第6話 真逆の世界の彼女(2)
とんとん、とまな板の上で包丁がウサギのように楽しげに跳ねる音。あるいは、かたかた、と鍋の蓋が踊る優しい音がキッチンを温かく満たし、空腹を呼び覚ます匂いがダイニングに広がっていくのに、そう時間はかからなかった。
初めは楽曲を流していたが、普段は聞くことのできない〈自分でない誰かが夕食の支度をする音〉にもうちょっと耳を傾けたくて、音量を下げる。
細い背にかかる亜麻色の結い髪をくらくらと揺らしながらせっせと調理するくるみの姿がなんだか現実じゃないみたいで、碧はカウンターキッチンの向こうからまるで人形がひとりでに動いているのを目撃したひとのような気持ちで眺めていた。まさに、現実は小説より奇なり。
彼女がお礼を申し出てくれなかったら知ることのなかった景色を前にして、その辺の家ではこれを毎晩聞けるのか、と不思議に感慨深くなる。なんだか、見知った街を出て遠くへ来てしまったようだ。
ドイツでは〈kaltes Essen〉という冷たい食事をとる文化があり、食事にあんまりこだわりのない碧の父も料理ができない故にそれにあやかって、食卓はいつもチーズや野菜を挟んだパンばかりだった。家事も出来ないのに子供を連れて海外移住だなんてかなり破天荒なことをすると今では思うが、そうしてまでやりたい仕事が父親にはあったのだろう。
チェストの横に置いてある小さな鳥籠に近づき、かけてある布を取ってやる。
「モチ、お前も外に出たいか」
旅行中の従姉弟から預かっている文鳥に小声で話しかけると、モチは止まり木をぴょんと跳ねてから首を傾げた。
*
ほくほくと、いい匂いの湯気が立つ。
その出所はダイニングテーブルの上に広がる、彩りの良い一汁三菜の和食。
碧が椅子に座って目を瞠っているうちに次々にお皿が並べられ、気づけば晩ごはんの支度は済んでいた。
鍋などの洗い物を済ませたらしいくるみは、シュシュで結えた長い髪をしゃらんと解きながら言う。
「どうぞ、温かいうちに召し上がれ」
それは碧からしたらかなり見覚えのあるメニューで、きらきらとした食卓に前のめりになりながら、感銘のあまり思わず色めき立った。
「これ……あの水彩画のご飯だ」
そのうえ彼女の作った料理は、少なくとも見た目だけなら百点中二百点を取るくらい完璧だった。彩りもよく、そのまま料理本の表紙に使ってもいいくらいだ。
久しぶりのまともな食事を前に、碧は耐え難い空腹に襲われた。
「あなたの絵は秋刀魚だったけれど、今日は広告の品だったから
こんなちゃんとしたお家ごはんがあまりに久しぶりなものだから、碧はくるみの解説も馬耳東風ですっかり惚けてしまっていた。
「……この家事手伝い妖精さん、時給いくらで雇えるのかな」
「何言ってるの?」
「いや毎日来てもらったらさぞ幸せなんだろうなと」
「ばかも休み休み言いなさい、これは義理返しだからよ。別に好きでやってることだけど、それでもあくまでお礼なんだから
「手厳しめのツンデレだ」
この少女が可愛らしい甘えを見せるなんて想像もできないな、と小さく笑うと、くるみはしめやかに眉を寄せた。
「つんでれとか何だとかよく分かんないけど、ちっとも人生の役に立たない言葉なのは分かる」
「漫画とかあんまり読まないの?」
「そういうの、読んだことない。けどいいの。食事終えたらお皿洗いとか後片付けくらいはできる?」
「なぜ子供扱いされているのかは分かりませんけど出来ますよそれぐらい」
「そう、いい子。じゃあ私はそろそろお
「……え? くるみさんは食べてかないの?」
虚を衝かれたように、帰る準備をしているくるみをぽかんと見つめる碧。それを見てくるみは、どうして私が、と言いたげな風情でこちらを見上げて嘆息した。
