさき。甘味を前に潤んでふにゃっと細められる、無垢なはしばみ色の瞳。


 中からとろりと溢れたクリームにそっと顔を綻ばせるあどけなさが、角砂糖のような甘やかさが、いつもの大人びた様子と違い年端のいかぬいとけなさを醸していて、どきりとしたからだ。


「鯛焼き……か。こんなにほかほかで甘い魚がほんとうに海にいたら、ペンギンもあざらしも喜ぶのにね」


 女子高生という歳にしてはこれ以上なく純情で夢見がち、ともすれば幼く聞こえる言葉を独り言ち、淡く笑みを浮かべる。



 ——綺麗きれいだな。

 素直に、そう思った。



 上品に鯛焼きをかじっている。ただそれだけのはずなのに、彼女の織りなす仕草や表情が、なぜだか大空から生まれたばかりの雪の結晶みたいに、透き通ったものに思えた。


 彼女の紡ぎだす声や言葉が、風吹けばはらはらと散ってしまう儚いものに思えた。


 どうしてだろう。心をぎゅっと掴んで、離してくれなかった。


 それから一秒、三秒、五秒。しばらくしてから自分が見惚れてしまっていることに気づき、慌ててそっぽを向いた。いまの表情を見てしまって本当によかったのかわからなくて、浮かび上がった動揺に鍵をかけて仕舞った方がいいのかすら判断に迷う。


 もともと会うたびに違う一面を見せてきて矛盾だらけの人だなとは思っていたけれど、こんな表情もするなんて知らなかった。


「……やっぱり甘いもの好きなんだ?」


 狼狽を何とかポケットに仕舞い込んでからそう尋ねるとくるみは、


「……別に。ただ、午前中に勉強したから甘いものがほしくなっただけ」


 と、さっきまでの解れた表情をすっと引っ込めて、やや恥じらうように目を逸らす。


 なんでかは知らないが、どうやら努力の軌跡のみならず、自らが甘党ということまで隠そうとしているらしい。


 だが甘味にとろけた面差しは正直だ。


 再びもふもふとかじり、口許くちもとを静かに緩ませる。小さな口でゆっくり食べているものの、頬がほんのりふくらんでいて、まるで木の実を集めるリスにそっくりである。


 そして眺めているうちに、彼女ってもしかしたら実はとんでもなく可愛いんじゃないか、と遅まきながら気づいた。正直、誰かに見惚れるのは人生初だ。


 確かに今までも彼女が可愛いという意見には全面的に同意してきたがあまりに完璧すぎるゆえ、稀代の作家がつくりあげた西洋人形ビスクドール、あるいは神様に捧げられた聖女の像を眺めている感覚に近かった。


 けど、今は——


「なにみてるの?」


 彼女に惚けていたのがばれていたみたいで、いつの間にか、くるみが横目でこちらを向いていた。いつもよりずっと柔らかく解けた瞳で、心做しか、声も棘が抜け切っているような気がした。さしずめ、いが栗むいちゃいました、というところか。


 くるみさんが次辛辣なこと言ってきたらリスがいが栗を投げてきてるとでも思ってやりすごそうかな、なんて思考に耽っていると、くるみはすっと半目になった。


「なんかとてもよからぬこと考えてる気がする」


「やだな、そんな事ないですよ。くるみさんってリスに似てるなって思っただけ」


「リス? ……どうして?」


「な、なんでもないです。そういえば、鯛焼きをどこから食べるかによって性格診断ができるそうですよ」


「……そうなの?」


 ごまかし方がやや強引だったか、とハラハラしたが、幸い興味を持ってもらえたようだ。


「あなたは頭からなのよね? どんな性格?」


 覚えているわけじゃなかったので、スマホで検索して答える。


「えーっと…………頭から食べる人は〈楽天家で大雑把で優しい〉」


「あなたらしいわね」


「もちろん一番最後がですよね?」


「それで、背びれは?」


「スルーしないでくださいよ」


 鯛焼きをもう一口かじってから、スマホの画面をスクロールさせる。


「えっと背びれは、〈子供っぽくて甘えん坊で寂しがりや〉……くるみさん面白いくらい全然当たっていませんね」


 隣を見ると、くるみは瞳をきょとんとさせていた。


「くるみさん?」


「……ううん。何でもない。そうよね、甘えん坊だなんて、まるで私の対義語みたい。なんなら私が誰かに甘える日だなんて今後生きているうちに一度たりとも訪れないわ」


 とあるフランス皇帝の辞書に不可能の文字がないように、くるみの辞書には甘えるという文字は載っていないらしい。


「なにもそこまで言います?」


「だって私、誰にも頼らないもの」


 ぴしゃりと言い放つ。それはこれまでの断言なのか、これからの決意なのか。


 思えば確かにそうだった。資料を運ぶ時、手を出されるのを嫌がっていた。人からの優しさには必ず対価を払おうとした。きっと前者これまででもあり、後者これからでもあるのだろう。負けず嫌いな上にものすごい完璧主義者なんだろうか。


「あなたって、このあいだ学校で見かけた時……お友達と話していた時はもうちょっと子供っぽかったのに。外だとけっこう大人しいのね」


「人のこと猫かぶってるみたいに言わないでくださいよ。男なんて友達とつるんでる時はみんな子供でばかなんです」


「……別に、貶すつもりはなくて。いつもそうならいいのにと思っただけ」


 本当に悪気はなさそうなのだが、その言葉は彼女自身にも当てはまる。


 意趣返しのつもりではないが、碧はそのことを指摘した。


「くるみさんも学校じゃいつも愛想笑いじゃないですか。いっつもにこにこしてるけど、本当にただ笑ってるだけで楽しくなさそうというか。学校でも今みたいに、もっと自分のいたいようにいればいいのに」


