第5話 真逆の世界の彼女(1)

 十六歳になって、碧は初めて女の子を自宅に連れ込むことになった。


 それもどんな因果か、相手は学年一の人気を誇る高嶺の花。


 七階建マンションの最上階で降りて通路を進み、突き当たりの玄関の鍵を開ける。くるみはよほど礼儀正しいようで、どうせ誰もいないのにぺこりと折り目正しく綺麗な礼をしてから上がり込んできた。


「すてきなお家ね。おじゃまします」


 と当たり障りのない世辞をくれたが、碧にとってはさして面白みもないリビングだ。


 父親が置いていった無駄に大きいダイニングテーブル。木目調のローテーブルと、布張りカウチソファ。古い硝子でできた食器棚、一般文芸の古本が閑散と並んだ素朴な本棚。父親が向こうで買って送りつけてきたロッキングチェア。


 見慣れた温白の灯りの下に見慣れない人がいるのがどうにもちぐはぐで、やっぱりいつもみたいにくつろぐことはできなさそうだ。


 二人きりの静寂を跳ね除けるように、碧はBluetoothに繋いでスマホの音楽プレイヤーを再生する。やがて流れ始めたフォーレ作曲『Sicilianoシチリアーノ』の幻想的な調べは、家に妖精という本来ありえない光景には打ってつけだろう。


 荷物をおいてまっさらなキッチンに立ち、ティーパックの茶葉やインスタントコーヒーを入れているかごを覗いた。


「くるみさんはコーヒーと紅茶どっちがいいですか?」


 ケトルに水を注ぐが、返事がないので振り返る。カウンターの向こうでくるみは何かが引っかかっているような面持ちで、ちょっぴり居心地悪そうにソファの隣に佇んでいた。


 それでいて何も言ってはこないのだが、どんなことを思っているのかはおおむね予想がついた。それを代理で言葉にしてみる。


「……もしかして、人の住んでる気配がないとか思ってますか?」


 どうやら当たっていたようで、彼女はぱちりと瞬きして、沈黙したまま神妙な面持ちでこちらを見る。

 くるみがそう思うのも無理はない。


 この一人で住むには広すぎるリビングには、家具も食器も台所も、人が手をかけて愛でたり生活した痕跡はどこにも残ってない。父親の集めたウイスキーが棚に並ぶこともなければ、母親の買ってきた旅先の土産がチェストの上に並ぶこともない。ましてやここに確実に住んでいるはずの碧のものだって、読み終えた本が棚にちょこっとあるくらいだ。


 床も物一つ落ちていなく、綺麗に整えられた部屋といえば聞こえはいいが、要するに借り物の部屋……ウィークリーマンションを思わせるほど。


 碧は気にした風もなく微笑んだ。


「事実、僕が寝泊まりするだけですからね。この家は」


 あまり想い出がない家なんですよ、と碧。


 言葉の意味を押し測ったらしいくるみが、そっと眉を下げた。


「言いたくないなら無理して言わなくても……」


 根が優しいのだろう。碧に対していばらの棘をまとっていても、人前で見せる温厚さは健在のようだ。


 だが別に隠すことでも話しづらいことでもないし、いずれ言うことがあるなら今話しておいた方がいい。彼女も引っかかりを覚えたまま時間を過ごすより晴れやかにしていたいはずだ。


「語りたい気分なので、聞き流してください。まあ、大した話でもないんだけど」


 くるみをソファに座るように促しながら、ケトルにお湯を沸かす。ゆったりとした音楽に後押しされるように、まるで友人に明日の予定を話すような気軽さで理由を語った。


「親は仕事で忙しいのでいつも家を空けています。で、ほとんど帰ってこない。役所の書類上は母と二人暮らしなんですが、そんな理由から僕は事実上の一人暮らしです」


 くるみは黙って続きをうながす。


「母親は多忙と通勤時間を鑑みて会社の近くに社宅を借りているんです。こっちに来たとしても休みが取れた時とかで月に一回くらいかな……。僕がここに帰っても誰もいない。だから僕も放課後はすぐに家に帰らないで、友達の家に行ったり、部活の声を聞きながら美術室でのんびり過ごしてたんです。そのほうが、孤独がまぎれるから」


 秋矢家は四人家族だ。


 だがその実情はシャッフルされたトランプの絵柄のようにばらばら。父は仕事の都合で、碧の妹と一緒にずっと外国暮らし。母は日本の大手出版社で、担当は週刊誌。


 碧は物心のついた六歳から十五歳までは、親の仕事の都合で移住したドイツで父に育てられた。


 本当は日本に来るつもりなんかなかった。自分の目指すもののために、外国で進学をして独り立ちをする予定だった。しかし父親の強い説得により、日本の高校に進むことになったのだ。


『大人になる前に一度日本で学生時代を過ごして、その時間を覚えておきなさい』


 それが、成田行きの飛行機に乗る碧をベルリン空港で見送った、父親の言葉だ。


 本当の意味は、いまだよく分かっていない。世界のどこにもなくて、小さな島国にしかないものなんて美しい四季と自販機くらいだと思うし、高校三年間をどこで過ごしたってそう大差なんかないと思っている。なんなら、長年暮らした向こうの方が慣れていてずっといい。この部屋だって、誰かに貸した方がお金になる。


「まあなんだかんだ楽しんでますけどね。どうせ一人暮らしなら友達を家に泊めて夜を明かしたり、真夜中にちょっと散歩してみたり。いろいろと好き勝手できるから楽しんでみようかなって」


「……自由な暮らしね」


 ケトルから熱い湯がよじれながらほとばしり、水彩画が滲んでいくように紅茶が染まっていくのを見届けてから、ふたつのティーカップを運んだ。


 しかしそれには手をつけず、くるみは行きで買ってきた食材をワークトップに置き、振り向きざまに尋ねる。


「期待はせずに訊くけれど、エプロンとかはある? さすがに調理実習もないのに持ってきてはないから、貸してくれると嬉しいのだけれど」


「逆にあると思いますか?」


「……そうよね。万に一つでもあると思った私が悪かったわ」


 碧が開き直ると、くるみは心底呆れたように、けんもほろろに言い切る。


 きれいな何とかには棘がある、という言葉がここまでどんぴしゃに似合う人間もなかなかいないだろう。


「エプロンのひとつも用意がないなんて、あなた本当に自分で料理しないのね」


「米を炊くことが料理に入るのであればよくするという回答になります。ついでに言うと、エプロンは前回の調理実習で使ったのがどっかにあるはずなのが行方不明なだけで、探せばちゃんとあります」


「……じゃあ、お礼としてはまさにうってつけだったというわけね」


 頼りがいのかけらもない回答は華麗に知らんぷりして、くるみはそう結論づけた。


「できるまであなたはその辺で待っていて。お礼である以上、おいしいのを出すから」


 どうせただの義務なのに、自信ありげにそう言って制服のボレロをするりと脱ぎ、畳んでトートバッグにしまう。

 長い髪をしゅるんとシュシュで一つに束ねて白のセーラーシャツ姿になった彼女は、肘のあたりまで腕をまくると、早々に晩ごはんの支度を開始した。

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