第4話 憧れ(3)

「……で、お礼って何するんです? 僕としては缶コーヒーを一本とかでいいんだけど」


 互いに名乗ったあと碧が尋ねるとくるみは、おとがいに指を当てて瞑目してから、まるで先生に当てられたから問題の答えを述べた優等生のような正当な響きでとんでもないことを宣った。


「それじゃああなたがしてくれたことに釣り合わないわ。……そうね、私にできることで、尚且つ〈付き合ってくれ〉とか〈婚約してくれ〉じゃなければ。あなたはなにか困り事とかはない?」


「つきッ……!?」


 手の中のスマホが机に、がつんと音を立ててすべり落ちる。


 明らかに狼狽える碧に、くるみは心底申し訳なさそうに眉を下げた。


「ごめんなさい、他意はないの。ただ、今までそういう要求をしてくる人が多かったから、先に釘を刺しておいただけ」


 これが鼻にかけた天狗の発言にならないのは、くるみの言うことが事実だからだろう。


「……なるほど。けど、ちょっと待ってください」


 くるみは律儀に碧の言葉を待ってくれるので、これを訊いていいのか迷いながらも尋ねる。


「あの、僕も他意はないんですけど。いいんですか、僕なんかにこんなことして。その言い方だと逆にそういうこと以外はしてくれるって風に聞こえるんですけど……その、彼氏とか、嫌がるんじゃないかなって」


 別に疚しい気持ちがあって訊いているわけではない、断じて。ただ、その彼氏とやらに申し訳ないだけだ。


 他意はない、という言葉を訝しむようにじとっと半目で見てから、くるみは小さく零す。


「お気遣いなく。恋人はいないから」


「え、そうなんですか? あんなに人気者なのに」


 と、驚きの情報だったのでついぼやいてしまった碧。


「真剣でない方の想いに応えるわけにはいかないから、お断りすると決めているの」


「一世一代の告白なんだから少なくともみんな真剣なんだと思うけれど」


「……真剣じゃないわ、誰一人ね。あんまりしつこい人には蓬莱ほうらいたまを持ってきてと言うと大抵は諦めて去っていってくれるから、今のところは大丈夫なのだけれど」


「賢い返しだなあ」


「義務教育なんだけれど。……あなたにも持ってきてもらおうかしら、つばめの子安貝」


「なんで僕まで? 君に求婚なんかしてないんだけど」


「……いいえ、なんでもないわ」


 言い返すと、なぜかこちらを見定めるように射貫いつらぬいてきたヘーゼルの瞳がふっと逸れた。


 そういえば、くるみに愛の言葉を捧げる男子生徒を今まで数多見てきてはいたが、彼女がその中の誰かと二人きりになっているところは一度もお目にかかったことはない。


 記憶の中の彼女はいつも、周りに一線を引いて接しており、美しく微笑みかけることはあれど、決してそのうちに入れることはしていなかった。くるみとて決して勘違いさせるつもりはなく、むしろお断りの意はしっかり伝えているのだろう。


「……お堅いんですね」


「私が堅いんじゃなくて、私に声をかける人の見境がないの」


 振られた男子たちに、同情の涙を禁じ得ない。


 高嶺の花も苦労するんだな、と他人行儀な感想を抱いていると、彼女が不思議そうな声を上げた。


「……これなに?」


 くるみがとあるものに目を止め、何やら興味深そうに尋ねてきた。その視線の先には、碧の持ち出した、布のかけられたキャンバス。


「ああそれ。僕の描いた絵です」


「絵?」


「放課後は時間を持て余しているので、退屈凌ぎに描いてるんです」


「見てもいい?」


 仕方なしに、キャンバスを隠す布をそっと取り去る。くるみも、隣からそっと覗き込んでくる。


 キャンバスの上に広がるのは、柔らかな水彩絵の具で彩られた、温かな晩ごはんの絵だった。肉じゃがに卵焼き、青菜のお浸しに魚の塩焼きといった日本の定番が、小さな四角形の平面に並んでいる。


 この美術室で読んでいた日本人作家の小説に出てきた晩ごはんの光景がすごく印象的だったので描いてみたのだ。


 碧はずっと海外暮らしだった。


 だからこういう光景には淡い羨望や憧れがある。


 誰かがキッチンに立ち、誰かと一緒に食べる日本の塩鮭は、卵焼きは、どんな味がするのだろう。それを碧は、帰り道にどこかの民家からただよってくる匂いから想像するしかできない。