 ぱちり、と目を瞬かせるくるみ。


 それは本当に、虚を衝かれたといった驚きを伴ったもので。


 しかし言葉を受け入れるにつけ、そのヘーゼルはすぐに忌々しげに冷厳と細められた。


「……ただ笑っていることに、何か問題でもあるの?」


 思うところがあったようで、ぼそりと、しかしはっきりとこぼされた言葉の温度に、目の前に白い火花が散る。周りの喧騒が潮が引いたように遠ざかり、碧は自らの再三に渡る失言を強く悟った。


「うーん。あるかどうかで言えばないんでしょうけど……」


「……じゃあいいじゃない。私のことなんか放っておいても。私がそうしたいからしているだけなんだから」


「それは……ごめんなさい」


 さすがに踏み込みすぎたか、と反省する。


 彼女からしたらきっとそれは処世術なのだ。今までの人生でそうやって切り抜けてきた方法に何も知らない人間から横槍を入れられて、いい気がしないのは当然だ。


 でも、放っておけないのもまた確かだった。少なくとも一緒にいる時の彼女の方が、碧からしたら程よく力が抜けていて、ありのままに見えたのだから。


 それは彼女が碧にとっての特別だからではない。ただ波風立てずに振る舞おうとしている姿を、彼女自身が真に望んだこととは思えなかった。


 放っておけなかった、なんてのは事実だが殺し文句にしてはあまりに手垢がついた言葉だし、くるみにそれを言ったところでなので、碧から何か言うつもりはない。


 が、最後に一つだけ……お節介を差し上げたくなった。


「確かに、くるみさんがそうしたいなら僕に何か言える義理なんかない。人のやり方に文句つけれるほど僕は偉くもないし、友達ですらない間柄なんだから」


 迷いと後ろめたさを、心の底にほうきで掃いて追いやる。小さく畳んだ包み紙をきゅっと握りしめ、ベンチを立った。隣の少女を見据えてから、そのまますぱんと、まっすぐに切り込む。


「けど、学校のくるみさんよりも今のくるみさんの方がずっと可愛げあって……少なくとも、僕は好ましいと思います」


「なっ……」


 くるみは鯛焼きのさいごの尻尾を持ったまま、唖然とした。


 先ほどまでの冷たい怒りをそっちのけにその頬にまだ早い桜色が宿っているのを見て、不思議に思いつつ己が発言を省みて、気づく。


「……っいや、好ましいって別にそういう意味で言ったんじゃなくて」


 己の危なっかしい発言に、雷光の勢いで慌てて言い訳を重ねる。


 くるみもそのあたりは分かっていたらしく、恨みがましさと恥じらいを含み揺れる瞳で碧を睨んでいたが、やがて落ち着きを取り戻そうとするかのように、はぁと小さくため息。あれだけ告白されているのだから、てっきり浮ついた言葉には慣れていると思ったのだが、案外そうでもないらしい。


 正直、これを言って嫌われようがどうだってよかった。もともと関わり合いになるのが間違っているくらいには住む世界が違うのだし、そんな彼女の手料理を一度でも頂けたのは人生の僥倖と言っても差し支えないが、このまま無理をしているような彼女の隣に居座って何も言ってやらないくらいなら、自分から去ってでも伝えた方がいいと思ったのだ。


 彼女相手に正面切ってそんなことを言える人間なんて、なかなかいないと思ったから。


 本の入った紙袋を持ち上げて、片手を上げた。


「僕はもう帰ります。重ね重ね、ごはんありがとうございました。じゃあ」


「……待って」


 まさか呼び止められるとは思わず、振り返る。


 見るとくるみがこちらに向き合って、長い睫毛を伏せて影絵を生み出しながら呟いた。


「その……ありがとう、とだけ言っておく」


 予期していなかった言葉に、え、と咄嗟とっさに声が洩れる。


「だからっ……くんが鯛焼き、くれた……から」


 ——ああそっか、鯛焼き。

 いや待て、それよりも僕のこと今なんて——


「今、僕の名前……」


「……別に名前くらい呼ぶのはふつうでしょう? あなたが私のこと下の名前で呼ぶから私もそうしたまでだけれど、苗字の方がよかったかしら」


「覚えててくれたんですね。てっきり忘れてて聞き直せないのかと」


「そんなわけないでしょう。あんまりうるさいともうごはん作ってきてあげませんから」


 ツンと愛想のないくるみに、思わず吹き出しそうになった。


「なんかまた作ってくれるみたいな言い方なの笑う……これで関わりは終わりって言ったの誰だったかな」


「別にいらないならいい。言っておくけれど、碧くんのリクエストは聞きませんから」


「いやいや、いらないなんて一言も言ってませんよ」


 名前を呼ぶ、という人との関わりの上で出会って十秒で行われるようなやりとりのはずなのに、なぜだか彼女が相手だともどかしく、そして面映く思えた。


 それはきっと、かんかんの夏空に散らばりながら降る奇跡の雪のような、あんな突飛で儚い出会い方をしたせいかもしれない。


 もしそうなら、運命という言葉だってちょっとは好きになれそうな気がした。


 今度こそさよならをして広場をはなれる。


 残された少女は遠ざかり小さくなる少年の背中を眺めて、ぽつり。


「……あんなこと、誰かに言われたの初めて」


 紡がれたような気がしたそんな小さな言葉は、ほんのり温かさを帯びていて。


 去りゆく碧に届くことはなく、乾いた空っ風……あるいはせっかちで気の早い春一番に吹かれ、どこかへ飛んで行った。

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