「私はお礼のためにごはんをつくりに来たのであって、あなたと食事をするために来たんじゃないもの。なのに
「づく……なに? なんて言ったの?」
「目的果たしに相手のところに行ったら逆に捕らえられちゃったという意味の
そんなことを言われても帰国子女だから仕方ないじゃないか、と反論しても無駄だろうので碧は諦めて口を噤んだ。できれば難しい言い回しは控えてくれると嬉しいのだけれど。
「くるみさんって
「私が杓子定規なんじゃなくて、あなたが妙に親しげにしてくるだけです。そもそも私のことをいきなり下の名前で呼んで来る人なんて、あなたくらいだわ」
ほぼ初対面の男の家に上がり込んでくるそっちはどうなんですか、と物申すほど恥知らずではなかった。お礼のためで仕方なくというのは分かっているからだ。
「とにかく義理は果たしたわ。じゃあ私はこれで。お料理は温かいうちに食べること。もし多かったり残したりしたらそのままにしないで、きちんと冷ましてから仕舞うのよ。温め直すときは別の陶器のお皿に移し替えて。それじゃあ……
まめまめしく対象年齢六歳向けの説明を残してから、結局引き止める間もなく、くるみは呆気なく去っていく。またね、という再会の気配を覚えさせるぎこちない言葉を、料理と共に残しながら。
玄関のドアがぱたんと閉まる音を聞き届けて、しかし彼女の言うとおり温かいうちに食べた方がよさそうなので、若干のためらいを残しつつも碧は箸を手に取った。
「……いただきます」
まず、主菜らしき魚が乗った菊皿に手を伸ばす。
唐突に、目が覚めたような気がした。
「……何これ、めちゃくちゃおいしい」
一言でいえば、極上の味だった。
ここまで料理の上手な女子高生がいるのかというところにまず驚いたし、それがあの神々しいまでに高貴な
この腕前と行き届いた味を基準にしたら世の殆どの女子は怒りそうだし、碧も今後一人暮らしできなくなるに違いない。やっぱり時給交渉しとけばよかったな、と後悔。
そこからはもう夢中だった。
綺麗な卵焼きを丸ごと箸で掴んでかじる。だし巻き玉子らしく、上品な甘みの含んだ出汁がじゅわっと口いっぱいに染み出る風味に、この上ない幸せを感じた。
箸が止まることはなかった。
生姜の風味のある肉じゃがはしっかりと煮込まれ、人参や玉ねぎから滲み出た露を含んだ煮汁はほんのりと甘く、体に優しく染み入る。ほっくりとしたじゃがいもと牛肉の甘みが渾然一体となり、気付けば小鉢の中身はそこにあった痕跡すら残さずなくなっていた。
思い出したように、汁椀を手に取る。
日本人の心を芯から目覚めさせるような芳醇な香り。手間を惜しまず、一から出汁をとったのだろう。普段あまり味に無頓着な碧でも分かるほど、歴然とした香りの違いを感じた。
気づけば全ての皿が、米粒一つ残さず綺麗に空になっていた。
格別の味であること以上になにより、義理返しという目的はともあれ自分のために手間ひまかけて用意された〈誰かの手作り〉という事実に、腹の底からじんわりと温かくなっていた。こんなのは初めてだ。
「……ごちそうさま」
いろんな世界を見てきた碧にあたらしい世界を教えてくれたのは、いつもの日常に何の脈絡なく現れた、ちょっぴり世情に疎い
すぐに言葉が出てこなかった代わりに、ぶわりと心を彩る風が吹き抜けた気がした。
まるでお菓子の缶の底で眠っていた白黒の古い写真が、カラフルな七色にあふれていくみたいに。
「……またね、か」
この日から碧は学校で、ふとした瞬間にくるみの姿を探すようになる。
——まめまめしく家事手伝いをする可愛らしい妖精。
外国の伝承で語られるそれがまさか実在したなんて。
世界はまだまだ知らないものだらけだな、と碧は椅子にもたれて独り呟いた。
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