 ふとお隣さんを見ると、視線の先のくるみは黙り込み、その絵を見つめている。その榛色の瞳を見て、碧ははっとした。


 ——……この目は。


 その双眸に、どこか、自分と同じ色を感じた。


 ショーウィンドウの中のおもちゃを見つめるような、欲しいけど絶対に手に入らないようなものを見つめるような、そんな幼い少女のような瞳。寂しさと憧れと羨望が綯い交ぜになったような儚い眼差しを、碧は確かにそこに見た。


 どうしてこの人がこんな目で僕の絵を見るのだろうか、と碧は疑問に思う。


 雪の日に彼女の瞳を見た時の、想起。


 そんな碧の動揺に呼応するように。


「……幸せそう」


 浮かべた表情をそのまんま声色にしたように、くるみがそっと羨望の息を零す。それこそが彼女の抱えている感情の決定的な答えのはずだが、そこから先が読み解けない。


 なぜなら、たった八十センチ隣に手の届かない存在のはずの妖精姫スノーホワイトがいる、という事実をいまさらながらに意識したから。


 彼女からふわりと、甘く涼やかな茉莉花ジャスミンと白桃を織り交ぜたような香りがして、碧の鼻をくすぐった。


 先日の雪の日はそうじゃなかったのに、碧は何となく気恥ずかしさというか気まずさを自覚する。それはここが学校の中——それも閉じられた教室に二人きりだからだろう。


 もしこの状況を誰かに見られでもしたら、白羽の矢がたつ。平穏な学校生活は二度と帰ってはこない。


 いや、それよりも、だ。下手な自覚のある自分の絵をまじまじと見られているのが、今はどうしようもなく碧にとっての羞恥だった。


「あの……大して上手くないので、あまり見ても面白くないかと思いますよ」


「どうして? とっても綺麗で上手だと思うけれど。あなたはこういうごはんが好きなの?」


「好きというか、こういうのを食べてみたいなーと言うか。今までこういうの食べた記憶ほとんどないし。家にはいっつも親いないし。お昼は購買のパン、夜は買ってきたお惣菜ばっかりだし。……何言ってんだと思われそうですけど。これは、僕の憧れる光景だったから」


 自分を偽らず、心からの言葉を渡した瞬間。彼女が、ほんの少し目を見開いた。


 それからくるみの視線は碧からすべり落ち、床を見つめたかと思いきや、今度は瞳を閉じてしばし瞑目めいもくをする。どうしたのかと様子をうかがっていると、何かを決心したように目蓋を持ち上げ、ぽつりと呟いた。


「……決めた。あなたへ返すお礼」


 どこまでも透き通った美しいヘーゼルの瞳が、真正面から、まっすぐに碧の双眸そうぼうを射抜く。


「今日の放課後は空いているかしら?」


「ええ、まあ」


「じゃあ今からあなたのお家に行って、お礼にごはんを振る舞います」


「はあ…………え?」


 お礼——恩恵または贈り物を受けたのに対して、感謝の意を表わすこと。


 理解が及ばず、舌をひるがえすあまり咄嗟とっさに声が出た。


「ご両親はいらっしゃらないのでしょう? なら、さっそく行きましょう。途中で食材を買い込んでいくわね。道案内はおねがいできる?」


「案内はいいですけど、なんでお礼が料理……?」


「あなたがそれを、一番に望んでいそうだったから」


 心の中を見透かしたように言うくるみに、碧は言い返せずにいた。


 あまりに急展開だが、お礼を受けると言ったのは碧だし、せっかく自分のために作ってくれるのなら、親切は受け取らないと失礼だろう。


 なにより葛藤を天秤にかけた結果、申し訳ないという気持ちよりも、あの憧れのごはん——しかもスノーホワイト様の手料理を食べることができるということに対しての好奇心が勝ってしまっていたから。


「お礼ですもの、必ず義理は果たします。じゃあ学校の裏門で待っているから」


 ——どうやら、隣のクラスの妖精姫スノーホワイトの正体は。

 ブラウニーだとかシルキーだとかの、家事手伝いをする妖精さんだったらしい。

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